2013/9/13

「声を低くして・・・」  教育・学校・教師


 一昨日、家に帰ると「ナニコレ珍百景」という番組をやっていて、食事をしながら見るともなく見ることになりました。私はこの番組が好きではないのですが、見ていた母に遠慮があって、そのまま見続けたのです。

 掃除機が大好きなネコ、というのが出てきました。身体全体に掃除機をかけてやると伸びをして、気持ちよさそうにうっとりしています。さらに掃除機の先端部をはずし、ネコの頭に吸い付かせて吸引力で持ち上げても嫌がらず、されるがままになっています。別室で見ていた原田泰三さんと動物学者のムツゴロウさんは、「ナニコレ」「ナニコレ」と手を叩いて大喜びでした。

 ムツゴロウさんに言わせると、基本的に小動物は掃除機の音が嫌いなのだそうです。それは掃除機の放つ低音が大型肉食動物の声に似ているからなのです。そうした低音が近づいてくると、自然に身体が固くなるのだそうです。
「でね、母親はそれで躾けをするんですよ。ミルクを飲み過ぎた子がまた近づいてくると“ウー”と低い声で脅す、すると子ネコは静かに引き下がって行くのです」

 なるほどと思いました。
 そういえば先生の中には子どもを叱るときにやたらと言葉が丁寧になり、しかも声のトーンの下がる人がいます。そういう人は怒りを伝えることの上手で、子どもはすぐにシュンとなってしまいます。私なんかまるでダメで、本気で怒ると声が上ずってしまい、もしかしたら子どもにはサル山でギャーギャー叫んでいるボスざるくらいにしか感じられていないのかもしれません。
 
 以前にも書きましたが、諸先輩の先生方から教えられて特に役立ったことのひとつは、「叱るときには怖い顔をして叱れ」です。
 特に小学校低学年以下の子たちを、論理で折伏しようとしたり情で絡め取ろうとしたりしてもムリだ。そのくらいの子どもは理屈で自分をコントロールすることも苦手なら、他人にも自分と同じような情があるという感じ方にも慣れていない。私たちが怒ったとき彼らが素直に従おうとするのは、ひとえに怖いからだ、二度とこんな目にあいたくないと思うから静かに聞いてそれに従おうとする。だから叱るときは怖い顔でなければならない。

 確かに、叱る側がヘラヘラとした状況で「オマエらナァ〜」とか言っても、とりあえず聞いてさえくれない気がします。
 怖い顔をして叱れ、そして今回もう一つ加わりました。

「低い声で叱れ」

 一部の先生方が経験の中から生み出した方法は、科学的にもきわめて妥当なものだったようです。



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2013/9/12

「トルコ、トルコ」  政治・社会・文化


 トルコのカッパドキアで新潟大学の女子大生が殺されました。痛ましいことです。

 翌10日、事件を耳にした人々の呼びかけで追悼行事が行われ、現地に数百人が集まったそうです(NHKの報道では約1000人)。
「皆様の悲しみは、私たちの悲しみです」という横断幕を先頭に、たくさんの人々が日の丸を掲げ、事件現場までデモ行進します。

 クリックすると元のサイズで表示します手書きのプラカードを持つ人も大勢いて、
「ごめんなさい」
「トルコは まいくりはらを 忘れません」
「申し訳ありません」
「トルコ日本の友好は永遠にありますように」
「ごめんなさい」
・・・。字があまりにも稚拙だったり文法的におかしかったりで、きっと一生懸命、調べながら書いたものなのでしょう。
 事件現場には大量の花輪や花束がささげられ、そこでも大きなプラカードが掲げられます。
「とても悲しいです。ご冥福を祈ります」

 2月にグアムで起こった無差別殺傷事件の際も、事件現場にはたくさんの花やロウソクが捧げられました。しかしここまで痛切に哀悼が示されたことはなかったと思います。
 トルコはそういう国なのです。一口に親日国と言いますが、日本に対してほとんど片思いのような感情を抱いているのです。それはひとつには、130年も昔の「エルトゥールル事件」のためです。
(これについては2年ほど前に紹介しましたが、改めて書きます)

 1890年6月、トルコの軍船エルトゥールル号は初の使節団を乗せ、横浜港に入港しました。三ヵ月のあいだ両国の友好を深めたあと、エルトゥールル号は日本を離れたのですが、帰路、台風に遭い和歌山県の串本沖で沈没してしまいます。
 この遭難では乗組員600人近くが死亡しましたが約70人が助かりました。大島の島民が助けたのです。
 通信機関も救助機関もない離島のことで、救助は至難を極めたようです。怒涛をかいくぐって瀕死の船乗りを引き上げると、村民は人肌で遭難者を温め、精魂の限りを尽くして助けたといいます。さらに非常事態に備えて貯えていた甘藷や鶏などの食糧の一切を提供し、彼らの生命の回復に努力しました。そして二十日後、寄せられた多額の義捐金とともに、遭難者たちは日本の軍艦でトルコに帰還します。

 この話はトルコの歴史の教科書にも載っていて知らない人はいないといいます。もちろんその後も、トルコと関係を持った多くの日本人たちが繰り返し良い印象を支え続けたからなのでしょう、トルコの人々は過剰なまでに高く日本を評価してくれています。

 1985年3月17日、イラン・イラク戦争さなか、イラクのサダム・フセインは「今から48時間後、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と世界に発信しました。このとき諸般の事情により、日本政府はイラクに救援機を送ることができませんでした。
 その代わりにテヘラン空港に残された215人の邦人を救いに行ったのがトルコ航空の2機の救援機だったのです。2機が避難民を乗せて成田に向かったのはタイムリミットのわずか1時間15分前のことです。トルコ国内では、100年前の返礼として当然のことだという世論があったようです。

 2011年10月のトルコ地震の際は、東日本大震災の日本人を見習おうと、歯を食いしばって頑張りました。当時の産経新聞には次のような記事があります。
 千人を超す被災者がテント生活を送る競技場では、食料配給を求める人々が整然と列をつくっていた。割り込む人はおらず、妊婦に先を譲る姿も。物資が不足しているとされる被災地のワンでも商店で略奪などは発生していない

 先日、2020年のオリンピックが東京に決まったとき、真っ先に握手を求めてきたのはトルコのエルドアン首相でした。その夜、ネット上には東京開催を祝福するトルコ人の書き込みが相次ぎ、日本のネット住民を驚かせるとともに感動もさせました。

 それらすべては私たちの先人のおかげなのです。そうした伝統を忘れてはいけませんし、私たちと私たちの教え子で、今後も引き継いでいかなくてはならないことなのです。


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2013/9/11

「年号や世紀が変わることへの思い」  教育・学校・教師


 9月11日、「アメリカ同時多発テロ」の祈念日です。
 2001年9月11日、アメリカ国内で4機の大型旅客機がハイジャックされ、2機が世界貿易センタービルの北棟と南棟に、1機が国防総省(通称:ペンタゴン)に、そしてもう1機は議会議事堂かホワイトハウスを狙ったと言われていますが、結果的にはペンシルベニアの山中に墜落します。この日を境に、世界は変わってしまいました。

 唐突ですが、明治というのは日本にとってとても分かりやすい時代で目標がはっきりしていました。殖産興業と言い富国強兵と言っても要するに「欧米列強に追いつけ追い越せ」が至上命題です。具体的には日本を二等国あつかいしている不平等条約の改正で、それが達成されれば明治の使命は終わりとなります。そして実際、明治44年に関税自主権を回復して不平等条約が解消すると、明治天皇は肩の荷を下ろしたかのように崩御され、新しい時代が来ます。

 大正は浮かれた時代です。大正デモクラシーの時流に乗って普通選挙法が施行され、自由主義教育が力を得ます。モボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)といった粋なファッションが流行し、巷には音楽が溢れます。

 しかしそんな大正時代があっけなく終わって昭和になった途端、金融恐慌(昭和2年3月)が起こり昭和前期の暗い影が迫ってきます。昭和元年は一週間しかありませんでしたから、金融恐慌は昭和に入ってからわずか3か月で起こったことになります。一瞬にして昭和らしくなったのです。

 戦後、つまり昭和の後半は経済で世界を席巻した時代です。まるで「戦争でダメだったから経済で世界を制覇しよう」といった感じで日本人はがむしゃらに働き、ついに世界第二位の経済大国に伸し上がります。けれどそんな昭和が終わり平成になると、平成2年を頂点としてバブルが崩壊し、「失われた10年」「失われた20年」と呼ばれるような経済の長期低迷期が続き、ついにGDPも3位に転落します。それとともに人々の気分にも変化が見られました。
 少なくとも“昭和”のうちは誰も憲法改正など考えませんでしたし、自衛隊の海外派遣など思いつきもしませんでした。中韓との関係も良好で日本はアジアの手本として高い地位を保っていました。それが「平成」に変わったとたん、一切が変化してしまいました。それが今日までの「平成」の様相です。年号が変わると、時代も変わってしまうのです。

 “世紀”も同じです。2001年、21世紀が始まったとき、私たちは希望に満ちていました。ずっと前から、私たちの中で「21世紀」は常に光り輝く存在だったからです。
 21世紀になれば科学文明は頂点を極め、癌など病気も克服され国どうしの争いもなくなる、人々は平和に暮らし世界の英知によって貧困もなくなる―そうはっきりとは口にしないまでも、何となくそんなふうに思っていたのです。その夢を、4機の旅客機はいとも簡単に砕いてしまった。21世紀も引き続き混沌とした時代で永遠の平和も幸福もない、そう知らしめた事件でした。

 アメリカはこののちアフガン戦争からイラン侵攻へと突き進み、相対的に世界への影響力を低下させます。代わってイスラムや中国が力を増し、世界の対立構造も複雑になってしまいました。

 考えてみると小学生のほとんどは9・11以降の生まれです。中学生だって当時3歳以下で覚えている子もいません。彼らはまさに21世紀少年少女なのですが、このまったく違ってしまった世界をどう生きていくのでしょうか。



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2013/9/10

「ゼッケン67番の伝説」A  


 1964年の東京オリンピック陸上男子1万メートルで、「ゼッケン67」を背負ったスリランカ(当時はセイロン)の選手が3周遅れで完走し、観衆の大きな拍手を受けたお話をしました。ラナトゥンゲ・カルナナンダという選手です。

 それから数年後の、良く晴れた秋の日曜日のことです。もう陽があがってだいぶ経つというのに私はまったりと惰眠に耽り、気持ちの良い時間を過ごしていました。そこに突然母が来て、「ちょっと大変だからすぐに来て」と私を階下に促します。
 何事かと思って玄関に行くと地区の常会長が仁王立ちに立っていて、今すぐ用意をして地区の運動会に出ろというのです。それは先日断ったはずだと言うと、代わりに予定していた人が出られなくなった、人が出るだけで得点になるから眠りながらでいいから走ってほしいと無茶なことを言います。まだ常会ごと、本気で競う気風のあった時代です。

 私は短距離の方は自慢をしたくなるほどの鈍足ですが、長距離はそこそこに速くて地区の駅伝大会などにちょこちょこ出ていたのです。そこを買われての依頼なのですが、その時はもう地区のオジサンに言われれば素直に従うような、そんな子どもっぽい年齢でもなくなっていました。面倒なことは嫌だったのです。しかし常会長はそのまま玄関で動きません。きっと得点がぎりぎりなのでしょう。しかたがないので急いで着替え、・・・なんと10分後には長距離走のスタートラインに立っていたのです。

 眠りながら走ってもいいと言われても号砲が鳴ればそういう訳には行きません。小さなグランドの最初のコーナーに全速力で向かい、他の選手に挟まれながら駆け込んで、そしてそこで・・・転びました。5〜6人まとまって、団子状態でみごとにひっくり返ったのです。
 急いで立ち上がって再び走り出したのですがその段階ですでにビリから3番目くらい、それから後ろの選手も抜かれ、何周かしてゴールに向かうころには前の選手から半周遅れくらいのダントツのビリになってしまったのです。長距離走でビリなんて考えてもみないことでした。
 しかも前の選手がゴールしたときの拍手がそのまま私への応援になってしまい、会場全体が一つになって半周遅れの私に万雷の拍手を送ってくるのです。なにかほんとうに惨めな思いでした。
 そしてその時、あの「ゼッケン67」を思い出したのです。3周遅れでゴールインしたスリランカの選手は、どんな気持ちで周回を重ねたのだろうということです。

 私はほんとうに後悔していたのです。あのとき常会長が何と言おうと絶対に出ないと言って布団に戻ればよかったのです。競技に出ても転倒した時点でさっさと棄権してしまえばそれもよかった。あるいは、どうせヒョコヒョコと足を引きずりながらの走りですから、どの時点でグランドを離れても、誰も文句を言うはずもなかった、それを何の思い違いか、最後まで走らなくてはいけないと思い込んでこんな惨めな目にあっている、ほんとうにバカなことをした、これでは自分で自分を罰しているようなものじゃないかと、そんな感じでした。

 伝説ではスリランカの選手は「祖国の名誉のため、最後まで走り続けた」ということになっているがほんとうにそうだったのだろうか、3周も走る中で別の思いはなかったのか。祖国で一番速かったからといってこんな遠い国まで来てこんな惨めなことになっている、バカじゃないか、そんなふうに思い、いい気になっていた自分を罰するような気持ちで残り3周に耐えた、それが真実ではなかったのか、惨めで惨めでしかたがなく、その思いを自分の体にぶつけるように、いじめる気持ちで走っていたのではないか・・・。

 それから何十年もたち、私も年を取って素直にあの「残りの3周」を考えられるようになっています。
 実際カルナナンダは「祖国の名誉のため」に走り続けたのかもしれませんし、「どんな場合も棄権しない」という強い信念のために戦ったのかも知れません。あるいは若い日の私が想像したように惨めだったのかもしれませんし、3周の間にはさまざまな気持ち揺れがあったのかもしれません。

 ほんとうのところはどうだったのか、カルナナンダがそれについてどう語ったのか私は知りません。年をとって思い出を語れるようになり「実はあのとき・・・」といった話があればいいのですが、ラナトゥンゲ・カルナナンダは東京オリンピックからわずか10年後、不慮の事故でこの世をあとにしています。


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2013/9/9

「ゼッケン67番の伝説」@  


 東京が2020年のオリンピック招致に成功しました。まずはメデタシ、メデタシというところです。教員としては「これで改めて子どもたちに夢を・・・」といった話をすればいいのかもしれませんが、今は「崖っぷちを必死に登っている日本経済が、足を踏み外さなくてよかった」といった思いです。もちろんその意は、子どもたちの将来の就職が少しでも望ましいものになるようにということですが。

 さて、私は49年前の東京オリンピックをリアルタイムで見たひとりです。感受性の強い時期のことですから、今もたくさんの記憶が残っています。

 ウェイトリフティングの三宅義信だとか、やたら強かった男子レスリングだとか、本当に魔女みたいに怖い顔のオバさんばかりだった「東洋の魔女(女子バレーボール・チーム)」だとか。体操のエースの遠藤幸雄だとか、ベラ・チャスラフスカとか。ローマ大会の裸足の英雄・走る哲人アベベ・ビキラは東京でも黙々と優勝し、スタジアムまで2位で来た円谷幸吉は悲鳴のような歓声の中でイギリスのヒートリーに抜かれてしまったとか。柔道重量級の神永昭夫はヘーシンクの圧倒的なパワーに押しつぶされてしまったとか・・・。

 しかし私の記憶の中に一番鮮明に残っているのは、陸上男子1万メートルで最後にゴールインしたスリランカ(当時はセイロン)の選手です。名前をラナトゥンゲ・カルナナンダと言います。

 彼については1970年代の光村図書「小学校4年生国語」に『ゼッケン67』という題名で出ていたようですが、この話は現在、次のように記憶されています。
「東京オリンピックの男子の1万メートルで何周も遅れながらも最後まで黙々と走り続ける姿に観衆の反応も失笑から暖かい応援に変わり、ゴールすると万雷の拍手で称えたというのです」
 しかし私の記憶は少し違っています。

 陸上男子1万メートルは日本の円谷幸吉が6位に入賞し、俄然、注目を浴びるようになった競技でした。その最後のランナーがゴールに入り、満足した観客が腰を浮かせかけたときです、あろうことかランナーは立ち止まらず、そのままコーナーを回って向こうへ走って行ったのです。
「ああ、一周遅れだったんだ」
 そう思って観衆はまた腰を下ろします(たぶんそうです。私はテレビの前でそうしました)。
 そして1周待って今度は前よりもずっと大きな拍手で迎えたのです。ところが選手は再びコーナーを回って行きます。失笑が起こったのはこの時です。
 選手に対するものではなく、思い切り拍手してしまった自分に対するものです。
 その2周目も終わって選手がコールに近づくと、私たちは疑心暗鬼になりました。もしかしたらこれもゴールではないかもしれないのです。さっきのような恥ずかしいことはしたくありません。拍手をする人もいましたが何かまばらな感じで、そして案の定、彼はまたコーナーを回って行きます。これではもう、あと何周待ったらいいのか分かりません。
クリックすると元のサイズで表示します そして3周目。最後のコーナーを回ったところで彼は猛然とラストスパートをかけます。私たちはなんだかうれしくなりました。そして安心して、今度はスタジアム全体で心をこめ、万雷の拍手で彼を迎えたのです。
 それが私の覚えている陸上男子1万メートルの最後の場面です。

 しかしそれから何年かして、私はこのレースをある感慨をもって思い出すことになります。

                            (この稿、続く)


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2013/9/6

「地蔵さんになりたい」  教育・学校・教師


 釈迦三尊像や薬師三尊像のそれぞれを見比べると共通の特徴があります。それは脇待として横にはべる菩薩(法隆寺釈迦三尊像の場合は薬王・薬上、薬師如来の場合は日光・月光)は派手な装身具をつけているのに対し、中央の仏または如来(仏と如来は同じもの。以下、仏で代表する)は布一枚を体に巻いているだけだということです。
 これは仏が悟りを開いて世俗の欲望を振り切ってしまったのに対し、菩薩は仏のワンランク下の“候補生”ですのでまだ欲望にまみれ、ブレスレットやネックレス、宝冠などで全身を飾っている、そういう意匠なのです。

 菩薩には薬王・薬上、日光・月光以外にも、普賢・文殊、観音・勢至などさまざまにありますが、中でも特に有名なのが地蔵菩薩です。
 地蔵は鎌倉時代に流行した菩薩で、他の菩薩とは異なり、布一枚を体に巻き、一切、装身具をつけていません。仏と同じです。しかし仏が天然パーマの髪をある程度伸ばしている(ラホツと呼ばれるあの頭についたブツブツがそれです)のに対し、地蔵さんは剃髪して丸坊主のままです。これはまだ地蔵が修行段階であるにもかかわらず(丸坊主がそれを表しています)、他の菩薩と違って装身具を捨て(つまり仏となる道を捨てて)、別の世界に生きることを決意したことを表しているのです。自分が仏になること(これを成仏と言います)を諦め、今、目の前で苦しむ人を救おうという決意です
 彼は法力によって人間の死後の世界を見てしまいました。そして地獄に苦しむ人や餓鬼道に生きる人、天に生まれ変わったもののいつまた別世界に送られるかもしれないと恐れる人々を、救いに行きたくなったのです。

 仏教では、人は死ぬと六つの世界(りくどう:天道・人間道・畜生道・餓鬼道・阿修羅道・地獄道)に生まれ変わると信じられています。その六つの世界の人々を同時に救うために、地蔵は六つの姿に分身します。それが六地蔵です。
 地蔵は自在ですから、六道にも行けず賽の川原で石を積む子どもたちの前にも姿を現します。だから子どものための菩薩です。
 また、鎌倉武士たちは自分がいつか人を殺し、やがては地獄に落ちる自分を理解していましたから、地獄まで来てくれる唯一の存在=地蔵菩薩を深く信仰しました。鎌倉以降、各地に六地蔵が建てられるのはそのためです。

 私は、目の前で苦しむ人たちのために居ても立ってもいられず、わが身の幸せを振り捨てて駆けつける地蔵という存在に憧れます。

 昨日、このところ荒れているという某小学校についてその様子を聞きました。小学生なのに今から家出・深夜徘徊・喫煙・暴力なのです。かわいそうですね。何ができると言う目算があるわけではありませんが、私は地蔵さんのように両手を広げ、空を飛んでその子たちのために駆けつけたくなりました。


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