2013/9/30

「再び道徳の教科化について」B〜教育勅語  教育・学校・教師


 「教育勅語」は1890年、第一回帝国議会が開かれた年に公布されています。直接的には明治天皇が当時の総理大臣と文部大臣に下した勅語というかたちをとります。

 それを遡ること10年前、明治新政府は危急存亡のときを迎えていました。西南戦争(1877)は無事乗り切ったものの続く自由民権運動は燎原の火のごとく燃え広がり、政府要人は明日こそ日本版フランス革命かと恐れたほどです。
 それを「国会開設の詔」でかわし、硬軟両面作戦で民権運動を潰し、ようやく自分たちに都合の良い形での帝国議会を立ち上げたのですが、彼らには10年前の恐怖と未来への不安が残っていました。

 考えてみればつい20年程前まで、六十余州270ほどの藩に分かれてそれぞれが自分の「国家」だと思っていた国です。さらにまた、西欧でキリスト教が果たしているような統一的な精神的背景もまったくない。そんな国で民意をすくい上げたら、いつまた自由民権運動のような混乱が起こって国家が危機に瀕しかねない。かれらはそんなふうに考えたのです。
 そこで何らかの精神的支柱が必要となるのですが、明治政府の性質上、外来の儒教や仏教、キリスト教に頼るわけにはいかない。新たな価値を創設しなければならないのですが・・・。

「教育勅語」は中村正直が原案を書いたものに内閣法制局長官の井上毅が猛然と抵抗し、結局井上自身が全面的に書き換えてかたちを整えたものです。井上が中村案に噛みついたのは、中村案があまりにも宗教的・哲学的であったためです。
宗教や哲学は必ず相対化されます。必ず批判され抵抗されます。しかし「国家の精神的支柱」は万民から理解され、受け入れられるものでなくてはなりません。したがって最低限を提出するにとどまります。そうした配慮から、実際の「教育勅語」はつくられます。


 一行目の「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ(私が思うに我が皇室の御先祖が国をお始めになったのは遥か昔のことであり、その恩徳は深く厚いものです)あるいは中盤下の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(もし国家に危険が迫れば忠義と勇気をもって国家のために働き、天下に比類なき皇国の運命を助けるようにしなければなりません)あたりは問題があるかもしれませんが、他の部分「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ・・・(父母に孝行し、兄弟は仲良くし、夫婦は協力し合い、友人は信じ合い、人には恭しく、自分は慎ましくして、広く人々を愛し・・・)は何の問題もない、それどころか現代でも通用することばかりです。そしてそれだけに思想の深まりはなく、影響力も十分なものではありません。結局そうしたところに落ち着かざるを得なかったのです。

 道徳を文書化するというのはかくも難しいのです。政府が教科書をつくろうとしても結局、現在各出版社が作成している副読本以上のものができるとは思えません。誰からも非難されないような教科書をつくるとすれば、どうしてもミニマムなものにならざるをえないからです。

 そのことも念頭に置いて、道徳の教科化の行方、今後も注目していきたいと思います。



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2013/9/27

「再び道徳の教科化について」A  教育・学校・教師


「道徳教育の充実に関する懇談会」の趣旨は文科省のサイトによると
『教育再生実行会議の第一次提言(平成25年2月26日)において、いじめ問題の本質的な解決に向け、心と体の調和のとれた人間の育成に取り組む観点から、道徳教育の抜本的な充実を図るとともに、新たな枠組みにより教科化することが提言された。/この提言を踏まえ、道徳教育の具体的な成果や課題を検証しつつ、「心のノート」の全面改訂や教員の指導力向上など、道徳教育の充実方策についての検討を行うとともに、これらの成果等も踏まえながら、道徳の教科化の具体的な在り方についての検討を行う』
 となっていますから、「検討」すればいいのであって何をどう決定するのかは決まっていません。そこで議論百出になるのですが、それにしても「この提言を踏まえ」と謳っているにも書かわらず「教育再生実行会議の第三次提言」の元となった「教育再生会議第三次報告」についてまったく顧慮されていないことが不思議です。

 教育再生会議第三次報告 (平成19年12月25日)のポイントは、
○徳育を「新たな枠組み」により教科化し、授業内容、教材を充実し、授業時間を確保して、年間を通じて計画的に指導する
○偉人伝、古典、物語、芸術・文化などを活用し感動を与える多様な教科書を作る
○新しい教育基本法の下で、社会総がかりで、徳育の充実に取り組む・学校のみならず、家庭、地域など社会総がかりで、徳育の充実を図る。

そしてわざわざ、
(※)徳育を教科化するが、点数での評価はせず、専門の免許も設けない。小学校、中学校とも学級担任が担当する。
と注意書きまでされています。それなのに、
「数値による評価は行わない方が良い」とか「数値的な評価や個々の言動を評価するようなやりかたは不適切」とかやっているので時間もかかります。
 
 そもそも「道徳の教科化」の意味を、誰もわかっていないから話はいつまでたっても煮詰まりません。中には、
○「新しい枠組み」による教科化に当たっても、その教科を「道徳教育の要」にしつつ、基本的には学校教育全体で道徳を行うという方針で良い。その意味で、他の教科と横並びでない「特別教科」としての枠組みになるのではないか。
 という意見もありますが、これは「道徳教育を現状のままにしておけ」ということに他なりません。
(注:小学校学習指導要領「道徳」「第1 目標 道徳教育の目標は,第1章総則の第1の2に示すところにより,学校の教育活動全体を通じて,道徳的な心情,判断力,実践意欲と態度などの道徳性を養うこととする。/道徳の時間においては,以上の道徳教育の目標に基づき,各教科,外国語活動,総合的な学習の時間及び特別活動における道徳教育と密接な関連を図りながら,計画的,発展的な指導によってこれを補充,深化,統合し,道徳的価値の自覚及び自己の生き方についての考えを深め,道徳的実践力を育成するものとする」)

○道徳は教科でないために、大学においても専門家が育たず、理論が構築されていない。教科になれば、目的と内容と方法を体系化しなくてはならなくなる。
 そんなことはありません。目的も内容も方法も、すでに学習指導要領に体系化されています。

 その中にあって、ひとつとても気になる意見があります。それは、
○教科書の検定については、政治的、宗教的中立性や学習指導要領の範囲との関係、検定基準の示し方などとの関係で現実問題としてはなかなか難しいという意見もある。
で、この議論はもう百年以上前にひとつの決着を見ているのです。
「教育勅語」です。
                                   (この稿、続く)


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2013/9/26

「再び道徳の教科化について」@  教育・学校・教師


 2月の教育再生実行会議の答申以降、道徳の教科化がどうなっているか見失っていました。うっかりしていました。アベノミクスなど首相も忙しいのでしばらくはほったらかしかなと思っていたら、文科省はちゃっかり「道徳教育の充実に関する懇談会」なるものを開いていて、(たまたま)今日9月26日で7回目となっています。

 これまでの6回分の資料は文科省のサイトからダウンロードできるのですが、中に『資料3 「道徳教育の充実に関する懇談会」これまでの主な意見』というのがあって、さっそく読んでみました。感想は、
――ガリレオの福山雅治風に言えば「ハハハ、さっぱりわからない」です。

 そもそも現状認識がしっかりしていない。
 世界のどこの国にもモラルの教育はあるが、我が国では、歴史の中で経験してきた古い時代のいろいろな問題に妨げられて道徳教育を忌避しがちだった。
ここから始まる議論に実りのあるはずはありません。

 日本以上にモラル教育をしている国がいくつあるか、人の心を矯正するという意味なら北朝鮮を筆頭にいくつかありますが、普通の意味でモラル教育を組織的に行って成功している国は、日本をおいて他にないのです。
 なにしろ、「財布をなくしてもお金の返ってくる国」です。無人販売というとんでもない方法が通用する国です。ジーパンのお尻のポケットから半分財布を出した状態で街を歩ける国、子どもがひとりで地下鉄に乗れる国、公衆トイレが匂わない国、道路にごみが散乱していない国。これだけ道徳的な国をつくっておいて、まだ「道徳教育を忌避しがちだった」ということであれば、政府や知識人たちはどんな教育によってどんな国家をつくろうとしているのでしょうか。空恐ろしくなります。

 確かに、もとを質せば2月の教育再生実行会議の答申は「いじめをなくすために」という前提で出されたものですから「いじめ」がなくならない限り学校の道徳教育はうまく行っていない――あるいは道徳教育をしっかりやれば「いじめ」がなくなると信じているのかもしれません。しかしどうでしょうか?

 道徳の目標は基本的に絶対善です。盗みのない社会、ごみの散乱しない社会、誘拐や殺人を恐れずに暮らせる社会は、追求すべき理想です。しかし「いじめ」のない社会は必ずしも絶対善ではありません。
 なぜなら「いじめ」の内容のトップが「悪口・からかい」、二番目が「仲間はずれ・無視」だからです。「悪口・からかい」の一切ない社会、嫌な奴でも一度仲間になったら永遠に付き合っていかなければならない社会、それは必ずしも健全な社会ではありません。
 いじめ問題は、そこから研究しなおさないと出口は見えてこないのです。

 さて、私が「さっぱり分からない」ことにはまだまだ理由があります。それについて改めて考えます。


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2013/9/25

「千日回峰行と未来の求道者」  教育・学校・教師


 天台宗大阿闍梨(あじゃり)の酒井雄哉(ゆうさい)さんが亡くなりました。9月23日、行年87歳です。
 酒井雄哉さんといっても誰のことか分からないと思いますが、千日回峰行という比叡山延暦寺の荒行を生涯に二度、達成した人です。この修行は(記録の残る織田信長の延暦寺焼き討ち以来)達成した人が47人しかおらず、二度行った人は酒井さんを含めてわずか3人だけです。

 千日と言いますが千日回峰行は連続して行うのではなく、7年かけて通算1000日の間に行います。
 最初の3年間は毎年100日間、1日30kmを歩いて255ヶ所の霊場を巡ります。続く2年間はそれぞれ200日同じ修行を行ない、合わせて5年間で700日となります。
 そのあと「堂入り」と言って無動寺谷明王堂に入り、9日間の「断食、断水、不眠、不臥の行」を行います。断食はまだしも、断水と不眠は人間の場合1週間が限度と言われますから、限界を越えての修行ということになります。
 堂入りの行が終わると「堂下がり」となり、行者は生身の不動明王とも言われる「阿闍梨」となって信者たちの合掌で迎えられます。
 翌年の6年目は100日と日数は減ります。しかし歩く距離は60kmとなり、巡拝する霊場も11増えて266カ所となります。
 最後の7年目は200日の修行。前半の100日は京都市内を1日84km、300カ所に渡って走って巡拝します。午前零時に起きて延々と走り続けます。それが終わって後半の100日は最初の1日30kmに戻し、これで合計1000日、歩く距離はほぼ地球1周に等しい4万kmになります。

 酒井さんは第一回目を80年に満行。そのときの様子はNHK特集で放送され、私もそれで千日回峰行を知りました。さらに半年後、2度目の行に入り87年に60歳で満了しています。二度に渡って阿闍梨となったので大阿闍梨と呼ばれます。

 私は若いころ、僧侶になろうとかなり本気で思ったことがあり、そのためNHK特集の「千日回峰行」も特別の思いで見ました。私の理想とするものがそこにあるように思ったのです。
 もちろん私にそんな厳しい修行ができると思いませんし、もっと楽な修行さえやり遂げることができないかもしれません。しかし心の隅では常にそうしたストイシズムへの憧れがあり、どこかで何かに耐えて努力し続けようという純粋な気持ちがあったのです。

 私の言いたいことはそれです。今はこんなにヨボヨボの根性ナシになってしまいましたが、かつては大真面目で、本気で、求道的な生き方をしたいと願っていた私がいた、それは紛れもない事実です。
 そしてそんな若者は今も昔も少しも珍しいものではなく、今日、育てている児童生徒の中にもやがて生まれてくるのだということ、そうした生真面目な求道者の卵を、私たちは預かっているのだということ、そういうことを大切にしたいと思うのです。


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2013/9/24

「車間距離の話」  


 秋の全国交通安全運動期間中です(30日まで)。日ごろの運転マナーを振り返り、安全運転に心がけましょう。

 もう何十年も昔、免許取りたてのころです。つづら折れの山道を下るのに、どの程度のスピードでどんなふうに運転したらよいのか分からないので、前の車にぴったりついて行ったことがあります。そうしてみると初心者には驚くほどの速さでグイグイ行くので、なるほどこんなふうにやっていいんだと思って走っていくと、2〜3回目のヘアピンカーブで前の車が曲がりきれず、草むらに飛び込んでしまったのです。
 あとで気づいたのですが、私がぴったり追走したので煽られてスピードを出しすぎていたのかもしれません(崖から落ちなくて本当に良かった)。申し訳ないことをしました。

 そのためではありませんが、今は走っているときも信号待ちでも、かなりの車間距離をとるようにしています。
 理由は二つ。

 ひとつはもちろん追突しないためです。信号待ちで追突され、押し出されて前の車に玉突きでぶつかると、前の車の被害については私が補償しなくてなりません。自分自身の車のフロント部分についても自腹と言うことになります。これでは割に合いません。走行中に同じことが起きればさらに危険です。

 もうひとつの理由は自分のドライブを他人に支配されたくないからです。
 私は走行中に車間距離を詰める人の気持ちが分かりません。詰めてしまうと、前の車がブレーキを踏むたびにこちらもペダルを踏ないわけに行かないからです。そのあとも車間距離を維持しようとすれば、むこうがスピードを上げるたびにこちらもあげざるをえません。それはまるっきり自分がコントロールされているも同じです。
 信号待ちで青になり、前の車が走り出したと思ったとたんにブレーキランプが点灯し、慌ててブレーキをかけるなどということはしょっちゅうです。それが我慢ならないのです。

 車間距離を十分にとっておけばかなり自分のペースで走ることができます。仮にそこに横入りされても、それはそれで三文の徳です。

 事故を起こしたくて起こす人はいません。しかし起こるときは起きます。そのとき被害を最小限にとどめるために何等か工夫が必要です。
 車間距離を含め、さまざまに考えておくべきことがありそうです。



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2013/9/23






           秋分の日




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