2013/7/26

「夏休み」  歴史・歳時・記念日





今日から夏休みです。
基本的に「デイ・バイ・デイ」もお休みになります。
次の書き込みは、後期研修日程の始まる 8月20日からです。

皆様、夏負けしないよう気をつけて、お過ごしください。



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2013/7/25

「おつかれさまでした」  教育・学校・教師


 長い一学期が終わります。おつかれさまでした。

 今学期は部活で多くの成果があり、たくさんの部が県大会に臨むことができました。また修学旅行をはじめ、社会見学、登山など、大きな行事は雨に悩まされることなく、順調に行われました。すべて順風満帆という感じです。
 しかし同時に、子どもの難しさを改めて感じた学期でもありました。

 私は、不登校の構造はもう解明されたと思っています。そして各校に授業を持たない専任のスタッフが1〜2名いて、常に対応するようになれば大半が解決するものと思っているのです。しかしそれでもなお、そうした枠に入りきらない、対応が極端に難しい不登校がいるのも事実です。今学期は改めてそれを痛感しました。

 それとは別に、コンピュータゲームという悪魔の機械はやはり対応が難しいものだと改めて考えさせられました。「男は、ゴギブリが二匹走っているだけで賭け事したがる」という言い方がありますが、PCゲームはそのつぼを良く心得ています。ド素人から熟達者まで同じソフトで遊べるというのがすごいところです。ソフトを買うたびにスキルがリセットされるのです。いくら男の子は競争が好きだといっても勉強で競おうとしない理由がそこにあります。一度差がつくとリセットすることがありません。勉強で出直しが利くのは中学校の英語くらいなもので、したが、それも近い将来、小学校英語の学力がものを言う時代になってしまいます。

 それにしてもPCゲーム、あんなもの最初から渡さなければ何ということもなかったのに、なぜそれができなかったのか、その段階から考え直す必要があります。

 子どもの健やかな成長を願わない親はいないはずなのに、保護者はしばしばそれと逆のことをします。「必ず勉強するからゲームを買って」と言われて要求に応えるのは、「絶対に撃たないから銃を買って」と言われて応えるのと同じです。約束は絶対に守られません。

 不登校傾向のある子どもにネット接続できるコンピュータやスマホを買い与えるのは、「死になさい」と短刀を渡すようなものです。
 
 そうしたことがなぜ分からないのか。分かった上で抵抗できないのか、そもそもそうしたこと全部がどうでもいいことなのか、何をやっても最終的には何とかなると楽観しているのか、失礼なので聞いたことはありませんが、本当は知っておくべきことでしょう。

 さまざまなことがあり、さまざまに考えさせられ一学期でしたが、ここら辺で一休み。二学期への英気を養っておきたいと思います。

 先生方、本当にありがとうございました。




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2013/7/24

「噛みつく人々」  教育・学校・教師


 このデイ・バイ・デイで政治の話をすることはほとんどありません。ましてや外交問題に触れたことなど一度もなかったと思います。しかし参議院選も終わり政治も一斉に動き出します。したがって少しだけ触れておきたいと思います。話したいのは尖閣の問題です。

 先生方は尖閣諸島の問題についてどうお考えでしょう。巷では島に基地を設けて中国との一戦も辞さないという人もいれば、いまだに“尖閣、what?”みたいな人までさまざまです。しかし大方は「まあ、中国もいろいろ言わないで。今までどおりでいいじゃない」というところでしょう。両方が何も言わなければどこにも問題はないのに、中国は何をムキになっていちいち突っ込んでくるのか、もういい加減にしてほしい。そんなふうに考えている人もいるかもしれません。

 私たちの目からすれば、大国となった中国は領土的野心に燃え、海洋に覇権を打ち立てようとしているように見えます。昨年9月に起こった反日デモでは、日本のデパートが襲われ日本車が焼かれ、明日にも炙り出された日本人が殺されるのではないかとったものものしい雰囲気でした。尖閣近海では中国艦船が繰り返し領海を侵犯し、航空機も領空を侵し始めます。まさか全面戦争はないものの、偶発的な事故から人民解放軍と自衛隊の正面衝突といった事態も予想される、それほどの緊張感でした。中国は本気かもしれない・・・。

 しかしその後、あちこちの情報に目を通すと、ニュアンスが少し違ってきます。大国となった中国がかさにかかって襲ってくる、というのではなく、「中国は傷ついている」といった感じなのです。

 あちら側にすれば「せっかくトウ=田中会談で“棚上げ”にした問題を、なぜ日本は『国有化』で蒸し返すのか。そんなことはせず、今までどおりでいいじゃないか」―土台が違うのだけで、「今までどおりでいいじゃないか」という結論はほぼ同じなのです。なのに日本は譲歩しようとしない。それは日本が中国を低く見ているからだ、そういう思いがあるようなのです。
 核兵器を保有し、宇宙に人間を送り、GDPでは世界第2位になったのに、まだ日本は中国を認めない。認めないばかりか「尖閣国有化」といった形で平然と挑発してくる。しかしそれを跳ね除けるには、中国はあまりにも弱い、政府も強気になりきれない・・・と、それがあのデモを含む、中国の激しさの根本にあるものなのです。

 ちなみに、威勢の良いことを言っても、今の解放軍がどれほど強いかは未知数です。中国が本格的に戦ったのは1979年の中越戦争(それも負け戦)が最後で、もう30年も前のことになります。中国の得意は人海戦術で、毛沢東は「アメリカをたたくためなら中国人が4億人死んでもかまわない、残る2億ですぐに6億の人口は恢復できる」と言ったそうですが、今の中国はそうは行かないでしょう。なにしろ全員が“一人っ子”なのです。惣領息子だけで構成される軍隊など、世界に類例がありません。いかな中国でも一人息子が次々と死んでいく戦争など継続できるはずがありません。中国の人たちはそのことをよく知っているのです。

 と、ここで突然の教育ネタです。

 私はこれまで何人かの「モンペ(モンスター・ペアレント)」と呼ばれていいような人々と付き合ってきました。あの人たちと、今の中国の印象が似ています。
 どう道理を説いてもだめ、落ち着こうと言ってもだめ、そのうえ無理難題を繰り返し言い立ててくる。「もうそれが無理だと、あなただって分かっているはずだ」、そう言いたくても言えない・・・。

 そして最終的に理解したことがあります。それはこの人たちも困っているということです。
 何をどうしたらいいのか分からず、あれこれの思い付きや思いをただ言い並べているに過ぎないのです。その一つひとつに応えてくれる必要はありません。とにかくこの思いを理解し、問題を解決してほしいのです。

「その一つひとつに応える必要はない」、そのことに気づいてから、この人たちとの付き合いはずっと楽になりました。
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2013/7/23

「そうだ、選挙に行こう!」  教育・学校・教師


 今年定年を迎えるひとのから、年金支給年齢が61歳になります。つまり1年間は無年金なのです。それが3年間続き、平成28年度〜30年度に60歳になる人は62歳、31年度〜33年度が63歳、34年度〜36年度が64歳、そして平成37年度以降に60歳を迎える人たちに支給年齢は65歳となって、一応ここで止まります。その代り「希望者全員を、該当の年齢まで雇用しなければならない」という規定が「高齢者雇用安定法」盛り込まれ、事業者に義務付けられました。教員の再任用制度はこうした事情を背景としています。定年を迎えた教員は希望すれば必ず再任用となり、給与はかなり減額されるものの、正規職員として働き続けることができます。当然です。そうでなくてはなりません。

 しかし世の中、必ずしも当然なことが通っていないことだってあります。
 例えば、本気で正規(社員・職員)として働きたいと思っている若者がいれば、その人に優先的に働ける場がなくてはなりません。それも当然です。しかしこちらの当然は必ずしも現実化していません。いちど非正規の世界に入り込んでしまうと、正規への道は限りなく遠のいてしまうのです。年を取ればとるほどその道は険しくなります。
 なぜそれほどまでに険しいのか、理由は様々で重層的ですが、前述の再雇用・再任用が一つの要因になっているのは間違いありません。私たち年寄が若い者に席を譲らないのです。

 繰り返しますが、再任用・再雇用は最優先で配置される「正規」です。退職金ももらい貯金もあるはずの老人が正規として残り、無一物の若者が非正規に甘んじる、これが正しいありかたと言えるでしょうか。
(ただし私個人が率先して若者に席を譲るかといったら、そんな気はさらさらありません。ウチの息子がきちんとした就職をするまで、もう少し頑張らなくてはいけないからです。そしてそんなふうに私たちが頑張っているので息子たちは「きちんとした就職」ができないのです。これでは堂々巡りです)

 どうしてこんな不公平がまかり通っているのか、それはつまり政治が年寄り向きに動いているからです。老人の意思の方が政治に反映しやすいのです。だって私たちは選挙に行き、私たちに都合の良い人を政治の世界に送り込んでいるのですから。

 日曜日に行われた参議院選挙の投票率は52・61%だそうです。年代別の投票率はこれから出てくると思いますが、今までと同様だとしたら若者世代の投票率はそう高くないはずです。私たち年寄はがんばって選挙に行きます。そこに差が生まれます。
 東北大学大学院の吉田浩教授と経済学部加齢経済ゼミナール所属の学生たちの試算によると、若者世代の投票率が1%下がると、若者は1人当たり年間13万5000円も損をするのだそうです。裏を返せば1%上げるだけで13万5000円も得することになります。正規雇用の道も開けます。

「自分一人が投票に行ったって何も変わらない」
 それはそうかもしれません。しかしその「自分」が友だちをさそって皆で大挙して出かければ、政治は確実に変わります。全国の非正規・アルバイト・就活学生が全員投票に行くだけで、老人から雇用を奪うことができるかもしれないのです。老人なんてどうもいいのです。彼らはそこそこの金を持っています。持っていないお年寄りは生活保護で救えばいいのです。

 優遇される側の私がこんなにイライラしているというのに、肝心の若者はノホホン手をこまねいています。どうやら私たちが身を捨てて、子どもたちを投票所に誘わなければならないようです。

 二十歳になって選挙に行くことを、待ち焦がれるような子どもを育てたいものです。

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2013/7/22

「通知票には愛がなければならない」  教育・学校・教師


 今頃になってこんなことを言うのも遅いかもしれませんが、ふと思いついたので記しておきます。それは「通知票には愛がなければならない」ということです。

「空き教室の電気のスイッチを、自分から消していた。とても感動した」
 私の息子が小学校4年生の3学期にもらってきた通知票の総合所見です。どうお感じになります?

 私は腹を立てました。その先生がとても立派で信頼に足る人だと知らなければ、人間性自体を疑ったかもしれません。だってそうでしょ?
 確かに拙い息子かもしれませんが、一年間預かってもらって印象に残った事象が「空き教室の電気のスイッチを切った」それひとつしかないというのではあまりにも情けない。しかもそれが「感動」するほどの事件だったとしたら、日ごろの息子は何者なのでしょう。
 またクラスや集団のためにまったく役に立たない子だったとしても、他に書きようはなかったのか、そんなふうに感じました。繰り返しますが、本当にクラスのために何の役にも立たない子だったのかもしれません、しかしそうであればなおのこと丁寧な記述が必要なはずです。
 
 親が通知票を通して知りたいのは、どういう教科ができた、どの部分が苦手だった、そしてどんなことに注意していけば成績が上がるかといったことではなく、ウチの子が学校でどういう扱いを受けているかということなのです。友だちの中でどういう子なのか、いじめられていないのか、いやな子だと思われていないか、ひとに迷惑をかけていないか。人並みに皆の役立っているのか、足を引っぱったりしていないか、そして先生からはどんなふうにみてもらっているのか、親が通知票から読み取りたいのはそういうことなのです。 

 だとしたら、そうしたことを意識した通知票を作成しなくてはなりません。

「担任もクラスの仲間も、みんなお子さんのことを大事に思っています」と、そんなふうに書いても、あまり意味はないでしょう。それ告白するのに「愛している」といってそれで済ませるのに似ています。言わないよりはましですが、嘘でも言えることです。

 必要なのは、自分がその子(その人)にどういう態度・行動をとったのか、ということです。児童・生徒のどの部分を心にかけ、どう対応したか、それを具体的に書くことで教師の愛を伝えていくしかありません。
 難しいことではありません。ほとんどの場合私たちは愛ある対応をしています。それを目に見える形にするだけでいいのですから。



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2013/7/19

「王様は裸だ」A  教育・学校・教師


 不登校について言えば、ごくごく当たり前のことですが、その中に怠学の子もいれば病気の子・障害の子もいる、人間関係に未熟な子もいれば社会関係の認知に問題のある子もいる、拗ねている子もいれば訳が分からなくなっている子もいる、今日の学校や社会を糾弾するためにあえて学校に来ない確信的な児童生徒もいる、要するにさまざまな不登校があるということです。また不登校の始まりから長期化するまでの間に多くの変遷があり、一人の子の中でも一様ではありません。時期によって不登校の意味は異なっていたりするのです。
 もちろんだからといって、千人の不登校児がいれば千種類の不登校があるとは言いません。多様性は無限ではなく、ある程度の枠の中にあります。おそらくそれが正しい見方です。

 同様に、いじめにも様々なパターンとバリエーションがあり、時間軸で変化する内容があります。ジャイアンのような単純ないじめっ子もいれば、スネ夫のように気の毒ないじめの随伴者もいます。弱者がひそかに、しかも執拗に行ういじめもあれば、首謀者ですら全くコントロールできない暴走的ないじめもあります。
 自殺につながるような残酷ないじめが、ある日突然、爆発的に起こるなどということはありません。最初はそれほどでもなかった―いじめですらなかったものが徐々に、じわじわと、被害者も加害者も意識できないほどゆっくりと変化していき、いつしか取り返しのつかないものになる、そういったケースが大半です。
 ですから「いじめは100%いじめる方が悪い」というのも「誰でもいじめの被害者になりうる」というのも正しくありません。特定の時点、特殊な状況ではそうかもしれませんが、事実はもっと複雑なのです。ひとことで言い切ることなどとてもできません。
 しかしこの件についても、私は「王様は裸だ」と言うことをしませんでした。ごく当たり前なことを言っても、政府も社会も受け入れようとはしないからです。

 裁判が終わったあとで「それでも地球は回っている」と呟いたガリレオのように、面従腹背で自分の気持ちを曲げずにいるだけで、それ以上のことはしません。ガリレオと同じで「男らしいかどうか」はあまり価値基準の中に入ってこないのです(あの裁判の最中に「地球は回っている」と言い続けて死刑になっていたら、ガリレオの評価はどうなっていたのだろう―そのことは繰り返し考えます)。

 さて、私が今、卑怯者になって口をつぐんでいること、言ってもしかたないと諦めていることの一つは「教員も人間だ」ということです。別な言い方をすると「教師にも限界がある」「教師だって世間並みにだらしなかったり情けなかったりする」ということです。

 たとえば、どんなに厳罰化を進めても教員の非違行為はゼロにはなりません。なぜなら私たちも普通の人間の要素をたくさん持っているからです。制限時速40kmの道路を40kmで走ったら申し訳ないと本気で感じているからです。普通に周囲にあわせれば、50km〜60kmはすぐに出てしまいます。40kmで我慢していたって、下り坂では速度超過をしかねません。絶対違反をしないとなれば、常に30kmか35kmで走るように心がけるしかありませんが、そんなこと、まじめで臆病な教員にできるはずはないのです。

 同様に、一日に4時間も5時間も超過勤務をしている教員の中には、注意不足や散漫から違反や事故をくりかえす人も出てきます。そしてそのレベルを越えると、一部はうつ病を罹患し、別の一部は正常な判断力を失ってさらに異常な非違行為に走ります。そうとでも考えないと40歳を過ぎた分別盛りの教員の、あまりにも稚拙な非違行為は理解できません。

 しかしそれでも、私は「教員も人間だ」とは言いません。社会が教員に求めているのは、もっと、もっと、もっと高い道徳性なのだからです。



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