2014/11/11

「体罰の問題」@〜証拠主義のコスト  教育・学校・教師


 いわゆる「舞鶴女子高校生殺人事件(2008年)」について、無罪が確定したばかりの男が大阪で38歳の女性を11か所も刺して逮捕されました(11月5日)。幸い被害者は一命をとりとめたようですが。
 このニュースを聞いたとき、即座に思い出したのは1996年の小野悦男事件です。この男も殺人事件で無罪判決を受けた後、大きな事件を起こしたのです。

 1974年、小野悦男は19歳の女性の殺害容疑で逮捕されました。当時首都圏では女性が乱暴され殺されるという事件が相次いでいて、殺害方法も焼殺や穴埋めという残虐なものでした。手口から同一犯の犯行も予想され、小野は最大10件(被害者12人)について疑いがもたれマスコミも大きく取り上げました。しかし検察が立件できたのは1件だけ、しかもその1件について高等裁判所が無罪の判決を出したのです。
 彼には大きな支援組織がついており、マスコミも“お詫び”も掲載して大きく取り上げたので、小野はまたたくまに時代のヒーローとなります。しかしわずか一年後には窃盗容疑で逮捕、服役。さらに出所 後まもない1996年、5歳の幼女の首を締めた殺人未遂で逮捕されます。その捜査の中で、別の女性の殺人・死体損壊(遺体の切断と焼却)が明らかになり、遺体の一部は彼の住宅の裏庭と冷蔵庫の中から発見されたのです。実に残忍です。小野はその後、無期懲役になっています。

 両事件とも新たな犯罪のために以前の判決が覆るわけではありません。したがって彼らは“無罪”のままですが、先行した事件について “無実”であることは疑わしい、それも相当に疑わしいのです。
 ここでは当然、「先の事件で有罪にしておけば新たな被害者は生まれなかったのではないか」が問題になります。「なぜ無罪にしたのか」と裁判所が非難されるのもやむを得ないところでしょう。しかしどひっくり返してもこの裁判は無罪なのです。同じ裁判を何度やっても、無罪判決しか出ません。日本の裁判所が証拠主義を取る限り、有力な物的証拠がないと有罪にはできないのです。

 言うまでもなくそれは冤罪を避けるための手立てですが、そうなると今回の事件や小野の事件のように無罪になった元被告(実は真犯人?)が再び同様の犯罪を起こす可能性が残ります。
 冤罪を出さないための方策が新たな犯罪を生み出すことになるかもしれない、そして実際に被害者が出てしまった――。しかしこれは社会的コストであって、被害者やそのご家族の気持ちを考えると言葉にしにくいことですが、社会全体として耐えていくしかないことなのです。

 今回のことを考えると不条理窮まりないような気もしますが、私は強くこの制度を支持します。そして支持する以上、私や私の家族が“野放しにされた犯罪者”によって被害者となる可能性も甘受しなければなりません。
 それが耐えられるのは、こうした犯罪の被害者になる可能性は、私や家族が(痴漢や窃盗も含めると)冤罪の当事者になる可能性よりもおそらく低いからです。何かを得るためには何かを犠牲にしなければなりません。

 さて、実は今日は、体罰についてまとめるつもりでした。しかし前置きを描いているうちに紙面が終わってしまいました。
                                 (この稿、続く)
 
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2014/11/10

「天国と地獄」  いいこと


 ちょっとした芸をご披露します。若いころに仕入れたものですが、以後、目にしたことがないので案外知られていないのかもしれません。
 紙飛行機をひとつ作って、こんなふうに話を始めます。

@ 「大型旅客機がちょうど200人の乗客を乗せて飛び立ちました」(実際に飛ばす)
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A 「しかしすぐに墜落し、海の上で真っ二つに割れてしまいました。(落ちた紙飛行機を手でちぎって二分する。やり方は別に示します)
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B 「実は乗客の半数、100人は悪人でした。ですから彼らは死んでここに行くことになったのです」(飛行機の破片を開きながら並べる)
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(HELLの文字が並ぶ)

C 「しかし残る100人は良い人たちだったので、こちらに行ったのです」
(そう言いながら胸の前で最後の破片を広げる)
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(十字架)

 破った紙の切れ端が一枚も余らないのがミソです。
 最も重要なポイントは十字架を示す場面。うっかり途中で開けてしまわないように。十字架のパーツは飛行機の胴体の下の部分、バラバラになったパーツの中で最大のものですから、最後まで取って置きましょう。

 中学生以上だとウケること確実です。

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 紙飛行機の作り方とちぎり方はこちらです。→s.doc


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2014/11/7

「ウサギとクマの話」  政治・社会


 ウサギを3羽飼っています。
 1羽は娘が学生時代に買ったもので、引っ越しをしたら新しいマンションに入れられず、私のもとに来ました。ネザーランド・ドワーフという種類でピーター・ラビットのウサギとして知られています。他の2羽より一回り小さく、下(しも)のだらしない男の子です。フンをまき散らすのです。
 抱っこされるのが苦手で持ち上げると大暴れし、時には手を噛んだりします。他の生き物も怖くてイヌやネコに会うとパニックに陥り、恐怖のためにジャンプして、あろうことかイヌやネコのいる方に逃げたりします。あちらの方がびっくりしてしまいます。
 ほんとうに情けない子ですが、娘が寂しい時期に慰めてくれたウサギですし、できの悪い子ほどが愛おしく可愛いのは学校の児童生徒といっしょですから(他の2羽にバレなように薄く)エコヒイキしています。

 あとの2羽は兄妹で、ミニ・ウサギという名前で売られているものです。事情があって妻が連れてきました。たぶんネザーランド・ドワーフの雑種ですが生まれて半年以上ペットショップにいたので人馴れし、他の動物にも怯えません。抱かれると自然におとなしくなるので誰からも可愛がられます。

 兄貴は食いしん坊のノンビリ屋で昼夜関係なく良く食べ、良くフンをします。しかし多少ずるいところもあって、庭につなげて遊ばせておくとこちらに背を向けたまま、一生懸命リードを噛み切っていたりします

 妹ウサギはお転婆です。外に出して運動量の一番多いのもこの子です。ときどき飼い主のところに戻って愛想を振りまくことも忘れません。ただし外に出す時間が遅れると、トイレをひっくり返して暴れたりもします。一度などはひっくり返したトイレからオシッコ・シート引きずり出し、噛み千切って切れ端を口にくわえ、「ウー、ウー」唸りながらこちらを睨んでいたこともありました。
 イライラすると床の簀の子を齧るので、この子だけは半年おきに交換しなければなりません。機嫌が悪いときに人がエサ鉢に手を伸ばすと、腰を引いて前足で威嚇したりすることもあります。

 私はもともと動物がそれほど好きなわけではなく、ペットも(熱帯魚を除けば)これが初めてです。しかし1年半、朝晩めんどうを見ているとやはり情が移ります。ウサギたちのちょっとした表情にも心を読み取ったような気分になることもあります(もっともウサギは頭の悪い生き物ですから、感情のやり取りができたような気のするのはおそらく錯覚です)。


 さて、本題はクマです。
 山のどんぐりが凶作で、里にエサを探しに降りて来たクマがあちこちで目撃され、たいへんな騒ぎになっています。私の携帯に入るメールも連日ほとんどが市民に注意を促す「クマの目撃情報」です。そしてたびたび「発見され、殺処分になりました」とあります。先週のニュースでは全国で350頭以上が殺されたとありましたから、今週はさらに多くなっているはずです。

 たくさんの農作物が荒らされ、けがをされた方も亡くなった方もおられるので致し方ないのですが、しかしそれにしても何とかならないものか。捕獲されたクマの瞳は私の飼いウサギの瞳と同じはずです。エサを求めて降りてきただけなのになぜ殺されなければならないのか――。

 そもそもどんぐりを食べハチミツを舐めるだけみたいな平和的なクマに、なぜあんなに強い腕と鋭い爪が必要なのか(もちろん木に登ったり蜂の巣を掘ったりするためというのも分かりますが)――神様はときどき難しいことをなさいます。

 ある知り合いの曰く、「そこを何とか(クマと)話し合って、エサを持たせて山に帰ってもらうというわけにはいかないのかしら」
 自然との共存というテーマには違いなのですが。


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2014/11/6

「無名のジョブズ」  教育・学校・教師


「なぜ日本にスティーブ・ジョブズが育たないのか」という命題があります。つい最近もテレビでそんな話をしていました。しかし、いかがなものでしょう。ジョブズはそんなに必要なものなのでしょうか。

 話を始める前にジョブズを定義しておきます。このテーマで語るとき、「ジョブズ」には共通の概念があるからです。それはおそらく次のようなものです。
  @ 非常に独創的な製品を開発または企画し、
  A 周囲の反対や圧力にも屈せず、
  B 独占的な利益を確保して企業や国家に膨大な利益をもたらし、
  C 時代を大きく転換させる人材
 そんなところでしょう。

 そしてそんな概念から日本社会や教育を考察し、やれ「平均的な力を求める日本の教育」だとか「横並びを好む企業風土」だとかいった話になるのですが、日本の社会や教育をいくら考察しても実際はダメです。なぜならスティーブ・ジョブズもビル・ゲイツもアメリカ社会以外には生まれていないからです。イギリスにもフランスにもドイツにもいません。つまり考察すべきはアメリカ社会なのです。

 しかしその上で、正直言って私は「なぜアメリカはジョブズやゲイツを輩出できるのか」というテーマに真剣につきあう気にはなれないのです。なぜなら子どもが小さなころから「成功しなさい」「勝ちなさい」と言われる続ける国をいくら考察しても、「我慢しなさい」「人に迷惑をかけてはいけません」と教えられて育つ日本が近づけると思えないからです。また近づいてもいけないと思うのです。

 そもそもなぜジョブズやゲイツを生み出す必要があるのか私には分かりません。たしかに日本はウィンドウズもアイフォンも生み出すことはできませんでした。しかしこの国にはトリニトロン・テレビがあり、VHSビデオがあり、ウォークマンがありました。トヨタのプリウスはすぐに後を追ったホンダですら互角の勝負をするために15年もかかった先進的なハイブリットです。今やガラケーと揶揄される多機能携帯も、アイフォンと紙一重のところにいたはずです。

 現在、静かに進行している燃料電池自動車や各種ロボット技術、バイオ技術や医療技術はやがて世界を席巻するはずです。その開発者に名前がないことが、どうして不満なのでしょう。この国に「無名のジョブズ」はいくらでもいます。

 私は技術を独占して企業に利益をもたらし、そのついでに国家を潤し慈善事業に資金をつぎ込むアメリカ型スーパー・タレントよりも、私(わたくし)の独占から技術や価値を守り、全体のために使おうとする生き方のほうが好きです。言い方を換えればスティーブ・ジョブズやビル・ゲイツよりも山中伸弥の方が好きだということです。なぜそれで満足できないのか。

 国民性は有機的なものですから外国から「あれ」を輸入して「これ」を入れないということはできません。「あれ」と「これ」は手をつないでやってきます。一方でジョブズを生み出しながら、他方で震災に際してきちんと並ぶ国民性を残すことはできないのです。

 日本をアメリカにしてはいけません。


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2014/11/5

「100人学級だってかまわない」  教育・学校・教師


 財務省が小学校の35人学級制度(法的には小学校1年生のみ、予算配置で2年生にも拡張)をもとの40人学級に戻せと言っていることに関し、Webの掲示板に投稿がありました。「啓示板」はかつて私の主戦場でしたが、ここ10年ほどはすっかり枯れ、なかなか書き込みがないのと同時に閲覧者も減ってしまいました。
 せっかく書き込みいただいたので勇んで返事を書いたのですが、 “あちら”だけでは読んでいただく機会もほとんどなさそうなのでこちらにも転載したいと思います。少し長文になっています。


【以下、本文】

 財務省の言うところは、35人学級にしたのにもかかわらずイジメも不登校も減っていないじゃないか、費用対効果が見られないじゃないか、ということでしょう。話の持って行き方が悪かったのかもしれませんね。

 昭和21年か22年ごろのことだと思いますが、私の父の弟、つまり叔父にあたる人が若くして病気で亡くなりました(何の病気だったかは聞き漏らしました)。医者からは当時の特効薬、ペニシリンを5本ほど打てば治るかもしれないと言われたのですが、とにかく高価で、3本分のお金しか集められず、それでもムダと承知で購入したそうです。

 薬毒には効果を生み出すための最低の量(=閾値)があり、その分量以下では薬効も毒性も発揮できないのです。
 35人学級はそもそも学校問題の特効薬ではありませんが、小学校1・2年生だけに実施しても閾値のはるかに下だったというのが実情でしょう。学校の諸問題を解決するにはそれでは足りないのです。

 では、小学校1年生から中学3年生まで全学年で実施すればイジメや不登校はなくなるかというと、それも確証が持てません。そもそも40人が35人になるとものすごく余裕が出て来るわけではないからです。
 40人学級というのは41人になったら2クラスにするという意味です。81人になったら3クラスです。つまり最低20人、最大40人のクラスにするということになります。
 同様に35人学級は36人で2クラス71人で3クラスになります。一クラスの人数の幅は18人〜35人です。
 20人〜40人に比べて劇的に状況が変わるわけではないことは数字上からもはっきりしています。


 最初からそんなことは分かっていました。35人学級を求めた側もそれで学校問題の大半をよくするといったわけではないのです。それはあくまでも欧米並みの25人学級あるいは20人学級への橋渡しであって、究極的な目標ではありませんでした。ですから財務省にはこう言えばよかったのです。
「20人学級、25人学級を要求したいのはやまやまなだがそんなことはムリだろう。財務省もムリなら教員確保の面から文科省だって対応できない。だからとりあえず35から始めようと言っているのだ。ここで40人学級に戻すのは、これまでの予算投入をすべて投げ出すのと一緒で、納税者に説目責任が果たせないだろう。とりあえず小学校1年生から中学校3年生まで、全学年で35人学級を実施してそれから考えろ」
 しかしこれを通用させるのはなかなか難しそうですね。


(以下、別の話)
 ただし私個人は25人学級にも30人学級にも不賛成です。35人学級だって気乗りしません。なぜならこれだとクラスの最低人数が13人〜18人になってしまい集団生活や役割分担を学ばせる上で支障が出るからです。
(さらに一クラス最大40人〜45人を基本に蓄積してきた日本の公立学校の教授法を根本から見直さざるをえず、その場合のエネルギーロスが計り知れないというのも理由のひとつです)

 本当は40人学級だって45人学級だって十分にやって行けたのです。クラスの全員が教師の言うことをよくきく、まじめで学習意欲の高い、そして賢い子であれば100人のクラスだって可能です。
 そこでです。35人学級制度のもとで児童数が36になり、18人の学級二人分の教員が配置されたとき、それでも2クラスにしないというのはどうでしょう。36人のまま1学級でチーム・ティーチングを行うのです。

 クラスの中で特に勉強の遅れる子がいたら、その子たちの間をひとりの担任が巡り歩けばいいのです。そうすればもう一人の担任が対応している「その他の子」は、少なくともその教科についてはあまり苦労しなくて済む「賢い子」だけになります。
 授業中に誰かがパニックになるようなら一人がその子を連れだし、廊下で落ち着かせ、しっかり勉強できる態勢をつくってからクラスに戻ればいいのです。そうなると教室にいる子はみんな「いい子」ということになります。

 18人の二クラスにしてしまうとそういうわけにはいきません。その学習が苦しい子に担任の手が取られてしまうと、その間「その他の子」はほったらかし状態です。クラスの中で一人パニックになってその子を外に連れ出すと、そのあいだじゅう教室は放置され、「その子」が落ち着いて戻るころには中の全員がパニック状態ということもありがちなことです。

 この話を突き詰めていくと一学級の児童生徒数は40人でもいいから二人担任にしろ、二倍の教員をよこせといった話になりそうですがそこまでは言いません。
 1学年1〜3学級の学年に一人、3〜6学級の学年に二人、とりあえずそのあたりから始めれば日本式の道徳教育(人間関係の教育)を守ると同時に、さまざまな学校問題に対応できるはずです。

 ただし単級(1学年一クラス)の学校では職員が2倍になるわけですから財政上の負担は35人学級の比ではありません。
財務省がウンというわけがありませんし、文科省もいきなりそこまでの要求は出せないでしょう。

 かくして日本の公教育はOECD34か国中最低の教育予算を誇り、教師の献身的な努力によって辛うじて支えられる日々が続いて行くのです。


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2014/11/4

「年をとって分かること、できること」  教育・学校・教師


 天候は今ひとつでしたが、三連休を何もせずに過ごすのも嫌で、家族と紅葉狩りに行ってきました。その紅葉もだいぶ雨に落とされてやはり今いちでした。しかしそれでもかなり美しいものです。そこそこに人の入りこみもあったようです。
 ところで私は子どものころ、紅葉の美しさが全く分かりませんでした。それは死んだり死にかけた葉っぱが不規則に入り混じった混沌としたかたまり――ひとことで言えば「ウ○コ色」の変なもので、それを愛でる人の気持ちが理解できなかったのです。もちろん今は分かります。けれど美しいと思えるようになったのは、30代もかなり深く入ってからのことです。

 同じく子どものころはまったく分からず、大人になって徐々に理解できるようになったものに「味」があります。もともと好き嫌いが多く食べられないものがハンパなく多かった私ですが、大人になるにつれ、というか大人になって年を重ねるごとに、次第においしく食べられるものが増えてきたのです。
 例えば酢の物――子どものころはまったくダメで、顔を近づけるだけで吐きそうになりました。あるいはいくつかの生もの――特に生ガキ、刺身で言えばいわゆる「ひかりもの」、魚卵のいくつか、そんなものがダメで、それは結婚して他家の食文化が入ってくるまで続きました。ですから宴会ではしばしば「食べられないものづくし」みたいになってしまうこともありました。今はいずれも、好物か、そうでなくても苦にせず食べられます。おそらく味覚そのものが成長したのです。

 子どものころ、レストランや食堂で食べ終わった食器を丁寧に重ねる母の行動が理解できませんでした。お金を払ったのに、「ごちそうさま」と言って会計を済ませるのも分かりません。ホテルに泊まった翌朝、ベッド周辺をさりげなく整え、ゴミをゴミ箱に入れて入りきらないものはその周辺に集めること、バスの乗降にいちいち挨拶の言葉を入れること、電車やバスの中で静かに過ごすこと人込みをかき分けるときには「すいません」と声をかけながら進むこと、列には割り込みをしないこと等々、それらはいずれも子どものころには意味も分からず、しかし目くじらを立てるほどこともないので何となく真似をし、いつしか身について、それをしないと気が済まなくなったことです。今は自然にできます。

 以上、ここまで話してきたことはすべて一つのことです。それは「世の中には経験し続けるしか理解の方法がない――そういうものごとがある」ということ、したがって子どもには理解できない、けれど続ければいつか分かるときがくる、そういうことです。

 私が若いころだって「今の若者は道徳的になっていない」と言われました。山本五十六に「『いまの若い者は』などと、口はばたきことを申すまじ」という言葉がある以上、戦前の若者もそう言われていたに違いありません。さらに遡って明治時代も、いや江戸時代だって若者は常にそんなふうに言われていたはずです。なぜなら道徳は身につくまでにものすごく時間がかかるからです。
 あの孔子ですら「七十にして、心の欲する所に従えど矩をこえず(七十になると思うままにふるまっても道をはずすことがないようになった)」というくらいですから十代はおろか二十代、三十代にも不道徳に見える人がいるのは当たり前なのです。
 別に戦後の教育が悪いわけではありません。

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