2014/7/18

「暗黒のクラウド」A  教育・学校・教師


 まず問題となったのは、自宅で仕事をしようとする場合、市のプロバイダと契約して月々2500円の料金を払わなければならないということです。2500円という金額も金額ですが、「お金を払って仕事をさせていただく」という卑屈さが我慢ならない、教員とはそこまで惨めな職業だったのか、そういう思いで話をしました。

 かなり熱意を込めて話したのですが、そうこうするうちに「それでは2200円くらいで・・・」とかいった条件闘争みたいな言い方で返されたので、さすがの私も腹に据えかねて、
「そういう問題ではない、なぜA市の子どもたちのために働くのに教員が金を出さなければならないのか、そういう根本的な話をしているのだ」
 すると相手は、
「じゃあこちらも根本的な話をしますが、なぜ家で仕事をしたがるのですか、したいなら学校でやればいい」
 何か虚を突かれた感じで一瞬ひるみ、それから、
「学校でやると言ったって、夕飯も食べずに9時、10時ですよ」
 すると、
「じゃあ一度家に帰って夕飯を食べてからまた出かけてくればいい。私たち市役所の職員はそうしています」
 そこでまた私の側に混乱があって《まさか市の職員たちが毎日いったん自宅に戻り、改めて出勤して仕事をしているなどということはあるまい》と思案しているうちに、ふと思いついてこう尋ねました。
「そういうこと――いったん自宅に戻って夕飯を食べ、もう一度職場に戻って仕事をするということ、一カ月に何回くらいあります?」
「月に一回か、二か月に一度くらい・・・」
 そこで私は再びキレました。
「学校はそれが毎日なんだ!」

 言葉の応酬はそれで終わりです。私が勝ったわけではありません。相手が一瞬ひるみ、それから見下すような目で私を見てゆっくりと視線を逸らしたからです。
《オマエ、そこまで言う? いい年をした大人がそんな見え透いたウソをついてまで勝ちたいわけ?》
 彼の表情に私はそんな空気を読みました。全く噛み合いません。


 考えてみればそれはそうなのです。市の職員には超過勤務手当が出ます。休日出勤手当もあります。私たちの感覚からすれば相当な額です。それをわざわざ捨てて自宅で仕事をする理由はどこにもないのです。時間外労働をしなければならない正当な理由があるなら堂々と職場に戻って仕事をすればいい、そのために監督者も仕事ができるだけ勤務時間内に終わるよう配分しているのです。世の中は基本的にそういうふうになっています。そうした常識的な文化になれた人間には、24時間365日教員であるような学校の生活は理解できないのです。

 もう切り上げられた話ですし、互いの間に横たわる溝の深さと大きさに途方に暮れた私はそれ以上深追いしようとしませんでした。もしかしたら月額2500円というのも本気で考えた話ではないのかもしれないからです。何が何でも自宅で仕事をやりたいと、訳の分からないことを言うから一応答えてみた、その程度の話かもしれません。作戦の練り直し、仕切り直しです。

 そしてようやく次の話題、「一度入れた情報は二度と引き出せないシステム」に移ったのですが、そこで私は、さらに深い闇に出会うことになります。

                                      (この稿、さらに続く)
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2014/7/17

「暗黒のクラウド」@  教育・学校・教師

 
 勤務時間内に成績処理などの時間を確保しない限り、教員による情報の持ち出しはなくならないだろう。そして授業時間の確保、業務の拡大という現状を考えるとそうした時間の確保はできない。したがってUSBの紛失をはじめとする情報の持ち出しの問題は絶対になくならない。そう書きました。

 校長会も都道府県教委・市町村教委もその辺りの事情はよく分かっていて根本的な問題解決に乗り出すことはせず、情報紛失は繰り返され処分者も不断に出されます。それで仕方ないと、心の隅で思っていたのです(たぶん――もし本気で怒っている人がいるとしたら、その人はあまりにも現状分析のできない人です)。

 しかし行政はそうではありませんでした。繰り返される不祥事、世論・マスコミからの突き上げ、延々と続く謝罪に辟易していたのです。そこで提案されたのが今日で言うクラウド・コンピューティング(クラウド)です。
 10年ほど前のことです。当時勤務していた学校の管理者であるA市の情報担当者から、次のような話がありました。
@学校のサーバーコンピュータを撤去し、市の情報管理室にあるサーバーに一本化する。
A教員にはそれぞれ端末が支給されるが、それはいわばモニターとキーボードとマウスのセットで、情報の出し入れは回線を通して市のサーバーから行う。そのセットからUSBなどの媒体を使って情報を取り出すことはできない。
B家で仕事をしたい人は市のプロバイダと契約してもらい、IDとパスワードを使って市のサーバーにアクセスする。ただし情報を個人のコンピュータに移すことはできない。
Cどうしても情報を取り出したい人は、市に申請して許可を得てからにする。

 当時クラウドに関する知識がなかったのでイメージをつくるだけでも大変だったのですが、次第に分かるにつれ、これはとんでもないシステムだということになってきました。

 問題の第一は、家で仕事をしたい人はお金を払ってプロバイダ契約をし、「仕事をさせてもらうことになる」ということ。当時すでに若い教員は携帯電話しか持たなくなっていましたから、私のようにプロバイダを民間から市に切り替えればいいという状況ではなかったのです。

 第二の問題は、「一度入れた情報は(基本的に)二度と引き出せない」ということです。家で完璧な仕事を行って紙にプリントアウトして持ってくればいいようなものですが、常に完璧というわけにはいきません。学校で訂正が入り、校内の端末で修正してプリントアウトするとその決定稿は市のサーバーに入って二度と出てこないのです。もちろん決定稿を持ち帰って家で打ち直せばいいのですが、その修正を家でさらに再修正となると、大変な労力のむだです。確かに情報漏えいや紛失の危険はないものの、その膨大なロスを考えるとてもではありませんが現実的なアイデアとは言えません。
 そこで猛然と抗議するのですが、市当局との折衝の場で、私は驚くべき認識の乖離に出会うのです。

                                     (この稿、続く)
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2014/7/16

「USBはなぜ失われるのか」    教育・学校・教師


 ベネッセから最大2070万件の個人情報が流出したと大問題になっています。日本の人口のおよそ六分の一という大変な量です。流出した内容は「郵便番号」「顧客(子供とその保護者)の名前(漢字およびフリガナ)」「住所」「電話番号(固定または携帯)」「子供の生年月日と性別」。クレジットカードの番号や有効期限、金融機関の口座情報、成績情報などは入っていないそうです。
 これに関してベネッセへの問い合わせは事実が発覚した9日だけで4500件。持ち出されたかもしれない2070万件のデータといえばおよそ500万〜700万世帯ですから、1100から1500軒に1軒の割合で電話をかけたことになります。これが多いのか少ないのか、私には分かりません。

 しかしそれにしても住所氏名年齢といった個人情報、ほんとうにそこまで重要な情報なのでしょうか。
 例えば教員は名簿や成績の入ったUSBを紛失すれば処分が下されます。校長の許可なく外部に持ち出したというだけで違反です。しかしそれほど重要視される個人情報は、子どもたち自身がゲームしたさに平気でネット上に流出させているのです。そのアンバランスは何ともやりきれない。
 子どもが間違っているといえばそれまでですが、しかし翻って、そもそも住所や氏名、さらには小中学校における学習成績といったものは極秘扱いしなければならないようなものなのか、そんなふうに思うのです。
 以上、これには結論も主張もありません。ただ違和感があるということだけを記しておきます。

 ところで、今も教員による成績データの紛失という事件は後を絶ちません。「個人情報の入ったUSBを紛失した。教委が説明し、謝罪した」といった話は毎月のように新聞紙面に載ります。学校は説明会を開いたあとで個人個人の家に謝罪して回り、市町村教委は学校にカウンセラーを派遣して子どもの心のケアを行う――個人データがなくなったことでカウンセリングを必要とする小中学生がいるという発想自体がすごいのですが、とにかくありとあらゆる手を尽くしてお詫びをする、そんなことが繰り返されています(それでいて紛失したデータが悪用されたという話はつとに聞きません)。
 校長は自分の立場が無視されたと怒り(何しろ情報は持ち出すなと繰り返し言っていますから)、教委や世論は「またか」と呆れて教員の自覚のなさに呆然とする・・・しかし誰も「なぜ教員は繰り返し情報を持ち出すのか」という問題に向かい合おうとしません。それもまた不思議です。

 なぜ教員は繰り返し情報を持ち出すのか――私に言わせればその答えは簡単です。
 他に方法がないから――それがすべてです。

 中学校の教員などは、授業をやって会議に出て、部活の指導をして職員室に戻ればもう6時半です。そこから机上を整理して残された仕事を配分すると午後7時、採点をして成績処理をするのはそれからということになります。
もちろん夕食も摂らずにそのまま深夜まで学校で行うという方法もあります。若いころの私はそうしました。しかし家庭を持って子の養育が始まるとそうもいきません。成績処理ばかりかありとあらゆる仕事は家に持ち帰ることになります。そうしないと学校が回って行かないからです。逆に言えば、勤務時間内に成績処理などを終えるだけ十分な時間を確保しない限り、教員による情報の持ち出しは絶対なくならないのです。

 実は校長も教委もそうした事情に気づいているのですが、知っていながら手が打てません。授業時数の確保も大事、情報共有と意思統一場である会議も大切、部活も大事。だからといって超過勤務を命じるわけにも行かない。授業時数を考えると、簡単に振替休業を取ることができないからです。

 かくして不断に情報は持ち出され、しばしば事故で紛失し、多くの教員が処分されて校長たちは謝罪に駆けずり回る・・・おそらく根本的な労働環境の改善がない限り、こうした状況はなくならないのです。
                                    (この稿、続く)


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2014/7/10

「カクテルパーティー効果のこと」    知識


 昔、ある性格診断をしたところ、私の第一の特徴は「調べる人」なのだそうです。確かにその通りです。

 若いころは一度調べ始めると答えが見つかるまで諦めがつかず、辞書や書籍の上には付箋の束が広がりました。Aを説明する文章のBという言葉が分からず、Bを調べているうちにその中のCが分からず・・・今はネット検索でたちどころに調べられることが、昔はできなかったのです。
 ほんとうにウンザリとするような状況でしたが、年齢を重ねると「諦めて放置する」という知恵もついてきます。1時間も調べて見つからないことはそう簡単に分かることではないのです。しかしその疑問を大切にしているといつか答えに出会う、すれ違いそうになっても疑問のアンテナは必ずそれを捉えると、分かって来たからです。

 この話はけっこう私の十八番で、その例として「中学校時代から疑問に思っていたこと『中国とは1000年以上もの交際があったのに、マルコポールはなぜジパングなどという奇妙な国名をつかまされたのか』という疑問を大切にしていたら、十数年後、説得力のある答えに出会った」という話をします。マルコポーロが聞いたのは「ジッパン(グ)」、つまり「ジツ(日)」「ポン(本)」だったのです(という説)。

 さて今回出会った「諦めて放置された疑問」の答えは、カクテルパーティー効果に関するものです。カクテルパーティー効果というのは、パーティーのようにたくさんの人が雑談しているなかでも、自分の話し相手の話や興味のある人々の会話は自然と聞き取ることができるというものです。人間の能力のすばらしさを示す例として好んで話すのですが、この効果、テープレコーダやボイスレコーダで記録したものについてはほとんど効かないのです。なぜ生の声だと聞き分けられるのに記録媒体だとだめなのか・・・。

 その答えと昨夜のNHK「ためしてガッテン!」で出会いました。面白い実験をしていたのです。
 頭の左右にスピーカを置き、まず右のスピーカから指示と雑音を出します。指示が聞こえない音量の雑音ですから、当然聞き取れません。ところが反対側のスピーカ同量の雑音だけを出してやると、指示された内容が聞き取れるのです。雑音は2倍になったのに言葉はむしろはっきりする、それが証明したい事実です。その秘密は、言葉が左のみから出てくることで、全体に広がる雑音の中でそれだけが異質と認識できるからです。

 パーティーのさなか、音は右からも左からも、正面からも右前からも左前からも来ます。カクテルパーティー効果は人間の耳が、音の到達する左右の時間差を計算し、どの方角から来たかを聞き分けるところから生まれます。その差が10万分の数秒であっても聞き分けることができるのだそうです。
 そうなるとあとは必要とする情報の方角の音を、脳が増幅させればいいだけです。レコーダの音は一か所から出てきます。だからカクテルパーティー効果は起きないのです。

 聞けばそれだけのことですが、長年疑問として抱えてきた私には、ほんとうに清々しいような話でした。


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2014/7/4

「お母さんの好きなこと」    親子・家族


 申し訳ありません、ふたたびお呼び立てして。先日お話ししたとき、
「ウチの子は、自分がやられたことについてはものすごく詳しく覚えているのです。やったことについてはほとんど話しませんが・・・」
 そんなふうにおっしゃいましたよね。あのとき私は、子どもにはよくあることだと、そんなふうに言って次の話題に進んでしまいました。しかしあれから家に帰って何か胸につかえたようで、ずいぶん苦になったのです。
 確かに啓介くん、“やられたこと”についてはとても詳しく覚えています。もしかしたら「子どもにはよくあること」というレベルを越えているかもしれません。ほんのわずかの差なのですが、やはりちょっとしっかりしすぎているような、そんな感じなのです。それはなぜだろうか、そんなふうに考えているうちにふと思ったのは、もしかしたらそれはお母さんの一番好きなことだからなのかもしれないということです。好きなことと言えば語弊がありますね。お母さんが一番熱心に聞いてくれること、そう言った方がいいでしょう。
 私はこれについて、昨年いろいろ考えたのです。

 去年の夏、市内の中学校で先生が生徒にヘッドロックをかけ、汚い言葉を吐いてゲンコツで殴ったという体罰事件がありました。覚えていらっしゃいます? 「ふざけたバカヤローめ」 そう言って何度も頭を小突いたのです。新聞記事にもなって、ずいぶん話題にもなりました。いまどきそこまでやる教師は少ないのです。けれどその人はやった。

 結局その先生は半年間、薬を飲みながら謹慎生活を送ったり研修を受けたりしながら暮らして、この春に退職されました。まだ30代の若い先生です。

 事件はほぼ新聞記事の通りです。しかし実際に様子を聞いてみると、「体罰」というのとは多少違います。その先生と“被害”の生徒は、部活でも一緒の非常に仲の良い間柄なのです。ヘッドロックも汚い言葉も言わばじゃれあっているようなもので、その子は“被害”のあいだじゅうヘラヘラしていました。“事件”のあとも、教師を訴えようなど微塵も思っていなかったのです。
 これをマスコミに訴えたのは別の生徒でした。正確に言えばその子が“事実”を母親に伝え、その母親がマスコミに訴えたのです。学校に対してとても批判的な方です。教師の不正や非違行為が大好きなのです。事件を見ていた生徒は母親にそのことを報せます。母親はとても熱心に話を聞き、ともに考えてくれます。それは母子にとって非常に濃密な、至福の時間です。
 もちろん先生のやったことは誉められたことではありませんし、うかつと言えばうかつです。しかし体罰というのとはだいぶ違います。県教委が重大処分にしなかったのも、そうした事情を組んでのことでしょうが、だからといって処分をしないわけにはいかなかったのです。

 啓介くんの中にも、それと似たことが起ってくるのかもしれない。このあいだ私の胸の中に浮かんだ疑念はそれです。お母さんは、啓介くんのことを心配するあまり、そうした話が出るたびにいつに増して熱心に話を聞かれるのではないか、そう思うのです。
 お母さん、お忙しいですよね。仕事を持っているうえに双子の弟さんまでいる。その双子さんが生まれた瞬間から、啓介くんがお母さんから与えられる愛情は三分の一になってしまいました。どの家でも同じです。子どもが二人なら二分の一、三人なら三分の一、しかも一番上の子は手のかからない分さらに少ない、それが当たりまえです。しかしその愛情の減った分は濃密な時間で埋め合わされなければならない、それが子どもの感じ方です。お母さんが真剣に話を聞いてくれる時間がどうしても必要なのです。

 子どもは、特に男の子は、知ったかぶりをして偉そうな話をすることが大好きです。だからお母さんが子どもの新しい知識、学校で学んだことや本で読んだこと友だちから聞いた話に興味を持てば、その子はいくらでも新しい知識の話をします。そのためにさまざまなことを覚えて帰ります。
 ひとに誉められ話をしたらお母さんが飛び上がって喜んだ、そうした経験をした子どもは選択的に誉められた話題を持ち帰ろうとします。お母さんが先生の悪口を好む人なら、そうした話ばかりを採集して帰るでしょう。

 そしてお母さんがわが子を心配し、子どもが少しでも傷つけば我慢ならないと待ちかまえれば、その子はそうしたことだけをしっかりと記憶しそんな話ばかりを家に持ち帰る、そういうことではないかと思うのです。そうなるともう、その子は立派な「いじめられっ子」です。抵抗しませんから。総体的にみると、やられて帰った方が得なのですから。
 そんなことを考えて胸を燻らせながら、そして今日、お話しする気になったのです。もちろんこれは単なる仮説にすぎませんが・・・。



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