2014/8/29

「私のスマホ事情」C〜Evernoteはほんとうにすごい  文具・道具・器具


 7月28日の「アフターフェア」、「『私のスマホ事情』B〜オンライン・ストレージ」で、
「スマホのメモ帳データやボイスレコーダの音声データをアップできればどんなに便利かと思うのですが、今のところ簡単にはできそうにないのです」
と書いたら旧知のネルさんからさっそくコメントがありました。
「私は、メモにはエバーノートを使っています」

 エバーノートについて全く知らなかったわけではないのですが、とにかく容量が少ない(無料版で最大60Mbytes、有料版《月額450円または年額4000円》で最大1Gbytes)ということなので最初から見送ってしまっていたのです。しかし考えてみるとスマホやタブレットは、もともと本格的な仕事には不向きなのです。結局はデスクトップまたはノートパソコンで仕事をするとなると、スマホから送るデータの量などあまり問題ではありません。

 ところで、何かの目的を持って取材に出かけるとしましょう。そのとき私たちは何を持って出かけるでしょうか。
 ノート・筆記用具は必須です。当然カメラも持ちます。インタビューの可能性を考えるとボイスレコーダも持たなくてはなりません。それをバッグに詰めれば後は出かけるだけです。また取材のつもりはなくても、何か飛び抜けて面白いことに出会ったり急な思い付きを記録したくなったりした時も、それだけあれば十分でしょう。エバーノートはそうした要求にすべて応えてくれます。

 初期画面から「新規ノート」をタップするとそこから選択できるのは「カメラ」「ドキュメントカメラ」「手書き」「オーディオ録音」「音声テキスト変換」「Skich」の六つです。このうち「ドキュメントカメラ」は、たとえば机の上に置いたメモ用紙を写真撮影したときにメモの文字のみを画像として残すカメラ、「Skich」は写真に注釈を書き込むアプリ(のよう)です。
 スマホで「手書き」入力を活用する人はそうはいないと思いますがタブレットだと便利な使途もいるでしょう。そして特筆すべきは「音声テキスト変換」。これはボイスレコーダのように吹き込むと、自動的にテキストに変換し記録に残してくれるものなのです。
 スマホのアプリで記録を残す場合、文書にはタイトルをつけ、画像はサムネイルでと、それぞれあとから検索しやすいようになっているのですが、ボイスレコーダだけは入力日時だけで、何が録音されているかを瞬時に確認することはできません。それが「音声テキスト変換」では文字としてタイトルのように残るのです。音声を聞きたければそこをタップすればいいですし、あとで編集する際はその文章をコピペすれば用が足ります。

 文書も音声も画像も、あとで検索しやすい形で簡単に残せる、本当に優れものです。
 これで私はルンルン気分(今はこんな言い方をしないだろうなあ)で取材に出かけられるというものです。ネルさんありがとうございました。

 ただし今の私は、かつてのように毎日「デイ・バイ・デイ」を書いたり、子どもに何を話そうか悩んだりといったことがなくなっているのです。そもそも取材の必要がないのです。
 それが現在の悩みです。




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2014/8/28

「至高聖所」  教育・学校・教師


 9月の末までに夏休みとして三日の年休を取らなければならないということで、今日は必要もないのに休みを取りました。天気の悪いこともあって庭仕事もできず、何カ月ぶりかで自室の片づけをしました。
 とはいっても学校から持ち帰った何十年分もの資料や物品が投げ込まれているので十分の一の整理もできません。おいおい時間をかけてやっていくということでしょう。

 しかし「必要もないのに休む」というのは何とも手持ち無沙汰なものです。後ろ暗いというか表に出にくい感じがあります。何十年も「休むのは罪悪」みたいな世界にいましたから、それが習い性となってしまったのでしょう。
 もう30年も前の話ですが、初任の年、私が学校に行かなかった日数は1年間で12日、そのうち5日間は年末年始休業でしたから夏休みも含め、普段の生活の中で休んだのは一週間だけということになります。まだ土曜日の半日日課のある時代で、しかも部活はやり放題――というか、休日は部活をやるのが当たり前みたいな時代のことです。
 思えばそのころも民間に勤める友人たちは、年休が消化できないとアクセクしていましたから、彼我の労働環境には隔絶のものがあったはずです。友だちはあのころもこんなふうに豊かな家庭生活を送っていたのかと思うと、嫉妬より先にまず呆れます。そんなに働いても、働くだけでは誉めてもらえませんでしたから。それも当たり前といえば当たりませです。

 今の生活の方がいいと思っているわけではありません。しかしこの一事をとっても、学校社会を一般尺度で測ることは無理があるのです。「学校の常識は世間の非常識」と揶揄されることの多い職業ですが、実際、外に出ると本当に非常識な世界にいたものだと呆れるとともにもう少し何とかならないものかと改めて思ったりもします。

 至高聖所――この上なく聖なるところ――皮肉を込めてそんな言葉を記しておきます。



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2014/8/27

「全国学力テストの行方」A  教育・学校・教師


 全国学力学習状況調査で成績を挙げることにどういう意味があるか、というお話をしました。
 上位を取ることのメリットも下位であるディメリットも、よく分からないのです。「秋田や福井から東大生が続々と出現したらそれで地方自治体は潤うのでしょうか?(中略)みんな都会に出て、帰ってこないのがオチです」と書きましたが、東大京大への進学率に限ると福井は23位、秋田に至っては40位とまったく奮わないのです(2010年 大学進学率は福井11位、秋田33位)。これだけをみると秋田・福井の子どもたちの学力は、高校に進学してからガタガタになったように感じられますが、実はそうではありません。全国学テで問われる学力は大学入試で通用する学力とまったく異なっているからです。それどころか学テは通常の授業からも浮いていて、普通の勉強をしていたのでは成績が上がらないことになっているのです。

 PISA(OECD生徒の学習到達度調査)を手本とする全国学テは、独創力や推理力、表現力などを問うところに特質があるといわれています。実際に問題を見てみると生活に根差した問題、学校では決して学ばなかった問題が数多く出されており、出題方法も、大量のイラストや表・グラフが用意されてそれをつなげて考えたり、長大な設問を理解して答えがひとつだったりとかなり変則的です。これは普段受けているテストや高校・大学入試とは全く異なったものです。

 普通の学校の教育は、
「各学校においては,(略)児童の人間として調和のとれた育成を目指し,地域や学校の実態及び児童の心身の発達の段階や特性を十分考慮して,(略)これらに掲げる目標を達成するよう教育を行うものとする」(学習指導要領総則)
といったふうで、独創性や個性といった特殊な能力をつけることを目的にしてはいません。全国学テを受けるにはそれなりの準備をしなくてはならないのです。

 そのことは今回躍進した静岡・沖縄の取り組みからもうかがえます。彼らは何をしたのかというと過去問や類似問題に取り組んだのです。通常の漢字練習や計算練習もしたかもしれませんが、成績を伸ばした最大の要因はテスト対策です。
私自身も2007年に赴任した学校で第一回学テの成績が市内最下位、それもダントツの低成績で市教委の猛烈なバッシングを受け、それを一年で市内2位にまで引き上げた経験があります(惜しかった、あと一歩で1位だったのに)。その時やったのも類似問題への取り組みです。

 担当の先生のその時の言葉は、今も忘れられません。
「先生、このテスト(全国学テ)、試験対策によく馴染むのです。そんなに練習しなくてもすぐにできるようになります」
 要するに「解き方に慣れればいい」「慣れるのは難しくない」という意味です。以来私は全国学テに対する真面目な関心を失いました。

 もちろん全国学テはすでに定着しつつあるものです。しかも競争に巻き込まれている都道府県も少なくありません。今更ボヤいてもしかたないことですから少し前向きに考えましょう。

 何といっても低学力の子に学力のつくのは悪いことではありません。非行少年の95%以上は低学力ですから、勘違いした学力向上が非行問題を減らす力を持っているのかもしれません。もちろん扱いを間違えると、この全国学テの狂乱が学校教育を間違った方向に向けてしまう可能性もないわけではありませんが。



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2014/8/26

「全国学力テストの行方」@  教育・学校・教師


 全国学力学習状況調査の成績が発表され、今年も秋田県や福井県が上位を占めたようです。しかし今回特に注目されたのはかつての弱小県、沖縄と静岡の躍進です。特に静岡は知事が学校別の成績を公表するといって注目されましたが、成績が伸びたことで「やればできる(叩けば成果が出る)」ことを証明したかたちになります。来年以降も、下位に甘んじた都道府県では学力向上の嵐が猛威を振るい、「やればできる(叩けば伸びる)」ことを証明するのに躍起になるでしょう。
 しかしところで、「全国学力学習状況調査」の成績が高いと、何かいいことがあるのでしょうか? 具体的に言って、秋田県や福井県はどんな恩恵を受け、静岡や沖縄はそんな不幸を背負わされてきたのでしょう。私には分かりません。

 先生が頑張ったおかげでウチの子どもの成績が上がれば、よりよい高校に行けるかもしれない――そう思うのは間違いです。みんなの成績が上がれば“ウチの子”の成績が上がっても順位は変わりませんから、行ける学校は同じです。“ウチの子”だけが得をするためには、“ウチの子”だけが頑張る必要があります。みんなが頑張ってはダメなのです。それどころかみんなが頑張れば“頭のいい子”だけが得をしてしまうのです。
 なぜなら優秀な頭脳を持ちながら怠けてくれる子がいるから努力家の出番はあるのであって、みんなが努力家になったら努力家は目立たないのです。代わって成績の上位は、生まれながら頭の良い子が占有してしまいます。
 そして困ったことに、努力家は育てられても頭の良い子は育てられません。知能の高い子は、遺伝的に生まれてくる家がほぼ決まっています。
 では賢くない子の問題ではなく、賢い子のための学力向上だと、そんなふうにも考えてみましょう。

 都道府県民師弟の学力平均が上がると、それに連動してエリート層の成績も上昇し、日本をけん引する人材が誕生する、そうした仮説が可能です。しかし実際にそうだとして、秋田や福井から東大生が続々と出現したらそれで地方自治体は潤うのでしょうか? そんな田舎に、東大卒の職場が十分にあるとは思えません。みんな都会に出て、帰ってこないのがオチです。

 それは知事や都道府県教委委員長の鼻は高いでしょう。とにかく全国トップですから。しかしそれが何ほどのことか――そう私は思います。

 すこし冗談が過ぎました。しかしこの「全国学力学習状況調査」の狂乱には、本質的な思い違いがあるのは間違いないのです。
 ある日気づくと、「なんとバカなことに血道をあげていたのか」と思うようなとんでもない思い違いです。




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2014/8/25

「役に立つ人々とそうでない人々」  政治・社会


 広島の被災地では日々行方不明者が増えるという残酷な逆転はなくなったものの一貫して天候が悪く、発見される行方不明者も日に一人、二人と、遅々として進みません。昨日は天候の不順を理由にボランティア活動も中止となり、多くの人々が空しく被災の地を去る姿が報道されていました。一刻も早い天候の回復と復興を祈るばかりです。

 しかしそれにしても東日本大震災以来、国内のどこかで災害があれば当然のごとく休暇を取り、リュックを背負ってスコップを手に、ボランティア活動に励もうとする誠意の人々がものすごく増えた気がします。そして無数のボランティアを差配する組織やマニュアルも非常に整った感じがします。本当に真面目な国民です。

 かく言う私も3年前、東日本大震災の際にはいち早くボランティアに出ることを考え、しかし被災地に十分な受け入れ態勢がないので3月の後半と4月の大部分をむだに過ごし、そしてゴールデンウィークになっても出番がないので仕方なく裏の小さな畑作りに勤しんでいるうちに、ハタと気づいたのです。
私なんか全く役に立たない。

 わずか半日の畑仕事で疲れ果ててしまうのです。そんな私が被災地に行って丸一日瓦礫を掘り起こすなど、とてもではありませんができるはずがありません。よせばいいのに見栄を張って能力以上に体を動かし、挙句の果てに現地の病院のお世話になって迷惑をかける、そんなところがオチです。
私はないか本当にがっかりしました。

 秋葉原の無差別殺人事件の際、直後の街に象徴的な風景が広がりました。それは直接役に立つ人間としおいうでない人間のあざやかな対比です。
救急車の駆け付けるまでのわずかな時間に、周辺にいた医師や看護師、その他医療関係者は被害者に取りついて心肺蘇生を始めます。ひとりでも助けようと皆必死なのです。その一方で他の人々――そのうちの多くが携帯電話を持ち出して写真撮影を始めたのです。

 こちらで面白おかしく写真を撮っている者たちとあちらで直接的に命を掘り起こそうとしている人々――願わくば私も“あちら側”の人間でありたいものだと、そんなふうに思わせる構図です。

 シャベルを担いで広島に行って働くだけの力はありません。もちろん募金には応じるとして、それ以外に何ができるか。
 今回は間に合わないにしても本気で考えておこうと思います。



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2014/8/22

「忘れてはいけない」  親子・家族


 広島が大変なことになっています。
 被災後、二日たっても三日たっても行方不明者が増え続けるという異常事態は、阪神淡路や東日本の大震災以外に絶えてなかったことのように思います。天気図を見ると繰り返し繰り返し第一級の雨雲が広島にかぶさって行き、まるでいじめているがごとく――。
 一刻も早い天候の回復が望まれます。

 さて、今回の災害については様々に悲しい逸話が伝えられていますが、なかでも私の心に暗く覆いかぶさってきたのは最初に報道された二人の被害者、2歳と11歳の兄弟に関わる物語です。8月20日の朝、「午前3時20分ごろ広島市安佐南区山本の住宅で裏山が崩れ、この家に住む2歳と11歳の男の子2人の行方が分からなくなりました。消防が捜索した結果、午前5時15分ごろ、このうち2歳の男の子が見つかりましたが心肺停止の状態だということです(NHK 8月20日 6時25分)」と報道されたあの子たちです。

 NHKでは映像だけでしたが民放では音声も流され、中で母親とおぼしき人が叫んでいます。
「どこにいるの!」「答えないさい!」
「『助けて』って声を出しなさい!」
 それは本当に悲痛な叫び声で、静かな被災地に大きく響き渡ります。もう消防が入っていましたから相当な時間が経っていたはずです。しかしそれでも叫ぶのをやめない――。私はテレビの音に耳を傾けながら、よく似た叫び声に記憶のあることを思い出しました。それもやはりテレビの中で聞いた声です。

 4〜5年前のことです。やはり民放の特番で、小児がんの4歳ほどの男の子とその家族を追ったドキュメンタリーの中に、その声はありました。
 抗がん剤の影響で髪を失ったその子は、すっかり痩せ細ってまるで老人のように見えます。すでに回復の見込みはなく、家族はその命を誕生日まで長らえさせようと、必死の思いで戦いを続けているのです。
 そしてようやくその望みが達成され迎えた誕生日の朝、テレビクルーがお宅を訪ねると家の前に救急車が泊まっていたのです。聞くとその朝、急に容態が変わったというのです。
 カメラはそのまま救急車を追い、救急診療の場に侵入します。そしてあの声が響いたのです。
「ダメよ〇〇(子どもの名)! 死んじゃだめ」「目を開けなさい!」
「今日はダメ、今日はダメなの! 今日は死んじゃいけないの!」

 子どもが死ぬのに今日も明日もないはずです。しかしその家族にとって「今日はダメ」なのです。

 私は基本的に信仰心の篤い人間です。しかし神意や神慮が分からなくなるのはこういうときです。なぜその一日が待てないのか。“その日”、家族から子どもを奪うことにどういう意味があるのか――。
 
 私たちは初めてわが子にあった日のことをすぐに忘れてしまいます。その日3sほどの小さな命の塊を抱きしめながら、ただひとつ願ったことは「健やかに育て」、それだけでした。
 そうした素直な感情は、子を失いそうにならなければ思い出せない、それほどもろいものだったのでしょうか。


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