2013/11/11

「メメント・モリ」〜死を忘るるな  言葉


 二週間ほど前から91歳になる義母の具合が悪く、心配されました。横になったままものが口を通らなくなり、息も荒かったのです。それがここにきて、数日前からまた少しずつ食べられるようになってきています。うまくいけばもう一度、家に戻れます。老人というのはそういうもののようです。
 生命力がいわば数学のサインカーブみたいに揺れ動いて、そのグラフの最初の“底”で息が絶える場合もあれば2回目で止まる場合もある、3回、4回と繰り返しながらしかしその後も長く生き続けることもある、そういうことらしいのです。死が一回目にくるのか二回目なのか、はたまた十数の波を経てもそのまま来ないのか、まったく分かりません。息が止まった時が寿命ということです。

 これに関して昔、義母自身の言った言葉が、ずっと心に残っています。
「人は病気では死なない。寿命で死ぬのだ」
 もう20年以上前に聞いた話ですが、そう思って周囲をみていると確かにそんな気もします。

 余命告知をされた伯父を家族全員で見舞ったのはもう30年も前のことです。この人は96歳で今も元気です。子どものころ特に私を可愛がってくれた若い叔父は、72歳であっけなく亡くなってしまいました。二人ともガンでしたが、寿命の残っていた方が生き残り、尽きた方が亡くなったとしか思えません(二人の違いは、前者の伯父がノホホンとした、あるいはアッケラカンとした人であるのに対し、後者の叔父は非常に神経質だったということがあります。それも関係あるのかもしれません)。

 元衆議院議員の三宅雪子さんのようにマンションの4階から落ちても一ヶ月の重傷で済む人もいます(三宅さんは4歳のときにもハワイのホテルの4階から落ちた経験があります)。俳優の窪塚洋介はマンションの9階から、ロック・シンガーのジョニー大倉はホテルの7階から、それぞれ落下したにもかかわらず元気で復帰をしています。そうかと思うと一階の窓拭きをしていて、そこから足を滑らせて亡くなった人もいます。
 すべては寿命です。ですから私も、どんなに大病をしても事故にあっても、寿命が来るまでは絶対に死なないと信じています。もちろん明日死ねば、それは寿命が来ていたということです。

「メメント・モリ」はラテン語で「死を忘るるな」とか「死を思え」とかいった言葉です。古くは「人はいつか死ぬものだということを忘れず、今の驕りを控えよ」とか「いつか死ぬものだから今を楽しめ」とかいった意味で使われたようですが、キリスト教の広がりとともに、「いつか訪れる審判の日に備えよ(身を慎め)」という意味で使われるようになったといいます。

 私がこの言葉を知っているのは若いころ、ものすごく盛んだった小劇場で繰り返し使われたモチーフだったからです。
 今から思うとそうとう軽薄に使われた様子もありますが、受け取る個々人にとっては、それなりに重い側面もありました。何しろ人の“死”そのものにほとんど会っていなかったからです。

 それから何十年もたって、今の私に“死”はとても身近なものになりつつあります。あのころはあれほど怖かったのに、今は自分が遠からず死ぬだろうということもほとんど苦になりません。年をとるというのはそういう意味でもあります。


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