2014/6/29
「ワールドカップサッカーと松本サリン」 政治・社会・文化
ワールドカップサッカーも決勝トーナメントに入って、今日はコロンビアが快勝。
「もしかしたら今日のこの位置に日本がいたかもしれない」
気持ちの奥にまだ2週間前の雰囲気が残っていて、「コロンビアもウルグアイも敵じゃない」とそんな錯覚がチラつきます。しかしこの両チーム、あるいは10回戦っても1回勝てるかどうか、それほどの差があるのかもしれません。
思えばわずか数週間前まで、1次リーグはまあなんとか、決勝トーナメントもとりあえず一勝、とか思っていたのが開幕直前になって評論家の発現が急激にトーンダウン。
「日本が決勝トーナメントに進出する可能性は50%」
って、4チーム中2チームなら50%に決まっているだろうとツッコミを入れたくなるような発言が次々。
「日本は堅守速攻に徹すべし」など、明日試合という日に言うことか?
そして1勝もできずに終了すると、「実は本田は手術をしていた」とかチーム内の不和とか、合同練習が不足していとか・・・、そんなことは開幕前に分かっていただろうに、なぜ事前に出せなかったのか。
私はそういうところにマスコミの恣意といい加減さを感じます。
一昨日は「松本サリン事件」の祈念日でした。20年目ということもあって今年の扱いはいつもにまして大きかったようです。マスコミの誤った報道といった側面からの扱いも少なくはありませんでした。しかしそれでも不十分でした。
10年前の報道で、忘れられない一言があります。それは(正確ではありませんが)、
「救急車で運ばれる際に、河野氏は『農薬を調合していて失敗した』と語っていた」というものです。後から考えると絶対にありえない発言です。しかしそれがあのときはまかり通った。
しかもメディア全体が「河野=犯人説」だったため、すべての情報にバイアスがかかって流されていく。
「サリンは誰にでも製造できる」
「サリンになる直前の物質があれば家庭内の器具でも調合できる」
しかしその「サリンになる直前の物質」は一民間人に購入できるものではなく、「大量購入」となると政府の研究機関ですら不可能なことでした。その点は一切報道されません。
すべてが明るみに出て第ナントカ・サティアンとか呼ばれる研究棟の大プラントを見せられた時、私たちの常識的感覚は初めて戻ってきました。
そんなに安易に生成できる毒ガスなら、とっくに世界中で規制の網がかかっていたはずです。簡単にできないからこそ化学兵器としていくつかの政府に独占されているのです。
そんな当たり前のことが、メディアはなぜ分からなかったのか。分かっていながらわざと書かなかったのか、そうした点については十分な検証がされませんでした。あるいは検証しても、生かす気持ちはなかったということなのかもしれません。
97年の酒鬼薔薇事件の際は犯人逮捕の直前まで、「黒い服を着た30歳前後のがっちりした体格の男」が問題になっていました。あの人はどうなったのでしょう。最近の東京都議会のセクハラ野次についても、メディアはすでに発言者を確定しているはずです。しかし誰も書かきません。
分かっていないのに書く、分かっていても書かない、メディアのこうした恣意に私たちは耐えていかなければならないのです。

2014/6/20
「男性にもまれ」 言葉

左胸の脇に近いあたりに何やらシコリがあるのです。それもかなり大きさで長さ6p、直径3pほどの紡錘形といった感じでグリグリしています。昔、左右の胸筋のバランスが悪いなと思ったことがありますから、そのころからのものかもしれませし、もしかしたら最近急に大きくなったものかもしれません。
筋肉のつき具合(というか衰え具合)をみるために胸を張って触ることはあっても、柔らかい状態で触れるということは一度もなかったのです。
乳がんのうち1%は男性の発症です。私はそのことを知っていました。本気で心配するような数字ではありませんが年齢も年齢です、やはり見てもらった方がいいかな――そう思ったのが月曜日。
今の同僚に「マンモグラフィーやるのかな?」「挟むオッパイないだろう、相撲取りじゃあるまいし」などとからかわれながら火曜日に医者に行き、超音波の予約を入れて、その検査が昨日でした。結果はシロ。大きな脂肪の固まりだろうということでそのまま放置です。やれやれ。
ところで「乳がんのうち1%は男性」を知っていたことには理由があります。
国語の世界に「なぎなた読み」(または「ぎなた読み」)というのがあります。これは「弁慶が、なぎなたを持って」を「弁慶がナ、ぎなたを持って」と読み違えることで、有名なものでは銭湯の入口に書いてあった「ここではきもの(履物)をぬいでください」を「ここでは着物を脱いでください」と読み違えて裸になってしまったというのがあります。ネットで調べると「風呂に入るか入らないか?」「風呂にはイルカは要らないか?」とか「今日中に、食べましょう」「教授、ウニ食べましょう」とかいくらでも出てくるのですが、私が特に気に入っているのは次の文です。
「乳がんは男性にも稀ながら発見されます」
「乳がんは男性に揉まれながら発見されます」
これに出会ったとき、本当に男性にも乳がんはあるのかと調べて、先の「乳がんのうち1%は男性」を知ったのです。
この話は、私が抱えるトリビアの中でも最も気に入っているものですが、学校で披露したことはありません。もちろん「デイ・バイ・デイ」に書いて証拠に残すこともできませんでした。セクハラ疑惑が濃厚すぎますから。
今は口にすることも文章にすることもできます。セクハラで訴えられても新聞に載ることはありません。
あのころはそうは思いませんでしたが、今思うと本当に窮屈な世界にいたものです。

2014/6/18
「爽快!」 教育・学校・教師
日曜日は午前4時過ぎから心臓をパクパクさせ、10時16分には興奮の極みにいて、12時15分には暗澹たる気持ちでいました。もちろんワールドカップ・サッカー、コートジボアール戦です。珍しく夕方まで尾を引きました。
私は熱烈なサッカーファンではありませんが、とてもブームに乗せられやすいのです。
月曜日も一日気が重く、昨日も気分が悪かったのですが、9時のNHKニュースを見ているうちに気持ちが切り替わりました。コートジボアール戦の終了後、スタジアムでゴミ拾いをする日本人サポーターの姿が取り上げられ、ブラジルやイギリスのマスコミで絶賛されたというのです。
「そうだろ、そうだろ、日本人はそうなんだよな」
そんな気持ちです。
調べてみるとこのブログの中でも過去に2度、日本人サポーターのマナーの良さについて話しています。
1998年のフランス大会でのことです。大量の日本人サポーターがフランスに渡ったものの、現地で渡されるはずのチケットが実際には存在せず、何千人もが路頭に迷うという事態が起こりました。競技場に入れない日本人は当局の指示に従ったまま町々を転々とし、指定された場所の大型モニターを見ながらの応援となったのです。おまけに試合も全敗ですので、最低です。
しかしそんな状況にあっても、日本人サポーターは対戦相手へのエール、試合前後の国際交流、会場の清掃と、マナーの面で際立った姿を見せることを忘れませんでした。
もともとJリーグ発足の当時から競技場にゴミ袋を持ち込み、試合後は清掃をして帰るのが習慣になっていましたから、フランスでも同じことができたのでしょう。
これが、サッカー観戦は大暴れする場と心得ているヨーロッパの人々からみると異様な光景だったのです。翌日の新聞には、日本人の態度を絶賛する記事が新聞各紙に載りました。
その新聞の見出しのひとつはこうです。
「日本人、チケットはないが、エチケットならある」
(2010/6/23)
私はこの話が好きで、子どもたちにも何度も話してきました。
昨日のNHKニュースでは、試合後に清掃をするサポーターの習慣の源流は新潟アルビレックスにあるというような話をしていました。サッカー場の清掃という点ではその通りでしょう。しかし家を出るときからゴミ袋を持って出かける日本人という点では、さらなる源流があります。
日本の小中学生です。
遠足だって、登山だって、修学旅行だって、その持ち物の一覧の中には必ず「ゴミ袋」「エチケット袋」の記載があります。私が子どものころから、旅先のごみは自分で持ち帰るようになっていたのです。
私たちや私たちの先輩や後輩の地道な努力が、今、ブラジルでも花開いて世界を驚愕させている、そう考えると何とも小気味よいものです。
参考:日本が世界に教えていること

2014/6/16
「デイ・バイ・デイのこと」B 教育・学校・教師
学校の教務日報の内容をそのままブログに載せるようになってから、日報としての文章は具体性を失っていきました。具体的な、たとえば勤務校独自の行事や個人について書いていると、次第に外堀が埋められ、やがて身元が明らかになってしまうような気がして恐れたのです。
BBSのことがあってから、私は慎重になりました。ネット上でボロボロになってもサイトを手放すだけで済みますが、リアルな世界で同じことが起ればたまったものではありません。「ブログで現職教員があんなことを言ってる」と「〇〇中学校の△△がこんなことを言った」では影響力がまるで違います。
また、それは「現職教員が言った」と「一介の市井人が言った」でもずいぶん違ってくるでしょう。同じことを言っても、その辺りのおじさんの言った話など、多くの人は歯牙にもかけてくれないはずです。その点で今は気楽なものです。
業務日報を転載してのブログは3月末で終了しました。日報を書かない以上、そのようなブログが今後再開されることはありません。したがってその意味で、「最終回」は嘘ではありません。あとは気楽な立場から、どこかのおじさんが呟くだけです。
タイトルを「アフター・フェア」に変えました。こんな英語が成立するかどうかも分かりません。もちろん一義的には「アフター・ケア」のダジャレ。唐突にやめてしまった「デイ・バイ・デイ」の後始末です。単語を無理やり日本語に移せば「後の祭り」「祝祭のあと」――英語圏の人には伝わりそうもありませんが、私のブログには合いそうです。
いずれにしろ、ゆっくりやって行きます。今後もよろしくお願いします。

2014/6/13
「デイ・バイ・デイのこと」A 教育・学校・教師
検索等でブログから入られた方の中にはご存じない方もおられるかもしれませんが、「デイ・バイ・デイ」は私が15年前から運営しているウェブサイトの一部です。
「ああ言えばこう言う辞典」と言います。
テキストばかりの大部なサイトですが、10年前、その主戦場はBBSでした。
もともとは様々な人に来ていただき、互いに論争するのを高みから見ていようと思って設置したのですが、実際に書き込もうという人は訪問者のごく一部ですから「互いの論争」という形にはならず、基本的に私と訪問者との一対一の対話という形式になっていました(学校でやっていた私のへたな授業と一緒です)。ただし、いったんスタートしてみるとこれはなかなか面白い試みでした。
話題として提供された内容に即答しないと、次々に話が重なって“夏休み終盤の宿題の山”みたいになってしまうのです。そこで可能な限りその日のうちに返事をするのですがこれがなかなかシンドイ仕事で、しかしかなりやりがいのあるものでした。自分の中に眠っているもの、自分の中から絞り出したものを文章にして目に見える形にするのは、やはり快感であり、かつ収穫の多いものだったのです。私はけっこう気に入って、この仕事に励んでいました。
ところが・・・、
サイト運営を始めて7年目、学校では「デイ・バイ・デイ」の元となる教務日報を書き始めて1年半たったころ、「ああ言えばこう言う辞典」の方で大変なことが起ります。BBSに強烈な個性が現れて、私だけでなく、私のお客様にも片っぱし噛みつき始めたのです。本当に精力的な方でした。
これをコントロールしようとして私も一か月ほど悪戦苦闘しましたが、結局うまくいかずBBSはいったん閉じます。そして代わりに業務日報をブログにアップするようになったのです。それが「デイ・バイ・デイ」です。
BBSはのちに再開しますが、昔のような活況は戻ってきませんでした。そもそもネットの世界全体が、BBSやチャット中心の時代からブログ全盛の時代へ移行しつつあるときでしたから、私のBBSの衰退も自然なものであったのかもしれません。ブログの更新自体は大したことではありません。毎日書いているものをただ移すだけですから作業としては楽なものです。
ただし本来は校内だけで読まれることを予定して書いていた文も、公開の場に出すとなると変質せざるを得ません。一言でいえば、身元が明らかになるような内容は書けないということです。
もちろん教務日報用とブログ用の二種類の文を書けばいいようなものですが、「その日、自分が感じた一番素敵なこと」「初めて知った面白いこと」を一方に話さないのはあまりにももったいなかったのです。
(この稿、続く)

2014/6/12
「デイ・バイ・デイのこと」@ 教育・学校・教師
6月8日の書き込みにコメントをつけていただきました。そこに「3月に退職し、(それで)ブログも終わったと思っていた」という内容がありました。そこで説明しておきたいと思います。
今から11年前、私は管理職の端くれとして田舎の小さな学校に赴任しました。それはけっこう大変なことでした。なにしろ教員というのは授業や行事の進め方、学級経営といったことには修練を積んできますが、学校運営や事務管理といったことにはさほど訓練を積まないまま突然、管理の世界に入ってしまうからです。一般の企業のように幾重もの階層があって徐々に権限と責任が増えていくというものではありません。そこでまず考えたのは、“どこで手を抜けるか”“熟練を後回しにできるのはどこか”ということです。これに関してはいくつかのアイデアがあって、その一つが教務日報(日報)です。
どこの都府県でも同じだと思うのですが、私たちの県の学校にも教務日報というものがあります。これは毎日の日課や出張の予定、職員間の連絡を記して毎朝配布されるものです。その前半(日課や出張予定)は管理職が行えばいいのですが後半(職員間の連絡)の部分は一般職員がメモを渡し、それを管理職がワープロで打ち直すというやり方をしています。しかしこれは総量としては2倍のエネルギーです。一般職員の書いたものがそのままプリントされればそのぶん省エネということになります。
そこで4月早々から私は、日課や出張予定を書いた台紙を用箋ばさみに挟んで机上に置き、そこに手書きで書いてもらうことにしたのです。これだったら翌朝、印刷・配布するだけですみます。
またこれには副産物があって、特に重要な内容を書き込んだ先生がさまざまな工夫をして文章を際立たせようとしたり、手書きのイラストを入れたりとなかなか個性的で楽しい紙面が毎日のように続いたのです。
さらに(これはよくあることですが)前夜おそくまで働いていた先生が急に連絡事項を思いついても、台紙はいつも目の前にありますからいつでも記入できます。帰宅したあと突然思い出したといったような場合でも、翌朝一足早く出勤して印刷前に書き込めば十分に間に合うのです。前夜までに完成している清書型だとこうはいきません。
というわけで、私の手抜き教務日報は案外好評なまま、一年を過ごしたのです。ところがその年の年度末、私は校長先生に呼ばれて指導を受けることになります。
「この一年間の先生の仕事ぶりには満足しています。しかし教務日報には不満があります。
あれは言ってみれば連絡帳でしかないでしょ。しかし教務日報というのはそうであってはいけないのです。それは職員指導の主戦場、先生が最も力を入れて活躍すべき場なのです。
来年はそれを何とかしましょう」
私にはかすかな戸惑いがありました。管理職なんて教育者の道を踏み外した者のすること――そういった思いがありましたから、職員指導などと言われても困るのです。しかし学校長の指導ですから従わないわけにはいきません。しかたなく、職員指導とは関係なく、とにかく書けることを書いていくしかないと思い定めて書き始めました。
それがその後9年間、1900回余、400字詰め原稿用紙で8千枚にもなろうという「デイ・バイ・デイ」の始まりです。
一年後、何かの折に教務日報が話題になった際、かの学校長はこんなふうにおっしゃいました。
「先生のアレは・・・ほとんど病気ですな」
私は見られないようにしながら、ニンマリと微笑んだものです。
(この稿、続く)
