2013/11/29

「まもなく12月」  歴史・歳時・記念日


 いよいよ明日で11月も終わりです。今年度も余すところあと三分の一、そう書いて案外長いものだと感心したりもします。年末で“終わり”の気分が満ち満ちていますから何となく「あとわずか」といった気にもなりますが、まだまだ教育の機会はたっぷり残っているということです。

 明後日からは12月。日本では「師走」とも言います。もともとは僧侶が仏事に忙しく走り回るところからきたそうですが、今は「落ち着いているはずの(学校の)先生ですら走り回らねばならないほど忙しい月」といった解釈が一般的なようです。実際、忙しいのは確かですね。

 12月といえばまず8日。太平洋戦争開戦の記念日であるとともにビートルズのジョン・レノンの暗殺された日でもあります。
 9日は夏目漱石の命日である「漱石忌」、10日は「世界人権デー」、17日は「ライト兄弟の日」です。
*1903年のこの日、ノースカロライナ州キティホーク近郊で、12馬力のエンジンを積んだライトフライヤー号が初の有人飛行に成功しました。4回飛んだそれぞれの記録は1回目(12秒、約36.5m)、2回目(12秒、約53.3m)、3回目:(15秒、約60.9m)、4回目(59秒、約259.6m)。当日は強い向かい風の中で実験が行われましたから、実際にはもっと長い距離も飛べたはずです。

 22日は冬至で一年で一番昼の時間の短い日、今年は日曜日に当たります。
 12月23日は天皇誕生日、24日がクリスマス・イブ、25日はクリスマス、そして31日が大晦日。2013年(平成25年)の巳年もこの日で終わりです。

 大晦日は本来「大三十日」と書くべき一年の末日です。太陰暦では月の最終日は「小の月」が29日、「大の月」が30日でしたから30日で代表させ、「三十日」といえば月の末日を表すことになっていました。しかしさすがに「小の月」の末日(29日)を「三十日」と書くのには抵抗があったのでしょう、同じ末日を表す言葉「晦(つごもり)」をつかって「晦日」と書くのが普通になっています。

 12月の晦日は一年の末日、だから「大晦日」と言います。「三十日」を「みそか」と読むのは30歳代を「三十路(みそじ)」というのと同じで、「ついたち」「ふつか」「みっか」と続くその延長にある読み方だそうです。

 旧暦では人は生まれた瞬間に一歳と数え(というのは母親のおなかの中にざっと1年間生きていたからです)、年を越すと一斉にひとつ年を取って新しい年齢になります。そこから大晦日をお年取りといったりします。

 12月はしばしばベートーベンの「第九交響曲」が演奏されます。しかし別に12月と「第九」の間に因縁があるのではなく、オーケストラが年越しの資金集めをしなくてはならず、その際「第九」がもっとも人を集めやすいから選ばれたといわれています。日本だけの風習です。
 そういえば真田先生、今年も歌いに行くのでしょうか?
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2013/11/28

「カモノハシの話」  知識


 ちょっと訳ありで先週の土曜日、甥の二人の子どもを連れてNHKの放送センターに行ってきました。
クリックすると元のサイズで表示します 一通り回った後、見学コースの出口に近いブースの片隅に「キミのかおはなんのカオ?」と書いてある四角い箱に気づき、何かと思ってみたら顔認証システムを使って自分と一番似ている動物を探してくれる装置なのです。
 目立たないところにあって誰も使っていなかったのでさっそく座ってスイッチを押したら出てきたのが「カモノハシ」。「非常にユニークな生き物で・・・」と『ダーウィンが来た!』の“ひげじい”の声で持ち上げてくれるのですが、どうにも納得ができません。別にブタでもタヌキでも、どんなかっこう悪い動物でもよかったのですが、「カモノハシ」はどうにもぴんと来ないのです。
 そこでメガネを取ったらもっと似た動物が出てくるのではないかと思って改めて撮影し直したらまたもや「カモノハシ」。これで引き下がることにしました。
(そのあと子どもが次々と挑戦したのですが、上の男の子が「リス」、妹の方が「ヤマネ」と全く妥当な答えだったので、私の「カモノハシ」も客観的には“全く妥当”なのかもしれません)
で、それきり忘れていたのが翌日の日曜日、たまたまつけていたNHK「ダーウィンが来た!」が「カモノハシ」だったのです。こうなるともう偶然ではなく必然です。

 カモノハシはオーストラリアの東部に広く分布する哺乳動物です。ネコよりやや小さめの体に8p〜15pくらいのシッポがついています。丸い顔にはカモのようなクチバシがついていて、しっぽとサイズがほぼ同じであるため、写真で見ると一瞬どちらが頭かわからない感じになります。

「ダーウィンが来た!」でびっくりしたのはあの灰色のクチバシ、実はフニャフニャなのです。やや硬めのゴムのように柔らかい。しかもその先端には敏感な神経が通っていて獲物の生体電流を感知するようにできているのです。ですから水中の生き物を食べようとするとき、カモノハシは目を閉じて泳ぎまわり、その様子はまるで耳を澄ましている感じです。

 しかし何といってもこの生き物の名声を高めているのは、卵で産んで母乳で育てるというその特異な性質によるもので、現在、確認されている生き物の中で同じ性質を持つものは他にありません。メスの体に乳首があるわけではなく、お腹の乳腺を通して乳を飲むのだそうです。

クリックすると元のサイズで表示します カモノハシにはもう一つ重要で特異な性質があります。それは哺乳類で唯一毒を持つ動物だということです。オスの後ろ足の蹴爪にあるらしいのですが、イヌ程度の大きさの動物だと簡単に殺せるほどの強さだそうです。人間が死んだ例はないそうですが、刺されると痛みが全身に広がり、場合によっては数か月も続くといいます。
 いずれにしろ非常に不思議な生き物です。

 ところでこんなカモノハシのトリビア、知っていたところで何の役に立つのか――と、そんなことを言ったら左手の法則のフレミング先生が怒ります。彼はこんなふうに言ったのです。

「何の役に立つのかと問い始めたら、科学は進歩しない!」





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2013/11/27

「子は何を学んでいるのか」  親子・家族


 参観日――昔は子どもよりも、親にとって特別の日でした。学校の高い敷居をまたぐのですからそれなりの格式がなくてはなりません。保護者(たいていは母親)の半分近くは和服で、洋服の人も髪にパーマを当てたりとしっかり化粧をし、凛として教室の後ろに立っていたものです。
 もっともめったにしない人まで化粧をするので一部はやたらとケバケバしく、まるで場末のスナックの女給(ホステスなどいった粋なものではありません)みたいになってしまった人までいました。それでも背筋を伸ばし、しっかりと前を見据えていました。

 親が見られ、子どもが舐められてもいけないと、そんなふうにも思っていたのでしょうか。あるいは親同士、教養のない人だとバカにされるのが嫌だったのかもしれません。とにかく参観日は“ハレ”の日で、特別な装いをすべき日でした。

 しかし今は違います。いまどき和服で来る母親がいたら目だってしかたありません。スーツの人も多くはない。普段着もしくは勤務先の作業着のままで来られる方もおられます。Tシャツ、ジーパン、なんでもありです。
 それがいけないというのではありません。時代が変わったというだけの話で、作業着での参観にしても、仕事の合間のわずかな時間を子どものために縫ってきたと考えれば賞賛すべき話です。学校の敷居はずいぶん低くなり気兼ねなく来られる場所になった、そういう意味でも悪くない話で、結局は昔はああで今はこうという等価の話に過ぎません、ここまでは。

 問題はガムを食べながら参観する親、親同士の会話に夢中になって授業をほとんど見ていない保護者、その話声が大きすぎて子どもの学習の妨げになっている人、そんな保護者たちです。
 学校や教師に無礼だという話ではありません。その姿を見て、子どもたちが何を感じるか、親から何を学ぶのか、そういうことに無頓着でいいのか、ということです。

 その子はもしかしたら親のそんな状態にまったく気づいていないのかもしれません。気づいて、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしているかもしれません。前者だったら幸せ、後者だったら気の毒なだけです。
 しかし気づいた上で何も感じていないとしたら、それはそうとうに心配です。その子は親を通して、「公共の場でも私的な欲望を優先してかまわない」ことを学んでいるのかもしれないからです。
「周囲を観察し、状況にふさわしい態度をとるべき」というもう一方の道徳を、学び損ねている可能性もあります。そしてそんな親に限って、保護者懇談会の席では「なぜウチの子はあんなにおしゃべりなんでしょう。授業中くらい黙っていてもよさそうなものを」とか言ったりします(私、理由、知ってますけどねッ)。

 昨日、車列の4台目くらいで信号停止しようと思ったら、目の前の車が左折でコンビニの駐車場に入ってそのまま抜けて行ってしまいました。子どもが2〜3人乗っていました。その子たちは「お母さん、ボクたちのために急いでくれてありがとう」と感謝の思いを深めたでしょうか。それとも「ああ、赤信号ってこうやってかわすのか」と母親の頭の良さに感動したのでしょうか。

 赤信号を守らない母親、自分の子のために集団をかき分けて前へ出ようとする父親、そのとき、子が何を学んでいるか、本当に恐れなければならないのはそういうことです。
 この話、どうやって保護者に下ろしていけばいいのか、ちょっと思案しています。



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2013/11/26

「殺される子どもたち」  教育・学校・教師


 昨日のニュースに「シリア内戦、子どもの死者1万1000人超 英報告書」というのがありました(CNN.co.jp)。
 それによると、
 オックスフォード・リサーチ・グループは、シリア団体が2011年3月から13年8月までの死者を記録した名簿を調べ、「盗まれた未来」と題した報告書をまとめた。(中略)この期間に死亡した子どもは1万1420人で、さらに増える傾向にある。
爆発による死者が大半を占めたほか、多くの子どもが銃撃で死亡した。意図的な攻撃の標的となったのは10代の少年が多かった。(中略)意図的に子どもを狙ったとみられるケースは1000人を超え、乳児を含む112人が殺される前に拷問を受けていた

―とのことです。

 ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」で最も有名な章は「大審問官」と名づけられた部分です。そこでは主人公の一人、次男のイヴァンが敬虔な宗教者でもある三男のアリョーシャを呼び出し、自作の叙事詩『大審問官』を語るのですが、その前に、子どもが次々と虐待され殺される話を繰り返し、だから私は神を認めない、神のつくったこの世界を認めないと叫びます。
(ほんとうは全文引用したいのですが、子どもの虐待と虐殺の例だけで大変な量になるので、ほんの部分だけを引き写します)

 その五つになる女の子を教養ある両親がありとあらゆる拷問にかけるのだ。(略)実に寒々とした厳寒の季節に、その子を一晩じゅう便所の中へ閉じこめるのだ。それもただ、その子が夜なかに用便を教えなかったというだけの理由にすぎないのだ(略)おまえにわかるかい、まだ自分がどんな目に会わされているかも理解することができない、小っちゃな子供が、暗い寒い便所の中でいたいけな拳を固めながら、痙攣に引きむしられたような胸をたたいたり、邪気のないすなおな涙を流しながら、『神ちゃま』に助けを祈ったりするんだよ――え、アリョーシャ、おまえはこの不合理な話が説明できるかい。僕の弟で、親友で、神聖な新発意(しんぽち:新米)のおまえは、いったい何の必要があってこんな不合理が創られたものか、説明できるかい!(略)認識の世界全体をあげても、この子供が『神ちゃま』に流した涙だけの価もないではないか。僕は大人の苦悩のことは言わない。大人は禁断の木の実を食ったんだから、どうとも勝手にするがいい。みんな悪魔の餌食になってしまったってかまいはしない、僕がいうのはただ子供だけのことだ、子供だけのことだ! 

 今、シリアで起こっているのはこれと同じです。
 私くらいの年齢になると、不合理な罰や死がもたらされても何らかの天罰として合理化することができます。なんといっても長く生きてきましたから。天の節理で厳罰に値する何かをしでかしている可能性もないわけではありません。しかし子どもは違う。その年で残酷な罰や虐待や虐殺に値する罪を犯しているはずがありません。イヴァンがしつこく追及するのもその点です。

 大人たちにはそれぞれ言い分があります。しかしそうした主張の狭間で、子どもたちは意味もなく殺されているのです。


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2013/11/25

「みな様、そうしておられます」  教育・学校・教師


 たとえばドイツ人は厳格で規則にやかましいとか、イタリア人は女に手が早いとかいったステレオタイプ化した民族性を前提としたジョークをエスニック・ジョークというそうです。その中で私の好きな一話。

○タイタニック遭難のような状況で、各国男性に救命ボートを諦め、船に残ってもらうための一言。
 イギリス人に「紳士はそうするものです」
 ドイツ人に「規則でそうなっています」
 アメリカ人に「ヒーローになれるぞ!」
 イタリア人に「女にモテるぞ!」
 そして日本人には、
   「みな様、そうしておられます」

 日本人の、よく言えば協調性、悪く言えば主体性のなさを揶揄したものです。しかしこれはある程度しかたのないことです。
 
 日本人の中には徹頭徹尾、農耕民族としての文化が根付いています。それは「他に合わせる」ということです。農耕社会では個性的というのはあまり重要な価値ではありません。みなが代掻きに出かけたら“私”も出かけなくてはなりません。隣りが田植えを始めたら“私”もしなくてはなりません。ここで意地を張るなり「個性を発揮する」なりして「俺りゃあ、7月になってから田植え、すっぺ」とかいってもダメなのです。常に隣りを意識し、常に隣りに気を配りながら生活していきます。そうした日本人のあり方は、“隣り百姓”といいます。
 また農耕民族は灌漑や新田開拓など、大工事のために常に集団性を求められますから、その点でも集団性を高めます。狭い地域に住み、お互いに譲歩したり妥協したり、そして協力しながら暮らしてきたのです。

 その点で狩猟民族は違います。マンモスなど大型動物を捉えていた時代は違うかもしれませんが、基本的に小集団で、個が問われます。みんなが動き出すのを待っていたのではロクな獲物にありつけません。常にひとりで、他を“出し抜く”覚悟で仕事に向かわないと損なのです。
 そうした彼我の違いを頭に入れておかないと子どもの扱いも誤ります。

 子どもが発言をしない。特に学年が上がるに従って挙手しなくなる、というのは私たちにとって長年のテーマです。テレビで「マイケル・サンデルの白熱教室」などを見ていると、やっぱり日本人はダメだ、あんなふうに生徒が次々と挙手をするようになるためにはどうしたらいいのだろうと考えたくもなりますが、現実問題として、日本人があんなふうになることはあるのだろうか、日本人があんなふうになったら本当に幸せなのだろうか、そんなことを考えることがあります。なぜなら中学生の授業の中で、しばしば“隣り百姓”の息遣いが聞こえてくるときがあるからです。子どもたちが、自分の好奇心や意欲と周囲の状況を秤にかけて、発言しようかしまいか慎重にはかっている様子が見て取れるからです。


 同じ日本人でも小学校の1〜2年生などは違います。彼らは周囲の状況よりもはるかに自分の興味の方が優先します。ですから「ハイ、ハイ、ハイ、ハイ」とか叫び続けて自己を主張します。しかし同じことが中学校3年生の教室で起ったらそれは考えものでしょう。
 たしかに、私たちは児童生徒に挙手してもらいたい、発言してもらいたい。そうしなければ授業が進みません。しかしみんなが元気に発言するためには、サンデル先生とは全く異なったアプローチが必要になるはずです。



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2013/11/22

「永遠の0(ゼロ)」D  教育・学校・教師


 四日もしゃべってきてやっと本題です
「永遠の0」を読み終えて最後に思ったのは、やはり政治は何も変わらない、ということです。とにかく合理的な判断をしない。

 ガダルカナルの奪還戦では敵の戦力を完全に読み違えます。当初2千人と見積もった米軍は、実は1万3千もいたのです。おまけに「アメリカ兵は臆病だから、ギリギリまで近づいて一発弾を撃てば怯えて凍りつく。その間に駆けよって銃剣で突き刺す」これが一木支隊の作戦です。
 判断としては半分あっていました。アメリカ兵は臆病でした(そこまでは正しい)。だから一発銃声がすると怯えて無暗やたらと機関銃を撃ちまくったのです(そこが違った)。おかげでわずか9百人の一木支隊は一夜にして全滅してしまいます。

 翻って2006年、第一次安倍内閣の教育再生会議は日本の教育を復活させるために様々な議論を重ね、提案をします。しかし彼らが議論も調査もしなかったことが一つだけあります。それは「日本の教育は根本的な改変をしなければならないほど疲弊し病んでいるのか」という問題です。最初に「教育再生会議」と名づけた瞬間に、日本の教育はダメだ(すでに死んでいる)ということが前提となってしまい、誰も検証しなかったのです。
(私はその間も、日本の教育は非常にうまく行っていたと考えています。私たちはこれほど清潔で安全な、そして世界から評価される国をつくったのですから)。

「永遠の0」の中にはゼロ戦の性能ついて話すこんな場面があります。
 たしかにすごい航続距離だ。千八百浬も飛べる単座戦闘機なんて考えられない。(中略)八時間も飛べる飛行機は素晴らしいものだと思う。しかしそこにはそれを操る搭乗員のことが考えられていない。八時間もの間、搭乗員は一時も油断は出来ない。我々は民間航空の操縦士ではない。いつ敵が襲いかかってくるかわからない戦場で八時間の飛行は体力の限界を超えている。自分たちは機械じゃない。生身の人間だ。八時間も飛べる飛行機を作った人はこの飛行機に人間が乗ることを想定していたんだろうか
 私はこの部分を読んだ時、唐突に「総合的な学習の時間」のことを思いました。
「総合的な学習」は理念的にはおそらく最良の教育です。しかし当時の文部省の技官や専門家たちは、この理想主義的教育を普通の教員の日常的な努力で果たせると、本気で信じたのでしょうか。本気で考えたとしたら恐るべき楽観主義です。

 いわゆる「ゆとり教育」全体もそうです。授業内容、時数を大幅に減らすことについて記者に突っ込まれた「ミスター文部省(寺脇研)」はこう言いました。
「内容を減らしたのだから全員が完全にできるようにします。先生がそうします」
 これも本気の発言だったのか。一つの単元にしろ教科全体にしろ「全員ができるようになる」という状況を想定することは、現場の教師には不可能です。それができたら全員が地域のトップ校に進学してしまいます。

「子どもに世界一の学力を」とか「世界に通用する英語力を」とかは皆そうで、それが達成可能な目標かどうかも検証もしないで旗を振るのは、「撃ちてし止(や)まん」とか「欲しがりません勝つまでは」とか言って勝ちの見えない戦争を延々と続けさた六十数年前と、何も変わっていないということなのです。


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