2013/11/7

「みのという災厄〜いじめもどき」  教育・学校・教師


 みのもんたという人は昔から一瞥するだに嫌な人でした。特に報道番組や人生相談に関わる場面では、遠くで彼の声が聞こえるだけでもイライラしました。こんな傲慢な男がなぜ持てはやされるのか、この男の口ぶりを聞いてなぜスカッとする人がいるのか、とても不思議でした。
 今回、特に出版メディアは一斉にバッシングに走っていますが、ほんとうはもっと早くに取り上げるべき人でした。

 さて、そのバッシングに乗っかるというのも気が引けますが、今回たまたま“みのさん”の口から興味深い言葉が出たので取り上げる気になりました。それは次のような言葉です。
「手出しこそしないけれど『あいつはくさい』と言い立てられるいじめと共通していませんか?」毎日新聞のインタヴュー2013.11.01
 さていかがでしょう。

 ここで思い出されるのは文科省のいじめの定義です。
『個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。「いじめ」とは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない』(平成18年度『児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査』)

 違うのは“みのさん”が児童生徒ではないというただ一点だけです。それを除けば“みのさん”は明らかにバッシングという「心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じている」のです。言うまでもなくマスメディアに生きる“みのさん”にとって活字メディアは「一定の人間関係のある者」です。なにしろこれまでも何かとなく取材を受けてきたのですから。

 そうなると“みのさん”がいじめの被害者ではないと言い切るのはかなり難しいことになります。判断を「表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って」行えばどうしても「いじめ」になります。また、“みのさん”は加害者として「週刊新潮」と「週刊文春」を特に取り上げていますが、この「いじめ事件」について他のメディアは一切取り上げようとしていません(テリー伊藤など一部の個人は擁護していますが)。まさにいじめ事件の“傍観者”になりきっているのです。

 さてここまで書いてきて・・・、しかしやはり無理がありますよね。これを「いじめ」だと決めてしまえば、あらゆる「糾弾」はできなくなってしまいます。かつて“みのさん”がしてきたことも全部「いじめ」でしかなくなります。
 
 ただしこういったこと、非難されればそれを「いじめ」だと訴えるようなこと、学校内ではしばしばおこることです。私はそれを「いじめもどき」と呼んでいます。
 
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