2014/9/30

「追加教育」〜体感!日本教育超現在史C  教育・学校・教師


  昭和22年、学校教育の具体的指導内容を定めた最初の指導要領(「学習指導要領案」)が示されましたが、それ以降追加された新しい教科・教育を“追加教育”といいます。私の造語ではありませんが広く教育界で通用する言葉でもありません。一部で使われ、便利ですので私もしばしば使用している用語です。

 追加教育の嚆矢は「道徳」です。戦前の「修身」を反省する立場から国家が倫理・道徳に介入することには強い抵抗があり、戦後しばらくは控えられていましたが1958年の指導要領から「道徳」の名で復活しました。

 次に出てきた新たな教科は小学校の「生活科」です。1〜2年生の理科と社会科を廃して新しい教科ができると聞いたとき、中学校の社会科教員だった私は相当に苛立ちました。自分の教科自体が甘く見られたと感じたからです。しかもやっている内容を見ると春の野山に散歩に出たり、「秋さがし」とか言って枯葉を集めてきたり――その程度だったら地域探訪とか自然観察の代わりだと考えて我慢することもできましたが、「ウサギと遊ぼう」だとか「秘密基地づくり」だとかになるともうただ単に遊んでいるとしか思えない・・・。そこである日、機会があって専門主事にケンカ腰で尋ねると、いたって理にかなった簡単な返事が返ってきたのです。
「あ、あれは保育のやり直しです」

 考えてみると現代の子どもたちは自然体験も社会体験も昔ほどにはありません。しかしそこまで学校が背負うとなると、この先どれくらいの重荷を背負っていくことになるのか――当時の私でさえも呆然とした気持ちになったものです。

 次に大きな変革として登場したのは「総合的な学習の時間」です。これは「横断的・総合的な学習や探究的な学習を通して,自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに,学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的,協同的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにする」(小学校学習指導要領「第1 目標」)ものですが、とにかく何をするのかそこから分からない――。指導要領の続きを見ても、

第2 各学校において定める目標及び内容
1 目標
 各学校においては,第1の目標を踏まえ,各学校の総合的な学習の時間の目標を定める。
2 内容
 各学校においては,第1の目標を踏まえ,各学校の総合的な学習の時間の内容を定める。


 簡単に言ってしまうと「やり方も内容もお前らに任せるから、とにかく目標を達成しろ」みたいなずいぶんと無責任な話なのです。そんなものを105時間も与えられ――、
 これは教員にとって大変な負担でした。教員免許取得の際にもそんな勉強はしてきませんでしたし、どこかに手本があるわけでも教科書があるわけでもないのです。もちろん本気で取り組むと実におもしろい世界で、やればやるほどのめり込み、その挙句、結局は自らをさらに多忙に追い込んでいくことになったのです。本人が好んで行っているのかそうでないのかは別にして、「総合的な学習の時間」は創設以来一貫して教師の生活を圧迫し続けています。

 最近になって現れたのが小学校の「外国語活動」で、これは黒船のごとくやってきました。
 人に教えられるほど英語が堪能だったら教師になんかならなかったと感じている人も少なくないでしょう。40代・50代にもなって初めて英語を教える教員の、児童に対する後ろめたさに、政府文科省は思い至らなかったのでしょうか?

 以上、制度として明らかになっているものについてお話ししましたが、「追加教育」はそうした制度として確立したものばかりではありません。
「人権教育」「性教育」「キャリア教育」「食育」、その他諸々。
 これらはすべて昭和22年にはなかったものです。

「追加教育」によって教えるべき内容は爆発的に増えました。しかし「追加」が行われるたび新たな免許状が創設され専門の「教科担任」が配されるというものではありませんでした。すべて学級担任が行うようになっていたのです。

 これでは多忙にならないわけがありません。




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2014/9/29

「教師の多忙」〜体感!日本教育超現在史B  教育・学校・教師


 教師は多忙、というのはもはや常識となっていますが、なぜ多忙なのか、世間の人々は理解しません。夜の学校を見れば毎晩遅い時間まで灯りがついていますから、忙しいことはわかるがなぜ忙しいのかは理解できない。納期があるわけでも製品(授業)の質を厳しく問われているわけでもない、主たる業務は子ども相手で大人の厳しい要求と常にせめぎあっている俺たちに比べればずっと楽なはずだ――そんなふうに思っているのかもしれません。
 お互いの理解が深まらなければ話は先に進みませんからきちんと説明しておく必要があります。現職の先生方方も説明をしなければならないときの一助としてお聞きください。

 教師の生活がここまで多忙になった原因は三つの点から説明できます。それは制度と教育内容と環境です。具体的に言えば「教職調整手当て」と「追加教育」と「アカウンタビリティ」です。

 教職調整手当てについては文科省のホームページに詳しい(「教職調整額の経緯等について」)のでそちらを参照していただけばいいですが、簡単に言ってしまうと、「『勤務態様の特殊性があり、一般行政職と同じような勤務時間管理はなじまない』ので時数に応じた『時間外労働手当』は支給せず、その代わりに給料月額の4%相当を全員に支給する」というものです。平均給与35万円で計算すると一ヶ月14000円ほどになります。
 超過勤務をしてもしなくてももらえる14000円ということで世間的にはすこぶる評判が悪いのですが、これは昭和41年の平均超過勤務時間(8時間ほど)を基準としたもので、月35時間もの超過勤務状態にある現代からすると、極めて低い金額ということになります。

 実際、数年前文科省が「多く働く者とそうでない者との間に差をつけてよう――頑張る先生には高い収入を」ということで超過勤務手当がどのくらいになるか試算したら、現在の調整手当(1800億円)を3290億円も超えて総額5000億円にもなってしまい、慌ててひっこめた経緯があります(もっとも超過勤務手当が創設されたら、これまで持ち帰りにしていた仕事がすべて学校で行われるようになりますから、とても5000億円では足りないでしょう)。かくして調整手当は廃止されず、将来に渡ってなくならないこともはっきりしました(財務省が理由もなく歳出を増やすはずはないから)。

 しかしそれは同時に、教員は無限に14000円で使えるということを証明したことにもなります。なにしろ超過勤務時間が8時間から35時間に延長しても14000円でいいのですから、35時間が80時間に増えてもそのままです。そして実際に月の超過勤務が80時間を越える教員がざらに出てきたのです。
 朝の部活に1時間、午後の部活に2時間、一日の整理と成績処理を1時間に押さえたとしても計4時間。月の授業日数が21日間だとするとそれだけで84時間。土日の部活を入れれば軽く90時間を越えます。

 私が教員になった時にはなかったさまざまな仕事――たとえば学校評価など、「児童生徒評価」「保護者評価」「教員自己評価」「学校関係者評価」と集計しているだけで結構な手間がかかりますが、そのための時間が確保されるわけではありません。教職でなければ時間外にのした分、超過勤務手当が出されそれが実施上のコストとして計上されるはずですが、教員の場合はノー・コストですむのです。いくら仕事を増やしてもコストがかかるということがない。この部分に手が入らない限り、教員の多忙がなくなるはずはないのです。たとえ部活を外部委託んしても、その分いくらでも仕事が入ってくるからです。                                 
(続く)

*こういう話をすると必ず出てくるのは「民間だって無限に超過勤務手当が出ているわけではない。場所によってはサービス残業が圧倒的に多いところもある」という反論です。しかしそれは民間が改めるべき問題であって、教育公務員が黙っていなければならない理由にはなりません。



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2014/9/26

「教育のゼロ・サム・ゲーム」〜体感!日本教育超現在史A  教育・学校・教師


 日本の学校教育は世界一だと言うと、「いやだけど不登校もあればいじめもあるじゃないか」という人がいるかもしれません。あるいは「その上で学力も1位を目指すべきだ」という人もいるかもしれません。「エリート教育が必要だ」という人も、「スティーブ・ジョブズを生み出すような教育の必要」を叫ぶ人もいるかも知れません。しかしそれは不可です。いや不可ではないかもしれませんが、それを目指すことで失うものがあるのではないかと私は恐ろしいのです。教育は有機的な活動であってあれもこれもというわけにはいきません。あちらに力を入れればこちらが抜けます。

 もちろん児童生徒にも教師にも、時間的にも予算的にももっと余裕があれば話は別ですしかしたとえばこれ以上、週の授業時数を増やすことはできません。夕飯給食も出した上に夜の下校をすべての保護者が責任を持ってくれるというなら話は別ですが、それはできない相談でしょう。
 教員の多忙も周知の通りです。教員数を2割以上増やせばかなりゆとりが出ますが、現状はむしろ削減に向かっています。教員もいっぱいいっぱいのところで働いているのです。

 そうした状況にあってさらにひとつ教育内容を増やそうとすれば、別のひとつが沈みます。そして実際に、そうした動きがあるのです。学力向上のための授業時数確保を名目に、「行事の削減」が進められているのは格好の例です。

 昨日も申し上げた通り、特別活動は道徳の核心です。それは道徳的生き方の実地訓練なのです。その大切な特別活動を削減して授業時数を増やそうとするのは、明らかに道徳教育のレベルを下げようという試みです。政府もそれを知っているから「道徳の教科化」で補おうと考えますが、実地訓練減らした分を教則本で凌ごうというのは愚かなことです。

 部活動を外部委託しようという試みも同じでしょう。多くの教員にとって部活動はスポーツや芸能ではありません。一流アスリートや芸術家を育てようと本気で考えている顧問も、それができる人もごくわずかです。多くの教員は根本的に、部活動の中で子どもが成長するのを喜びとしているのです。
 部活というのは目的集団ですから子どもを動かしやすいのです。選手になるため、メンバーになるため、あるいは競技会やコンクールで優秀な成績を取るために、子どもたちは多くのことを犠牲にできます。その中で忍耐力や持続力、素直さや努力、協力と自己犠牲、そうしたものを身につけるのです。その意味で部活動も道徳なので、外注に出してしまえば総合的な道徳教育に傷がつくのは明らかです。

 私が学力向上に懐疑的なのはそうした事情によります。現状をどう判断するかということと深くかかわるのですが、現在の教育改革は健康な体にメスを入れるようなものだと思えてならないのです。政府や一部の知識人たちが、日本の教育は病んでいるからメスを入れなければならないと考えているのとは、まったく違う考え方です。


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2014/9/25

「偉大なる日本の教育」〜体感!日本教育現在史@  教育・学校・教師


 今回の朝日新聞の問題で、最も美酒に酔っているのは長年「朝日新聞の自虐史観」を激しく攻撃してきた産経新聞です。しかし、その産経新聞が日本社会を見る目は狂っていないかというとそうではありません。特にその教育を見る目は、私に言わせればまさに「自虐教育観」です。だだしこれも一人産経新聞に限られたものではないでしょう。教育はすべての人々に関わるできごとですし、それぞれに思いがある、その“思い”と現実を見比べると“現実”はあまりにも拙い。そのギャップが日本の教育はダメだという意識をつくりあげるのです。しかし世界はそうではありません。

 震災における日本人の勇気・沈着、不屈と不倒、礼節と協力――ありとあらゆる道徳性が世界に紹介され絶賛されるにいたって、初めて知識人たちは「日本を貶める」ことをやめ始めた

 昨日私はそのように書きました。その“絶賛”の最中、各国は日本の道徳性の原因を教育に求め、日本の教育システムをも絶賛していたのです。特に中国では自国の教育を批判する立場から、その傾向が顕著でした。
しかし日本のメディアはその部分をそぎ落としたのです。彼らが原因としてあげたのは“日本人のDNA”という極めて非科学的なものでした。これまで非難し続けた“教育”を、今さら認めるわけにはいかなかったのでしょう。

 実際には、諸外国が評価するように日本の教育は世界トップクラス、おそらく最高峰です。
 日本の教育は学力だけでなく道徳や健康教育(これを知育・徳育・体育と言います)も担っていますが、その3分野すべてにおいて、世界のトップクラスにあります。その3分野に同じだけの力を注いでいる国家・地域はほとんどありませんし、実際にうまく機能しているところもあるわけではありません。例えば道徳教育で日本の目指す「教科化」をいち早く進めたのは(文科省の資料によれば)韓国と中国ですが、「道徳は韓国・中国に学べ」と言えば今流行の嫌韓・嫌中本の著者たちは絶句してしまうでしょう。

 日本の道徳教育が優れているのは、「学校の全教育課程を通しての道徳」という、その教育理念のためです。この理念の下では、「道徳」の授業は、たとえば野球の教則本みたいなものです。
 バッティングを学ぼうという人で教則本に目を通す人は少なくないでしょう。実際に書籍を買わなくても、先輩やコーチの話としてバッティングのあり方や考え方の説明は受けるます。ただしそうして蓄えた知識のみで名選手になった人は一人もいません。たくさんの知識を持つ人が有能な選手になるとしたら、プロ野球は大学教授だけで編成できます。
 現実の選手たちは理論を学ぶだけでなく、実際にバットを振って練習します。何度も何度も、できるようになるまで続けます。それが普通のスポーツマンのあり方です。

 道徳も同じで、「道徳」の授業で良き生き方やあるべき人間関係を学び、自分もそうありたいと願い、その上で全教育課程を通して練習するのです。
 入学式や卒業式、始業式や終業式を通して敬虔な場における態度や動きを学び、遠足や修学旅行を通して役割分担や協力、目標を達成する喜びや重要性を学びます。そうした特別な行事だけでなく日常生活でも、子どもたちは係活動をし当番活動を行い、児童生徒会活動をしながら日々生き方の訓練を続けています。だから日本の学校は特別活動の時間が圧倒的に長い。

 保育園や幼稚園のころから――きちんと並びなさい、順番は守るものです、協力して給食の準備をしましょう、食べるときはきちんと挨拶するものです、食べ残しのないようにしましょう、そのための食べ方というものがあります、自分のものは自分で管理しましょう、脱いだ服や給食着は畳むものです、帰るときは忘れ物をしないように必ず確認しましょう――そんなことを毎日毎日延々と教えられて育つのはおそらく日本人だけです。それが小学校・中学校と進むにしたがって次第にレベルアップしていくのです。これで道徳性が高まらないわけがない。

 もちろん記録によれば日本人は魏志倭人伝の時代からかなり道徳的でした(日本人道徳性DNA説が出るのはそのためです)。しかしこれだけ価値の多様化した時代であっても、なおかつ道徳的で洗練され続けるのは学校教育のおかげです。少なくともこの国で組織的・継続的に道徳教育を行っているのは学校以外にありません。

 日本の学校はこれだけのことをしながら、なおかつ学力でも世界トップクラスなのです。これで日本の学校教育のレベルが低いなどという人は、よほど世界を理解していないのでしょう。

                                   (続く)


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2014/9/24

「『だから日本はダメなんだ』」  政治・社会


 先日のあるニュース・バラエティで朝日新聞が取り上げられ、「朝日は一貫して日本を貶めるような報道を続けた」ということで盛り上がっていました。
 反対はしません。しかし「日本を貶めた」のは一人朝日新聞だけでなく、つい数年前まで、テレビや雑誌に顔を出す“知識人”たちはほとんど全員が、“日本を貶める”ことで生計を立てていたはずです。その極めゼリフはこれです。
「そんなことをやっているのは日本人だけです」
「こんなことだから世界に笑われるのです」

 この場合ほんとうに「そんなことをやっているのは日本人だけ」なのか実際に「世界から笑われ」ているかどうかは問題になりません。私たち庶民はそれを確認できるほど世界を知っているわけではないからです。留学や海外研修で外国事情に詳しい人からそう言えば黙っているしかない、しかしそれにしても胡散臭いことだとずっと思っていました。
 
 19年前のある夜、私は“いじめ”をテーマとするシンポジウムの会場にいました。その前年、大河内清輝君のいじめ自殺事件が起こり、世はいじめ批判・学校批判に沸騰していたのです。その会場で、観客席からこんな発言がありました。
「“いじめ”というのが外国にあるのか調べたところどうやっても見つからない。どうやら日本特有の現象らしい。やっと見つけたいじめ事件は海外の日本人学校のものだったという、笑えない事件があっただけだ」
 私は瞬間的に「それは違うだろう」と思いました。排斥や統合、闘争といった極めて動物的な 活動をともなう“いじめ”が、日本の文化圏にしかないというのは信じがたい話です。けれど有効な反論が思い浮かばないうちに話は先に行ってしまい、結局なにかを言う機会を失ってしまったのです。あとから考えたら児童小説なら「クオレ」や「小公女」、映画なら「果てのない物語」や「キャリー」など、“いじめ”場面が出てくる作品はいくらでもあったはずです。
 あのとき思い出していれば、あんなくだらない意見は簡単にひねりつぶせたものをと、ずいぶんホゾを噛んだものです。

 以来、私は「そんなことをやっているのは日本人だけです」「こんなことだから世界に笑われるんです」といった話が出るたびに、可能な限り調べるようになりました。OECDのPISAで「日本は成績はいいが数学や理科を楽しいと感じている児童生徒は少ない」とか、東大でさえ「大学世界ランキング20傑」に入っていないと言ったことに対する反論は、そうして用意したものです。 
 ところが「日本を悪く言うことが知識人の基本的姿勢」という状況は、ある日を境に突然変化します。2011年3月11日です。

 震災における日本人の勇気・沈着、不屈と不倒、礼節と協力――ありとあらゆる道徳性が世界に紹介され絶賛されるにいたって、初めて知識人たちは「日本を貶める」ことをやめ始めたのです。「そんなことをしているのは日本だけ」だからダメなのではなく、だから素晴らしいということになったのです。 
 しかしそれでバランスの取れた報道をするようになったのかというと、必ずしもそうではありません。
 現在、書店に行くと新刊の陳列棚は、いかに日本が優れていて世界に絶賛されているかというものと嫌韓・嫌中の書籍でいっぱいです。これもいかがなものか。
 さらに細かく見ていくと、いまだに、何の事実も検証もないのに「だから日本はダメなのだ」と暗に言っている部分がいくらでもあります。「教育」はその代表的な部門です。                     
                                (つづく)

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2014/9/22

「出しゃばりお米(ヨネ)のセクシャル・ハラスメント」  政治・社会


 昭和31年のヒット曲だそうですからリアルタイムで知る由もないのですが、「愛ちゃんはお嫁に」という曲があって中に「出しゃばりお米(ヨネ)」という女性が出てきます。この人が何をやったかというと、

さようなら さようなら 今日限り   
愛ちゃんは太郎の嫁になる
俺らの心を知りながら  
出しゃばりお米に手を引かれ  
愛ちゃんは太郎の嫁になる

 つまり何らかの画策をして、太郎さんとの縁談をまとめてしまったのです。お米さんはそういう人なのでしょう。
 昔の日本の地域社会にはこういう人が必ずいました。私の生まれた地域でも子どもが親から叱られると必ず割って入るお婆さんがいて、だから親も安心して子どもを家から締め出すことができます。こういう人は地域に独り者がいたりすると必ず出かけて行って、頼まれもしないのに縁談をまとめたりする。だから“出しゃばりお米”なのです。

 東京都議会の「男女共同参画社会推進議員連盟」会長に選ばれた自民党の野島善司議員(65)が、「平場」(プライベート)なら自分も「結婚したらどうだ」と言う、と発言して問題になっています。これが私にはよくわからない――。
 たしかに議会中、少子化問題をあつかった発言をしている女性議員に「まず自分が結婚しろ」というのは間違っています。明らかに問題の主旨をはずしていますし、相手の発言を邪魔する「嫌がらせ(=ハラスメント)」だからです。しかし平場で「結婚したらどうか」という場面はいくらでも想定できますし、嫌がらせとはいえない場合が、むしろ多いのではないのかと思うのです。

 まず考えられるのは親が子に対して言うケース。職場の先輩が後輩に言って諭すという場合もあります。その先輩が「上司」であることも、当然あるでしょう。
 野島議員の言った「平場」はそういうものであって、議員の発言を「公的な場でなければ、オレだって平気で嫌がらせをする」と解釈するのは歪曲です。
 しかしマスコミはこぞって野島発言を非難し、議員は陳謝します。発言内容を撤回することは拒否しましたが、もう二度と同じような発言をすることは(たぶん)ありません。そして一連の報道を見た人々は、公的にも「平場」でも、「結婚したらどうか」といった発言を一斉に控えるようになるでしょう。もう誰も、人に対して「結婚しろ」とは言えなくなるのです。“出しゃばりお米”の出る幕はありません。頼まれもしないのに見合い写真を持って行くのは、口で「結婚したらどうか」というよりはるかに直接的で強圧的な態度です。

 雑誌「文芸春秋」の十月号でタレントの田村淳が「テレビが楽しくなくなった」という一文を寄せています。テレビ局が自主規制に自主規制を重ねているうちに、実験的な活動がまったくできなくなってしまったというのです。さもありなんと思います。
 田村の活躍の場であるバラエティの場は、同時にニュース番組や社会評論の場でもあるのです。後者が人権の絶対尊重と小指の先ほども人を傷つけてはいけない方針で各界を非難攻撃している最中に、前者が適当なことをしては困るのです。かつては報道局がいじめ問題で学校を糾弾している最中にドリフターズが高木ブーをいじめて遊んでいるといったことも行われましたが、現在ではNGです。右手の行っていることは左手も知っていなくてはなりません。

 学校も自主規制に自主規制を重ね、少しでも危険と思われる遊具は撤去し、冒険的な活動も減らし、教師は言質を取られないよう発言を極力減らして、教材研究に向けるべき時間をコンプライアンスに使い果たす方向に向かっています。
“出しゃばりお米”のような一歩踏みでる活動は、厳に慎めと押さえつけられているようなものです。


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