2014/11/28

「黒板」C〜黒板の工夫  教育・学校・教師


 黒板の使い方がうまいかどうかを見分ける簡単な方法があります。授業の途中から入っていってその時点まで何をやってきたかが分かる板書(黒板の記述)、それが優秀なのです。これは重要で、子どもたちは授業中しばしば気を失います。ほんとうに失わないまでもしばらくボケーッとしたり別のことを考えていたりしているうちに授業がわからなくなってしまうのです。そんなそのとき黒板に目をやり「ああ、こういうことをしていたのだ」と分かる黒板が「よい黒板」で、板書の役割のひとつはまさに“それ”だと言えます。

 また授業が終わったとき、黒板全体がムダなく使われていて、授業の契機、実際の活動、まとめがきちんと納まっていたら、それは完璧な黒板ということになります。最初から計画していない限り、そんな黒板はできあがりません。そんな観点で参観日に出かければ、自分の子の担任がすごいかどうかはすぐにわかります。

 ところで、そうした点について私自身はどうだったかというと、これがまったく×(ペケ)なのです。黒板のそうした重要性はすべてここ十年余りの間に、優秀なベテランと若い教員よって教えられたことです。また1時間の授業の中にきちんと内容を収める技術は、最近になって飛躍的に向上したと言えます。

 私などはそうとうにだらしない方で、常に授業を積み残し、「じゃあ、続きは次の時間に――」みたいなことを繰り返しやってきました。次の時間、私は覚えていますが、大半の子は何をやったのか忘れてしまっています。なにしろ彼らは9教科も同時に学んでいるのですから、その一つひとつを正確に記憶していることなどありえないのです。
 そこで“次の時間”は前時の復習から入ることになるのですが、これけっこうたいへんで、前の時間の最後と同じような、それに近い黒板をつくることから始めなければなりません。そうしないとうまく進まない場合が多いのです。
 たっぷり時間をかけて復習するのでまた時間が足りなくなり、再び積み残しが出たりします。これではいつまでたっても正常なサイクルに戻れません。

 そこで私が考えたのが小学校の先生がよくやっている「模造紙黒板」でした。
 これは黒板に模造紙を貼り付け、普段の板書と同じように、しかしフェルトペンで記述していくという単純なものです。ホワイトボードと違って模造紙だとペンも滑らず、ほどよく書けます。そして授業が終わると模造紙を回収し、次の時間はそれを広げるところから再開します。これだと1分で始められます。
 さらにしばらくすると、書いた模造紙を教室に貼って出て来るという新しい技まで考え付きました。学級担任には申し訳ないのですが、これだと何人かは丸一日、あるいは2〜3日間、授業の復習をし続けてくれたりするのです。黒板の「結局消えてしまう」という欠点を大きく補うものでした。ただし――。

 このやり方はわずか一学期で破綻します。教科会に割り当てられた一年分の模造紙の大半を、私一人で使い果たしてしまったからです。どんなアイデアも、予算的裏付けがなければ続けられません。
 かくして再び黒板の再構築(授業の始まりに前時と同じ黒板をつくる)の泥沼にはまり込んでしまったのですが現代の教師はどうか――。

 数年前のある日、同じ教科の若い先生の授業を見せてもらい、私はびっくりさせられました。
 彼は初めにA5版のプリントを配り、受け取った生徒たちはハサミを入れてそれを小さくし、ノートに張り付け始めたのです。印刷されていたのは前時の終了時の黒板の写真で、全員にいきわたると彼は、
「前の時間はここまでやりました」
それ授業が始まります。なんのことはない、授業が終わるたびにデジカメで写真を撮っていたのです。

 ついでですが私にはもう一つ悩みがあって、それは考えさせたい時間に必死に黒板をノートに写している生真面目な子たちがいるという問題です。ノートに記録しないと不安で仕方のない子たちです。しかしその子たちも、次回に板書が配布されると保障されていればムダに時間を使うこともありません。

 私だってデジカメは15年近くも使ってきたのです。そんなやり方があるなんて――まさに若者恐るべしです。




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2014/11/27

「黒板」B〜黒板の名手たち  教育・学校・教師


 ほんとうに切ないくらいの悪筆で、自分の文字は一字たりとも世間に出したくない――そういう情熱が私のコンピュータ・スキルの原動力です。だから8ビットコンピュータの時代からワープロ・ソフトを探しまくり、ワープロ専用機はもっとも早い時期に購入しました。
 学級通信も学年だよりもワープロ。高校へ出す調査書(内申書)を最も早くワープロ書きに変えた教員のひとりは、おそらく私です。
 そこまで情熱をもって取り組んだにもかかわらず、どうしても乗り越えられなかったのが「黒板」です。黒板ばかりはどう足掻いても手書きにせざるを得ず、しかも常に大勢(少なくとも生徒たちに)に見られる場です。別の言い方をすれば、最後まで自分の惨めさを晒す場だったのです。

 ところがその「黒板」こそ最大のパフォーマンスの場だという教員だっています。そのはじめは「黒板文字」の名手たちです。

 とにかく板書の文字が美しい。ふだん紙に書く字も美しいのですが、黒板に書くと圧倒的によく映える、そういう文字があるのです。毛筆はもちろんペン習字の文字とも異なる「黒板文字」としか言いようのない字体です。
 特徴としては角(かど)の取り方が少し大げさでハライやハネが毛筆などとは異なる(最後までチョークが黒板から離れない)、一つひとつの文字の右肩上がりが甘い、色がかすれないなどがあるのですが、言葉で説明するのはなんとも歯がゆい感じです。

 今回、思いだしてネットでさまざまに画像検索をかけたのですが、どうしても見つかりません。私自身は何度も目にしていてそういう文字を書く先生をたくさん知っていますから「黒板文字」が存在するのは確実ですが、それがネット上にないというのは、書道やペン習字のように体系化され確立した分野ではない証拠なのかもしれません。書いては消される「黒板文字」の宿命とも言えます。

 私は一度、「黒板文字」の名手に教えを乞うたことがあります。しかし師匠としてあてにした先生は「は?」といった感じの反応で、ご自身なんの自覚もない様子でした。自覚のないものは伝えようがありません。現在ならその板書を写真で残し、ひとつひとつ真似て練習すればいいようなものですが、当時はそういうこともできませんでした。放課後、余裕ができたときに“師匠”の教室に行っても、何も残っていないのです。

 黒板のパフォーマーは「黒板文字」の名手ばかりではありません。学校のイラストレーターと呼ぶべき教師たちもいます。彼らはどんな場合にも簡単なイラストを残すのを忘れないのです。
クリックすると元のサイズで表示します 写真は運動会の朝の小学校1年生の教室にあったものです。朝の心得が書いてあります。
 担任の先生自身が運動会の係ですので、いつものように始業までじっくりと教室に詰めているということができなかったのです。そこで前日の板書ということになったのですが、こんなふうに可愛く書かれるとそれだけでやる気になります。
 これを突き詰めていくと、「黒板アート」とか「チョーク芸術」といった分野に入って行きます。私自身はお会いしたことがないのですが、黒板に大きな作品を何度も残した先生について聞いたことがあります。

 この分野については芸術として確立していて専門の学校もあるくらいですから、多くの人が承知していると思います。私も一度試したことがあるのですが、そもそもの絵心がなければダメみたいでした。昔は美術部に在籍したことがあったのです。しかし何十年も絵を描かないと、始める前から怯えてしまいます。

                           (この稿、次回最終)




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2014/11/26

「黒板」A〜自慢!移動式連絡黒板  文具・道具・器具


 30年も前の話です。

クリックすると元のサイズで表示します 当時担任するクラスと教室が決まって最初にやる仕事のひとつが黒板を整えることでした。正面の大黒板の右側に、白い水性塗料で「月」「日」「曜日」「当番」と書いて毎日の記入に備えます。教室の廊下側の黒板には「学習予定」と書いて下に6時間の授業の枠をつくります。「時」「教科」「内容」「持ち物」と書き込み、空いた空間には生徒会連絡の欄などをつくります。
(写真は現代の既成のもの。新品でビニルを張ってあるので見にくいかもしれませんが)

 毎年書き換えるのは水性塗料の劣化が激しいのと、教師によっては後任者のために真っ新にするのが礼儀と考える人がいたためです。さらに私のように汚い字を残すのは以ての外と考える教員もいます。そこで毎年の書き換えとなるのですが、私はこれがほんとうにダメでした。

 まず字が汚い。鉛筆でもペンでもチョークも毛筆もダメなのに、絵筆となるとなおさらです。また枠をつくるのも大変で、絵筆で描く線は曲がったりかすれたり、太ったり痩せたりと、クズみたいな連絡黒板になってそれが1年間も残るのです。ほんとうに嫌な仕事でした。

 もちろんこうしたことにも天才的な教員はいて、たちどころ素晴らしい作品に仕上げるのですが、そうは言っても小一時間はかかる仕事、安易に頼むわけにはいきません。こちらの矜持という問題もあります。

 そんなわけで悲劇的なわが作品を毎年書き直し、そして2年3年と付き合ううちにふと気づいたのです。

 学習の予定黒板はたいてい教室の廊下側、うっかりすると背後という教室もあります。すると生徒は予定を写すたびに横を向いたり、ひどいときは後ろを何度も振り返って書かなければなりません。これはあまりにも不自然です。あの予定黒板を正面にもって来れないものか――。それが私の自慢の作品の始まりでした。
 さっそく画材店に行って大型の木製パネルを買い、黒板塗料(というものがあった、と言うか今もある)も買って表面に塗りました。それに金具をつけて教室の正面と横に吊るせるようにしたのです。予定を書くときには正面の大型黒板に重ね、普段は横に吊るしておくためです。
 ここまでやると字や線を自分で書くことはありません。10年以上も使えるものですから先輩の先生に頭を下げ、ドーナッツの賄賂を用意して書いてもらいました。この予定黒板は、なんどもぶつけてボロボロになるまで、およそ15年も使い続けました。

 今は同じサイズの黒板がいくらでも売っています(値段は高くかなり重いという欠点はありますが)。ホワイト・マーカーという便利な道具もあり、線を引いたり字を書いたりするのも楽になりました。

 私の傑作はすでに灰塵に帰していますが、もし余裕があれば、そんなものも用意するといいのかもしれません。

                           (この稿、続く)




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2014/11/25

「黒板」@  文具・道具・器具


クリックすると元のサイズで表示します 羽衣文具株式会社が会社の廃業を発表しました。チョークで有名なあの羽衣です。その名前は知らなくても、写真のようなチョークの箱はどこの学校へ行ってもありふれたもの見覚えのある方も多いでしょう。
 重さといい硬さといい、もちろん慣れということもあるでしょうが実に使いやすいもので、亡くなるのはほんとうに寂しい気がします。
 もっともチョークのメーカーは他にもありますし、現在すでに羽衣もチョークのナンバーワン企業ではありませんから、黒板文化についてはしばらく心配する必要はありません。学校によっては見慣れない箱が取って代わるだけです。気づかずに終わってしまう人もいるのかもしれないくらいです。

 さてところで、黒板は教員にとってもっとも愛着の深い道具です。とにかくいろいろな意味で扱いやすい。広さ、見た感じ、書いたり消したりの動作――中でも書く際のチョークの引っ掛かりは決定的で、きちんとした文字を書くにはあの程度に引っかかってあの程度に滑らなくてはなりません。

 黒板に代わると期待されたホワイトボードはとにかくよく滑り止まらないのです。漢字のカドは取れないしトメもおさまらない。ハライも2割増しくらいで先に行ってしまうのでほんとうに厄介です。さらに、白い表面は目に苦しいし、私などは水性マジックのキャップをすぐになくしてしまうので、説明しながら探し回ることなどしょっちゅうです。他の人だってきっと同じで、だから黒板は今も学校に残っているのでしょう。

 ただし黒板とチョーク、そして文具業界や鹿児島県のみで「ラーフル」と呼ばれる「黒板消し」の組み合わせは、今や学校以外にはほとんど見られなくなってしまいました。
 チョークの粉は吸い込んでも「塵肺」にはならないと言いますが決して健康的な感じはしません。しかも部屋がかなり汚れる。そうとう注意したつもりなのにかなり離れたところの桟にも粉は降り積もっています。
 教員が指を真っ白にして粉を肩からかぶり、子どもが掃除の時間にパタパタと黒板消しを叩く姿は学校によく似合う風景ですが、21世紀の終わりまでこうであってはいけません。何か黒板に代わるものが出てくるはずです。

 そこでさしずめ期待できるのは電子黒板です。
 もちろん現在の大きさではムリで、今の黒板と同じサイズでしかも映り込みがないこと、さらに強度を高めること、この三つの条件がそろわないと学校には導入できません。なにしろ子どもは何をするか分かりませんから、激高した小学生が傘を突き刺しても使えるくらいでないとだめなのです。

 現在の黒板ですら20万円近くしますが、それに代わるものだと高くてもその2倍以下、黒板なら一度購入すれば20年以上使えますし表面を塗りなおせば50年も100年も使えますから、それに匹敵する耐久性も要求されます。
 そう考えると、やはり学校から黒板をなくすことが、容易ではないことは自ずと分かってきます。

                                      (この稿、続く)


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2014/11/21

「日本的おもてなしへの郷愁」  政治・社会


 冬の奈良・室生に行ったことがあります。30年以上も前のことです。
急に思いついて出かけた旅なので出発も遅く、室生口大野駅についた時点で午後4時を大きく過ぎ、室生川を渡って仁王門が見えたときはほとんど閉門の直前でした。
 中から男の人が「もうすぐ閉めますよ、急いで」と叫ぶので橋のたもとから必死に走り、何とか参拝料を払って中に入りました。
参拝時間は5時までなのでそこから一気に走り、国宝の五重塔から奥の院まで行ってそこからまた駆けるように下ってきました。すると門は閉まっておらず(そもそも閉まるような門であったかどうか)、遅れてきた観光客がお金も払わず登ってくるところでした。何のことはない、走らずにゆっくりと行けば無料で参拝できたのです。
(現在は柵で囲まれていて時間外には入れません。しかもセキュリティシステム付き)

 そのまま駅まで戻ったのですがすでに6時近く。駅前に旅館はなく、観光案内で聞くと車で15分ほどのところにある一軒しか紹介できないとのこと。シーズンオフですから選択の余地がありません。貧乏旅でいやだったのですが仕方なくタクシーを雇い、山間の温泉旅館へ向かうことになりました。走り出すとすぐに谷あいの細い道に入り、なるほど言われた通り歩かずに良かったと思いました。

「お客さん、室生寺は初めてですか」と運転手。
「いえ、2回目です」と私。
「いいお寺でしょ、室生寺は」と運転手。そしてそこから室生寺の話が始まるのですがそれの長いこと、長いこと・・・。室生寺の性格、室生寺の歴史、観光に向いた季節、拝観の観点・・・。
 室生こそ2回目ですが当時の私は無類の仏教マニアで、20代はほとんど毎年奈良に出かけあちこち見て回っていたのでその筋の話にはかなり詳しかったのです。運転手の話のほとんどは既知のことでした。
 しかしせっかく説明してくれているのに「分かっています」も失礼だし、何より他にすることもないので時々相槌を打ちながら、適当に話を合わせていました、旅館に着くまでは。ところが着いてもまだ終わらないのです。
 宿の玄関の20mほど手前で車を停め、サイドブレーキを引いてギヤをニュートラルに戻すと余裕で半身をこちらに向け話を続けます。旅館の前では連絡を受けたご主人と中居さんが、不安そうにこちらを見ています。私は気が気ではなかったのですがその表情を見ても運転手は、「大丈夫です、メーターはもう倒してありますから」とか言って話を止めようとしません。
 ようやく車を下してもらえたのは、到着してから10分も経った頃でした。

 ほうほうのていで入った旅館は鄙びた感じのいい宿で、客は私のほかにはなかったようです。主人も中居さんも親切で料理も程よくおいしく、部屋で一人で食べる食事という寂しささえなければかなりいいものでした。下膳には主人自らが来てくれました。
 丁寧に片づけて膳を中居に渡し、さて退室かと思っていたらいきなり主人は部屋の襖を後ろ手に閉め、私の前にデンと座ります。八畳間のど真ん中で、二人きりで対面です。私は一瞬、身の危険を感じました。
 主人は丁寧に頭を下げ、
「それでは、室生寺と室生寺の由来についてご説明申し上げます・・・」
 見るといつの間に持ってきたのか、大部の資料が入った風呂敷包を広げています。それから小一時間、私は紙芝居つきの室生寺縁起をひたすら聞かされました。
“ご説明”が終わった時、ずっと正座だった私の足は完全に感覚を失っていました。

 翌朝は奈良市街に入る計画だったので「もう一度室生寺に参りましょう、私がご案内しましょう」とか言われたらどうしようと思ったのですが、予想は当たらず、すんなりと放してくれました。
 タクシーの運転手が前日とは違うことを確認してややホッとし、出発です。
「お客さん、室生寺は初めてですか?」と運転手。
「いえ、2回目です」と私。いやな予感がしました。
 そして恐れた通り、そこから長い長い“ご説明”が始まったのです。今度は電車の時間もあるというのに・・・。

 室生の人たちは本当にいい人ばかりなのです。室生が好きで仕方ないのです。しかし当時の私はまだまだシャイで、初めての人とうまく会話を進めることのできない “ガキ”だったのでそんなふうにたびたび話しかけられるのは面倒以外の何物でもなかったのです。私は“客”なのだから頼みもしないものを出さないでくれ、そんな思いもありました。
 しかしそんな経験が今は懐かしい――。

 それ以後あちこちの旅館やホテルに泊まる経験をしましたが、“ホテル”はどこに行って泊まっても同じような経験しかできません。“同じ”であって“間違いのない”ところがホテルの価値です。
“旅館”もホテル文化に染まってあまりに個性的な対応をしなくなったように思います。自室で取る食事というものもなくなり、中居さんがわざわざ挨拶に来るような旅館は“超高級”と相場が決まっています(たぶん)。泊まったことがないので分かりませんけど。

「これがオラっちのやり方よォ、嫌なら他に行ってくんな!」
 みたいな店も旅館もほんとうに少なくなってしまいました。

 それでいいのですが――、それでいいのか疑問になるときもあります。


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2014/11/20

「羊を巡る連想」  歴史・歳時・記念日


 今日は毛皮の日だそうです(日本原毛皮協会)。11月20日を「いいファー(毛皮)」と読ませる語呂合わせだそうですが、そうとう無理があるのではないでしょうか。

 さて、2015年の年賀はがきのデザインは、ヒツジがマフラーを首にかけているものです。そのマフラー、12年前のヒツジが自分自身のために編んでいたものだと話題になっています(なにしろまだ編み棒も持っているくらいですから)。
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 12年もかけてマフラーを編むなんて、実に気の長い動物です。辛抱強いのか真面目なのか。――しかし実際、ヒツジはそういう生き物のようです。

 そこで薀蓄。
@ 羊が人の家畜となったのは8000年も前の中国だという説がありますが、少なくとも7000〜6000年前のメソポタミアで飼われていたことは確実のようです。

A 羊の最大の利用価値は言うまでもなく毛で、古くからこの毛を編んで衣服をつくっていました。糸の原材料としての毛は「ウール」と言いますが、もともとは上下二層になった羊毛(全体としてはフリースというらしい)の下毛部分であって、上の部分はケンプと呼ばれる剛毛だったようです。現代の家畜化された羊はウール(下毛)を十分に発達させたもので、ですから「ウールと言えば羊の毛」という言い方は決して間違っていません。

B 羊の利用法としては他にミルク(チーズやヨーグルトに加工することが多いようです)、皮(衣服・羊皮紙、胴体部分でつくる水袋など)、そして食肉。肉については一歳未満の羊肉をラム、それ以上だとマトンと言います。全身すべて使える家畜です。

C 羊は真面目な動物で、草ばかりかその根っこまで掘り起こして食べるので「畑の掃除人」と呼ばれたりしています。砂漠地帯ではオアシスの畑が休耕中、ヒツジの群れを入れて小麦の切り株などを食べさせます。遊牧民にとっては餌の心配をしないで済むメリットがあり、畑の持ち主にとっては羊が根まで掘り起こしてくれる上に畑を耕し、肥料となるフンまで撒いて行ってくれるのでメリットがあります。ただし、だからこそ草原に放つと文字通り「根こそぎ」食べてしまうので砂漠化の大きな要因となっています。

D 「万里の長城はなぜあんなに低いのか、それでよかったのか」という問いがあります。それに対する答えのひとつは「北方の騎馬民族が連れて歩く羊の群れが飛び越えられない高さであればよかった」です。また長城には「長城のはずれ」ともいうべき終点があります。これはテレビで見たので間違いないのですが砂漠のど真ん中にありました。羊の群れを連れて回りこむには遠すぎる乾燥地帯で、だからこそ終点があってもかまわないのです。

E さらに中国では漢民族に長城を造らせヨーロッパではゲルマン人を追い立てた北方民族――彼らが命を賭して繰り返し南下を計ったのは、地球の寒冷化のためだと言われています。大量の羊を連れていますから南行せざるを得なかったのです。

F 羊は非常に群れたがる性質を持っていてしかも先導者に合わせやすい。その先導者は、たまたま最初に動いただけといった何の理由もない場合も少なくないようです。

G エジソンが自らの発明品である蓄音機に最初に吹き込んだ歌が「メリーさんのひつじ」だったというのは有名な話です。しかしその原盤はもう壊れていて、聞くことはできません。

H その「メリーさんのひつじ」ですが、これは19世紀の初頭、ボストンのメリー・ソーヤーという少女が可愛がっていた羊を学校に連れて行って大騒ぎになった実話に基づいています。この歌が「メリーさんのひつじ、ひつじ、ひつじ」で始まることはほとんどの人が知っていますが最後まで知っている人は稀です。一度確認しておくといいでしょう。
 以上、「私はそのように聞いた」(如是我聞)という話で、中身の真偽は保証しません。

 最後に、
 あれこれひっくり返していたら12年前の未年に作った年賀状が出てきたので紹介します。当時は小学校の担任で児童から来た場合のみ返事を出していました。
 大したものではありませんが、こんなものもある、ということで・・・。

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