2014/1/29



 やや気の早い話ですがまもなく1月が終わり、3日たつと節分です。豆を撒いて邪を払い、やり直す日です。新年の誓いが三日坊主になっている人も、もう一度挑戦してみるといいのかもしれません。

平安時代には追儺(ついな)といって大晦日の行事でした。一寸法師や酒天童子に見られるように、当時の都はそれこそ百鬼の夜行する場所で、豆も撒きがいがあったはずです。私たちの良く知る「鬼」のほかに死霊・生霊の類もいて、ずいぶん賑やかだったのかもしれません。源氏物語や安倍晴明の物語にも、怨霊・悪霊の話はたくさん出てきます。

「東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時・・・」というのは魑魅魍魎の出現する前触れのような台詞ですが、時刻で言えば「丑三つ時(午前2時ごろか?)」、方角で言えば北東が鬼の出没するところです。鬼門といい、入ってこられてはかないませんから普通はこの方角に玄関を造ったりしません。北東は昔の言い方で言えば「丑寅(うしとら)」の方角で、だから鬼は牛の角を生やし、トラのパンツをはいているといわれています。鬼門の反対側の南西(未申《ひつじさる》の方角)も裏鬼門といわれ、諸事避けられる方角です。

 逆に好まれるのは南東と北西。主だった城郭はみな、この二方向に門を持っています。
普通は南東が正門。辰巳(たつみ)の方角ですので「巽門(たつみもん)」と言います。裏門は戌亥(いぬい)の方角で「乾門(いぬいもん)」。ですからひとの名前にも「辰巳さん」や「乾さん」がいますが、丑寅さんや未申さんはいません。
 喜撰法師が「我が庵は 都のたつみ・・・」と詠む時、そこにはなんとなしに良き方角に住む満足感があったのかもしれません。

 平安時代の追難は大げさな行事で、20人も役人が鬼を払う役目を負って大内裏を大声で回ったり、殿上人は鬼に向かって弓を射ったりでんでん太鼓を鳴らして払ったりしたようです。
 なにしろ平安貴族は“朝廷”と言うくらいですから政治(と言っても農民の収奪)を朝のうちに済ませるとあとは遊んでいるしかありません。暇に任せて次から次へと行事を導入し、複雑化と様式化を進めます。
 
 着る物やら所作やらを事細かに決め事にし、そうしたことに知識がないと教養がないと見なされ出世の道を閉ざされることになります。そこでは翌年に生かすべく、儀式をしっかりと観察し、記憶しておくことが重要な仕事になります。
 当時の教育ママたちは必死に覚えて帰り、家に着くとさっそく紙と筆を用意して一日の様子を書き残す、息子がやがて困らないように今から書き溜めておく、そんなことをしたから日記文学が発達したのだと私は勝手に想像しています。彼女たちが書いていたのは純粋な日記ではなく息子のための参考書だったのです。
 記憶の新鮮なうちに全部書いてしまわないといけないから字も乱れ、どんどん流れる書体になってついには“ひら仮名”を発明したと、そんなふうにも考えています。もちろん私の勝手な思い込みですが。

 さてそんな風に考えながら――平安貴族もやったことです、恥ずかしがらず、今年も大声で豆を撒いてみましょう。

「鬼は〜〜〜〜外ッ! 福は〜〜〜〜内ッ!」

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