2014/10/15

「愚かな不審者対応」@〜そんな子どもでは困る  教育・学校・教師


 あるテレビ番組を見ていたら、子どもを不審者から守るにはどうしたらよいか、というテーマで話し合いが行われていました。さまざまなケースを想定し子どもが取るべき態度を考えるのですが、これが何とも納得できません。
 例えば、道端でうずくまっている人がいたら「どうしたの?」と声をかけず、大人を呼びに行くのが正しい態度なのだそうです。なぜならお腹が痛いと言われても子どもにできることはないからです。

 知らない人に道を尋ねられたら、「道を知っていても教えない」が正しい対応でした。なぜなら普通の大人は子どもに道を聞いたりしないからだそうです。番組では子どもたちが「なるほど」とか言って合点していましたが、はたしてそうでしょうか。

 田舎の住宅街など、子ども以外に道を聞く相手がいないことなどしょっちゅうです。都会だって、目印が学校だったり学校そのものが目標だったりしたら下校途中の子どもに声をかけたくなります。そのたびに逃げられては困ります。
 そもそも病人がうずくまっていても声もかけず、道を聞かれても答えない子どもの行為が正しい対応なのでしょうか。

 そう言うと当然予想されるのが「だったら誘拐されてもいいのか」といった反論ですが、誘拐なんてそう簡単に起るものではありません。小学生が被害者である略取誘拐事件は年間100件以下、そのうちわいせつ目的の事件は30件以下です。これだけ見ると結構な数のように思えますが、日本の小学生は全体で660万人もいるのです。誘拐される可能性は6万6千分の一以下。そんなめったにない危険を回避するために、つまらない子どもを育ててしまうのはまったくに愚かなことです。

 道端でうずくまっている人がいたらとりあえず「大丈夫ですか?」と声をかけなくてはなりません。その上で「お腹が痛くて動けない」とわかれば大人に伝えに走るだけです。人から道を聞かれたらきちんとした距離を保って丁寧に教えてやればいいのです。その上で感謝されれば、その子は将来に渡って人にやさしい親切な人間に育つ可能性があります。

 この国にいる限り、世の中の99.99%以上は“いい人”なのです。そう信じて間違いありません。その人たちを信頼し、その人たちと支え合いながら生きる人生は、きっと素晴らしい―子どもたちはそう信じて生きる必要があります。
 生きていればリスクをゼロにすることはできません。誘拐される危険より交通事故にあう危険性はさらに大きいからといって子どもを学校に出さない親はいないでしょう。虐待死が年間30件もあるからといって子どもを自分から遠ざける親もいません。

 不審者対策は、「人通りの少ない道を歩いてはいけません」「親の知らない人について行ってはいけません」「『お菓子を上げるから』『珍しいものを見せてあるから』といって子どもを誘うのは怪しい人です。普通の大人はそんなことはしません」――その程度に留めておくべきです。
 力ずくで無理やり車に押し込めるような乱暴な誘拐はどうやったところで対処できるものではありませんから、それはもう、交通事故にあいませんように、病気にかかりませんようにと神仏に願うレベルの話なのです。



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2014/10/14

「しぶとい民族」  政治・社会


 台風19号はみごとに日本列島を縦断して三陸沖に抜けて行きました。その巨大さ強さにも関わらず、被害は最小に留めることができたようです。それはおそらく、進路や到達時間が正確に予測されたこと、そして事前の警告が十分だったためだったと思われます。不用意に外出したり危険な場所に行く人が少なかったからでしょう。これが半世紀前だったらそうはいきません。当時の天気予報はあまりあてにならなかったからです。
 さらに50年前、明治時代に遡れば天気予報は“占い”以下でした。日清・日露戦争では「測候所」が弾除けのおまじないだったとさえ言われています(当たらない、当たらない)。当時、あるいはそれ以前に今回とおなじ台風に襲われていたら、この程度の被害では済まなかったことでしょう。日本人はずっとそれに耐えてきたのです。

 半世紀前のベストセラー「日本人とユダヤ人」の著者のイザヤ・ベンダサンは次のように言っています。
『日本とパレスチナを比較する時、私は「神よ、これは余りに不公平です」といわざるを得ない。日本人をユーラシア大陸から少し離れた箱庭の様な別荘で何の苦労もなく育った青年と見るなら、ユダヤ人はユーラシアとアフリカをつなぐハイウェイに裸のまま放り出された子供である』
 たしかに政治的には、日本人は無風状態と言える幸せな環境にありました。明治維新前後の世界情勢を見ると、地政学的有利さとともに、ありえないほどまれな幸運に恵まれた民族とも言えます(その意味では日本人こそ“選民”であるのかもしれません)。
 しかし天災となると、日本人こそハイウェイの民でした。毎年の台風はもちろん火山噴火に巨大地震、津波、地滑り、崖崩れ、洪水、氾濫・・・数え上げたらきりがありません。そのたびに生活はリセットされ、一からの出直しです。家族が犠牲になれば「一から」でさえないのです。けれどそれでも繰り返し繰り返し立ち上がってきます。

 私の義母(妻の母親)は百姓家の生まれで苦労した人です。実家はすでに農業をやめ、河川敷にあった畑も手離して長くなるのですが、その畑が洪水で流されたとき、こんな話をしてくれました。
「畑が洗われれば、三年、肥やしはいらない」
 上から流されてきた肥沃な土が全面を被うので、向こう三年くらいは肥料をやらなくてもいいのだということです。今年の収穫がなくなるわけですから不幸でないわけはないのですが、それでも未来の希望に目を向けている――。

 東日本大震災のとき、諸外国の人々を驚かせた言葉に「しょうがない」があります。元の意味は「手の施しようがない」「諦めるしかない」という意味だと思うのですが、この言葉は決してあきらめの苦しさ辛さを含んでいません。感じられるのは「すべて諦めて、しかしさあ、やり直そう」という静かな決意です。
 ほとほと日本人というのはしぶとい民族です。

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2014/10/10

「月はどっちを向いてるの?」  知識


クリックすると元のサイズで表示します 皆既月食で思い出したのですが、花王石鹸のロゴマークのように細い月に顔を描くとして、右向きの月と左向きの月、三日月はどっち? という設問があります。
 答えは「左向き」。花王のロゴもドリームワークスの映画で釣りをする少年の乗る月も左向きの三日月です。ところがこれがなかなか頭に入らない。改めて聞かれるとどちらが三日月か分からなくなります。

 理屈を言えば、“月”はおよそ30日間で地球を一周しますので、毎日同じ時刻(たとえば日没)に観察すると、“月”は毎日12度の角度で太陽から遅れていきます。新月(つまり太陽と“月”が同じ方向にある)の日の翌日、糸を引いたような一日の“月”は太陽の12度ほどうしろにあって一瞬だけ見えます。その翌々日が三日月で、太陽から36度ほど後方をしばらく西に向かって移動し続け、時間にして2時間半ほどで沈みます。その間、陽の光を右から受け続けるのです。ですから(顔を描くと)左を向いた“月”になります。
 以上。
 この説明は、しかし小学校の高学年以上だと誠実な説明ということになりますが、低学年以下だと絶対理解できませんし覚えてくれません。小さい子には小さい子にふさわしい覚え方があります。

 それは実際に描かせてみることです。
「三日月みたいな細い月を描いてごらん。描きやすい方が三日月だよ」
 そう言えばいいのです。ほとんどの場合、左向きの“月”を描きます。その方が描きやすいからです(ただし左利きの場合は別)。

 “線を引く”と言うように、鉛筆やペンは線を“引く”道具です。“押す”道具ではありません。したがって右手で書く場合、押しながら描く右向きの“月”より、引きながら描く左向きの“月”の方が圧倒的に描きやすいのです。それが三日月です。

 ところで、同じ理由から人は動物を描くときには左向きに描くのが普通です。小学校ではニワトリやウシをモデルに絵を描かせることが多いのですが、まずほとんどは左向き。稀に正面から描いて先生を喜ばせる(とても面白い絵になるケースが多いので)児童もいますが、頭を右にする児童がいたら少し心配しなくてはなりません。その子はニワトリやウシを尻尾から描き始めたか、右に頭を描いて左へ左へとペンや筆を送った不思議な子だからです(ただしもちろん、左手でペンや筆を使う子は別です)。

 2〜3ヶ月前(もっと前かな)、あるテレビ番組を見ていたら「ほとんどの人は魚を描かせると左を向いた魚を描く」という話をしていました。その理由として“専門家”が提示したものは、
「明治の初期に出版された魚類図鑑が魚をすべて左向きで描いたため、以後日本人は左向きの魚を描くようになった」
という説です。アホなことです。

 私はかなりいい年になるまで、「“専門家”は正しいと確信の持てることしか言わない。なぜなら中途半端なことを言えば強烈な反論を受けることになるからだ。ましてや出版や放送を通じていい加減な発言をすることはない」
と信じていました。
 世の中の専門家のすべてが、私のようにシャイで攻撃されることに弱く、誠実なわけではないと知るまでに、ずいぶん時間がかかったのです。




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2014/10/9

「あの月は何だったのだろう?」  歴史・歳時・記念日


クリックすると元のサイズで表示します 昨夜の皆既月食、いかがでしたか。私の家からは時々雲に邪魔されながらも、最初から最後まで見ることができました。都会にいる子どもたちに写真付きのメールを送ると、娘からはすぐに「見えてる! いい感じ!」と返事がありました(息子からは返信なし。いつものことですが)。
 遠く離れて同じ月を見ている不思議を感じるとともに、安倍仲麿を思い出したりもしました。
(天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも)

 しかし毎回思うのですが、皆既月食の月は本当にあんなに小さかったのでしょうか――私の思い出の月食はもっともっと巨大で赤黒く、天空に浮かぶおどろおどろしい球体なのですが。

 “その月”は中学校3年生の時、親が建てたばかりの新築のベランダから眺めたものです。わざわざ2階に出たのは、当時の流行でベランダをつけたものの使い方がよくわからず、月見はかっこうのできごとだったからです。
 弟は妙に興奮して私と母を誘って赤褐色の月に眺め入っていました。しかし私たちはさほどの興味はなく、母などは家事に忙しい時間だったので少し眺めるとそそくさと台所に戻ってしまいました。それが気に入らなくて弟は母に食って掛かり、泣いて怒り、仕方なく母もベランダに戻ったもののまたいくらもしないうちに台所に行ってしまいます。弟はさらに怒って激しく泣いた後、結局最後まで、頑固にその場を離れませんでした。私も仕方なく夕食も食べずにずっとつきあっていました。
 滅多にない天体の奇跡、今回のがすと二度と見ることができないかもしれない貴重なできごとを、弟は母に見せたかったのです。けれど母には日常の方が大切でしたし、もしかしたら皆既月食なんて珍しくないと知っていたのかもしれません。

 それが私の“巨大な皆既月食”の記憶で、以後、そのたびに生徒たちに「すごいぞ、月は本当に球体だって分かるんだ、巨大なボールが夜空に浮かんでいるぞ、気味が悪いぞ」と言っては失望され、自分もがっかりしてきました。しかし それにしてもなぜあんなに大きく見えたのか。
 中学校3年生ですから“幼な心に大きくみえた”というのも無理があります、あの風景の現実感を錯覚だと思うこともできません・・・とそんなふうに書いてきて、ここで初めて気づいたことがあります。それは母が“家事に忙しい時間だった”ことです。父も帰宅する前でしたから7時以前のことだったのかもしれません。あるいは、弟は“結局最後まで、頑固にその場を離れませんでした”と言う以上、10月よりずっと暖かく日も長い時期だったのかもしれない――。

 つまり、もしかしたらあのときの月食の月は、山の端から出たときにはすでに皆既であったような、そんな月だったのかもしれません。だとしたら本当に巨大に見えても不思議はないのです。

 


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2014/10/8

「イスラム国物語」  政治・社会


 二十歳のとき、私は自分が天才だと思っていました。
 絵も描ける、音楽もできる、文も書ける――もちろん明日から生活ができるほどではないにしてもそのうちの何かで天才であることは間違いないと思っていたのです。しかしそれが何の天才か分からない、それが悩みでした。

 そうした悩みを抱えながら、高校も普通科を選び大学も無難な学科を選択して可能性を狭めないよう注意してきた私も、二十歳をすぎるとさすがに切羽詰ってきます。何かを選ばなくてはなりません。しかしそれができない。
 選べるのは基本的に“ひとつ”しかないのです。他はすべて諦めなければなりません。もちろんその“ひとつ”が正解ならいいのですが、誤った場合は取り返しがつかないのです。それがとんでもない間違いであり、真の“天才”が別のところにあったら私は自分の人生と才能をドブに投げ捨てることになります。
 そこで、私はこんな物語を書きました。

『アリス』

 ある日アリスは一人の女神に出会いました。
 女神はアリスに向かって、こう言いました。
『アリスよ、あなたはいい子なので願いを一つだけかなえてあげましょう』
 そこでアリスは答えました。
『ドレスがほしいの』
 女神はさらに言います。
『それではここに100枚のドレスがあります。どれでも好きなものを一つお取りなさい』
 アリスはすっかり喜んでさっそくドレスを選び始めましたが、何時間かかっても選ぶことができず、すっかり困ってしまいました。
 本当に困り疲れ果てたところに、一匹の悪魔が訪れ、
「アリス、お前の悩みは分かっている。オレが97枚奪ってやろう。この97枚はつまらないドレスだ。お前は残りの3枚の中から一つだけ選べばいい」
 そう言います。
 アリスは程なく1枚のドレスを選び終わると、小さくこう呟いたのです。
『悪魔って本当にステキだわ』


 あとから考えると私の“天才”など典型的な「器用貧乏」です。しかし若く傲慢で、そのぶん異常に臆病で自己を試さなかった私は、本当に切羽詰って誰かが決めてくれることを本気で願うようになったのです。
 誰でもいいのです。私の“天才”を見極めてくれなくてもかまいません。とにかく強力な存在が有無を言わさぬその恐ろしい強制力で私の未来を決めてくれたらいい、せめて可能性の枠を狭めてくれたらいい――そんなふうに思っていいました。
 何を決めてもいいがその責任はすべて自分で取らなければならないという“自由”が、私には非常に不条理に思え重荷だったのです。

 昨日、日本の若者が“イスラム国”に参加しようとして警察の事情聴取を受けているというニュースに接したとき、まず思い出したのがそれです。貧しく力もなく自由しかない若者には、宗教の厳しい戒律と正義が正義であるような分かりやすさは、むしろ耐え難い“自由”からの自由ではないかと思ったのです。


 さて、上の話とは重ならないのですが、もうひとつ思い出したことがあります。1982年のアメリカ映画「ランボー」の一場面です。
 州警察に追いつめられ反撃に出て街を破壊しつくしたベトナムの帰還兵ジョン・ランボーは、最後にこう言って嘆きます。
「(ベトナムでは)ヘリも飛ばした、戦車も走らせた。100万ドルもする武器も任された。そのオレが国に帰れば駐車場係の仕事もないんだ」

 裏を返せば、日本国内では駐車場係の口もない人間も、シリアに行けば100万ドルの武器を任せてもらう機会があるのかもしれないのです。子どものころからコンピュータのシューティング・ゲームで修練を積んできた若者にとって、それはあながち荒唐無稽な夢ではないのかもしれません。

 そして三つめは“生きる実感”です。
 皮膚のピリピリするような感覚、筋肉がみなぎり骨の軋むような――肉体と精神がこの世に確かに存在して躍動している絶対的な“感じ”です。それはスポーツの中で体をいじめている最中にも瞬間的に実感できるものですが、生活の中にはない、特に学生生活の中にはないものです。
 ドストエフスキーが『罪と罰」の中で言ったような、
 まわりは深淵、大洋、永遠の闇、永遠の孤独、そして永遠の嵐、そしてその猫の額ほどの土地に立ったまま、生涯を送る、いや千年も万年も、永遠に立ち続けていなければならないとしたら、それでも今死ぬよりは、そうして生きているほうがましだ!
 そういった感覚です。

 いずれにしろ、これは日本を含む西欧諸国が考えなくてはならない問題です。“イスラム国”がインターネットを駆使して効果的にリクルートしているからといったことではありません。

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2014/10/7

「佐世保事件の父」  親子・家族


 7月に起きた佐世保女子高生殺人事件の、加害少女の父親が亡くなりました。自殺だといわれています。事件当初は爆発的に報道されたこの事件も、以後情報が途絶えたのかマスコミの上で評判になることはありませんでした。今回の自殺もテレビでは臨時ニュースで扱われたにもかかわらず、その後の扱いはずいぶん小さなものでした。これ以上深く入り込もうとしても、新しい何かが出てくるように思えないからでしょう。

 自殺する人は、最後は正常な判断を失っていると思いますので非難する気にはなれませんが、私だったら石に噛りついても正気を失わず、どんなに悲惨な人生でも地を這ってでも生き続けると思いました。私には重大な義務があるからです。
 それは事件を記録するとともに、いつか社会に戻ってくる “娘”を見守る義務です。“見守る”というのはその子を“見守る”と同時に、その子から社会を“見、守る”という意味でもあります。それが父親としての義務です。

 事件に対する父親の責任は、世間で言うほど大きなものだと私は思いません。病妻を亡くしてすぐに再婚したのが悪いといった言い方もありましたが、それは的外れ。少女本人が言っているように「お母さんが死んで寂しかったので新しい母親が来てくれて嬉しかった」の方がよほど事実です。少なくともマスコミの語る常識的な物語は、この子には不似合いです。

 児童相談所や警察への通牒が遅れたことも非難されるべき汚点として繰り返し報道されましたが、結果論ではなく現在進行形の物語として考えるとき、父親の行動の遅さをあげつらうのは酷のような気がします。
 普通の生活(戦場ではなく犯罪組織の社会でもないという程度の意味です)の中で、殺人を予想することは困難です。それが家族の犯罪となればなおさらでしょう。しかしそれにもかかわらずこの家族が事件を現実的な話として理解し、児童相談所や警察の一歩手前まで行けたのは、それがたまたま佐世保だったからです。10年前の事件を通して佐世保の人たちは“女の子が友だちを惨殺する可能性”に無頓着ではなかったはずです。
 ほかの地方・地域で同じ状況が生まれても、おそらく親も医師も、現実の問題として殺人を思い浮かべることはできかったでしょう。その意味で、事件の父親のむしろ対応は早かったとさえ言えます(しかしそれでも間に合わなかった)。
だからと言って責任がないとはもちろん思いません。事件を回避する可能性はほとんどなかったとしても、道義的な責任は取る必要があります。そしてその方法もあったはずです。

 1980年代、アメリカに伝説的な猟奇殺人魔が出ます。男女人種を問わず17人を殺して食したとされるジェフリー・ダーマーです。その父親で数学者のライオネル・ダーマーは後に息子との生活を記録した著作を出版しました。「息子ジェフリー・ダーマーとの日々」です。
 息子の成長の過程や父子の関係を、非常に丁寧にそして克明に描いたこの作品から、しかしどこに間違いがあったのか、どこをどうすればよかったのかといった教訓を引き出すのは困難です。けれどそれにもかかわらずこの著作はなければならなかった――誰かがこの中に何かを発見するかもしれないからです。

 佐世保女子高生殺人事件の加害女子について、その生い立ちを細部まで語れるのは本人だけになってしまいました。それは大きな損失です。私だったら「石に噛りついても正気を失わず、地を這ってでも行き続けたい」と思うのはそのためです。


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