2013/6/20

「透明で混沌とした世界」  教育・学校・教師


 東野圭吾の作品が好きでテレビドラマの「ガリレオ」シリーズもよく見ています。主人公の湯川准教授は天才物理学者で同時に重要な警察の協力者です。そして子どもが嫌い。なぜかというと「子どもは合理的ではないから」だそうです。子どもが近づくと蕁麻疹が出るほどに嫌いなのです。
「現象には必ず理由がある」「仮説は実証されて初めて真実となる」が口癖で、論理の明快さがすべてです。事件捜査に関わるのもたとえば密室殺人といった不合理が我慢できないのであって、誰が犯人か、その動機は何かといった問題には一切興味がありません。論理と筋道の申し子なのです。

 作家村上龍のデビュー作は「限りなく透明に近いブルー」でした。これについて村上自身が、数学的な美しさがモチーフだと言っています。
「反比例を表す漸近線はどこまでたどっても絶対にX軸にもY軸にも接しない。グラフ上でいかに接しているかのように見えても絶対に触れてはいない、その美しさが好きだ」
というのです。

 私も若いころ、というよりは子どものころ、数学のそういう透明さが好きでした。例えばどれほど複雑な方程式でも、手順に従って解いていけば必ず小さくたたまれ、最後は「X=」の形で表現される。項が何十あろうと因数分解の問題は必ず答えがあり、何十人何百人いようとも不正解以外のすべての人が同じ答えになる。そこが不思議で、しかも美しく、そして心地よかったのです。

 それに比べれば国語や社会科はまるでダメです。解釈の学問ですから答えに幅があります。すべての答えは仮の解であって、新たな発見があれば簡単にひっくり返ってしまうほど脆弱です。例えば作家の私生活に重要な事件がひとつ発掘されるだけで、その時期に書かれた作品の解釈は異なってきます。
 社会科も一つの発掘、一つの発見によって学んだ事項そのものがなくなってしまうことさえあるのです(例えば三内丸山遺跡の発見ひとつで、縄文時代に関する私たちのイメージはまったく異なったものになってしまいました)。
 若いころはそういうものに相当いらだっていたのです。

 ところがある時期から不合理だったり不条理だったりするものに心惹かれるようになったのです。きっかけは埴谷雄高の「不合理ゆえに吾信ず」という著作です。
 これは一種の哲学的アフォリズム(格言集?)で、正直言ってさっぱり分からない本でしたが「不合理だからこそ信じる」という感じ方考え方が、その時期の私にストンと落ちたのです。

 数学や科学はこの世界の一部でしかありません。人間を含め、世の中の大部分は合理的に説明できない混沌としたものです。それが合理的に説明できるとしたら、説明か現象のどちらかが嘘なのだ、とそんなふうに理解しました。それから人間とか人間の営みとか、その不合理な存在を扱う“教育”とかが好きになりました。

 湯川准教授のように子どもの不合理が嫌いだと教育はできないのです。



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2013/6/19

「不注意の代償」  教育・学校・教師


 初めてS道K線を走った時、その起伏の激しさとカーブの多さに驚いたものです。しかしそれにもすぐに慣れてしまいました。今回、教員が○○SAの手前で35km/hオーバーの速度違反をしたというので、その慣れた道を改めて意識し、どこでどんな違反が起こったのか、検証する気持ちで走ってきました。するとT町に入ってから○○SAの先までは、本当に激しいアップダウンとカーブの繰り返しなのです。

 特にT町に入ったばかりの長い長い下り坂、そして○○SAの手前のトンネルは鬼門です。後者について言うと、暗いトンネル内で視覚的に下り坂が分からないのです。

 80km/h制限の高速道ですが周囲に合わせていると抑えたつもりでも90km/h。その速度でトンネル内の下り坂に気づかないといつの間にか100km/h、そしてトンネルを出たところで前走車を抜こうとするとさらに15km/h加算。計115km/h。
 これで立派な35km/hオーバーの完成です。

 教員ですから日常的にスピード違反を楽しんでいる人はそうはいません。しかし周囲に調和し、さらに少し考え事をしていたり疲れていたりするとこの程度の違反はすぐに発生してしまいます。そしてその代償はあまりにも大きいといえます。

 いい年をして『反省文』を書くなど切ないですよね。それを持って校長と一緒に教育長室へ出向き、いい年をして説教を受けるのもいやです。学校に戻って職員会議で顛末を発表し、「どうしたら今後そういうことがなくなるか」をみんなで考える(現在はそこまでやります)・・・こんなこと、もうたまりませんよね。

 しかし中には「恥をかいて頭を下げるだけならいいや」と思う不届き者がいるかもしれません。しかしその人は罰金のことを忘れています。普通は気にしない金額なので(払ったことのない人の方が圧倒的ですから)、改めて下に書いておきます。

【高速道路】
交通違反の種類    点数   反則金(普通車)
15km以上 20km未満   1  12,000円(反則金)
20km以上 25km未満   2  15,000円(反則金)
25km以上 30km未満   3  18,000円(反則金)
30km以上 35km未満   3  25,000円(反則金)
35km以上 40km未満   3  35,000円(反則金)

【一般道路】
交通違反の種類    点数   反則金(普通車)
15km以上 20km未満   1  12,000円(反則金)
20km以上 25km未満   2  15,000円(反則金)
25km以上 30km未満   3  18,000円(反則金)
  
 高速道路40km/h以上、一般道30km/h以上の記述がないことに注目しなくてはなりません。実はその部分については規定はなく、簡易裁判所の判決を待って金額が決まります。相場では7〜8万円だそうです(10万円以上になる場合も)。そして正確にはここからが“罰金”でそれ以下は“反則金”と言います。

 違反を承知でガンガン飛ばすような人はそうはいません。違反や事故の大部分は不注意によるものです。そしてその“不注意の代償”がこれほど大きいのです


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2013/6/18

「老いの自覚」  教育・学校・教師


 良く晴れた空や真っ白なシーツを見ていると細かくチカチカと光るものが見えることはありませんか。あるいは糸くずのようなものが絡まってゆっくり目の上を動いていたり、染色体のらせん模様のような、地図記号のJR線のような透明なものがウロウロしていたりすることはないでしょうか。それは飛蚊症(ひぶんしょう)という目の病気です。先天的なものもあれば目の打撲や強度近視、あるいは加齢によるものもあります。稀に網膜はく離や硝子体出血のような深刻な例もあるようです。

 私には若い頃からこの飛蚊症があり、鬱陶しく思うことも少なくありませんでした。ところが先月、映画館で映画を見始めた瞬間に、右目に大きな塊が入っていることに気づきました。
 視野の五分の一ほどの大きさで、ちぎったラップを丸めたようなものです。これほど大きな飛蚊を見たのは初めてです。

 以来、気になっていたのですがなかなか病院に行くことができず、今回ようやく休みが取れたので行ってきました。結果は、
「全く問題はありません。健康な、加齢による飛蚊症で、これからも繰り返し出たり消えたりします」

 健康な飛蚊症というのも分からなければ、現実に映画が見にくくて困っているのに「問題はありません」というのもツッコミどころかと思いますが、基本的に医師と私の気持ちは一致していています。網膜はく離や硝子体出血でなければいいやというところです。
 加齢では仕方ありません。

 別の話。
 車を運転していて細い路地から幹線道路に左折しようとして、右を見て、左を見て、また右を見て出ようとしたらすぐ目の前に自転車がいた、そんなことが立て続けに2回もありました。左右を丁寧に確認しながら、最後に出ようとする瞬間の、進路を見ていないのです。

 またそれとは別に、駐車場で狭い隙間にバックで入れようとして曲がる内側の車にばかり気を取られ、反対側の車と接触しそうになったこと、これもこの一年間に二回ほどありました。 
 運転には相当の自信を持っていたので非常にショックでした。
 
 さらに別の話。
 友人がボケました――と書くと何かの“お笑い”の書き出しのようですがことは深刻です。脳が委縮し、生活に支障をきたしているのです。

 もともと極度の肥満で糖尿病と高脂血症を患っており、それらの影響のようです。しかし酒や食事を制限されることを嫌って、奥さんにも話していませんでした。高校時代からの友人ですからつきあいはもう40年以上、仲間のうちの誰かがいつか、重大な健康問題を抱えることになるだろうと思っていましたがこの年齢で脳機能障害というのは予想外のことです。若いころとは違い、無理がストレートに肉体破壊につながります。

 そこまで行かないにしても、私にも確実な衰えがあります(たぶん)。もう若いころのようなわけにはいかないと、ほんとうはそんな気持ちはないのですが、「もしかしたら衰えは相当に来ているのかもしれない」「衰えていると思って注意しておいた方がいい」と、きちんと言いきかせておかないと、とんでもないミスを犯してしまうかもしれません。それが仕事上のミスならまだしも、交通事故となると人の命に関わります。

 ほんとうはまだまだやれる気でいます(というかやれない気がしていない)。しかしそれではだめなのです。たぶん。


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2013/6/17

「誉める・叱る」B〜叱る  教育・学校・教師


@大勢の前で一人を叱る
 大勢の前で一人を叱ってはいけません。どんな子どもにもプライドはあります。大勢の前で叱られた子は素直に反省などしません。下を向いてひそかに復讐の炎を燃やしているだけ です。大勢の前で叱られてよくなった子は一人もいません。

 ただし、それにもかかわらず昔の教師は平気で一人を吊し上げました。このやり方に別のメリットを感じていたからです。それは「叱られている本人『以外の児童生徒』に効果がある」ということです。一人が怒鳴られている最中に周りの子たちが考えていることはただ一つです。
(ああは、絶対なりたくない・・・)
 これが全体の規律を正します。この方法を“血祭りにあげる”と言いました。

“血祭り”の対象になるのは、誰でもいいという訳にはいきません。簡単に傷つく子、反抗心がどこへ飛んで行ってしまうかわからない子、そういった子どもは巧みに避けられます。タフな子、懲りない子、ひねくれない子、その上で「だれが見ても叱られて当然な子」がベストです。私はたぶんそういう子でした。

 現在では人権的な見地から、好ましくないものと考えられています(それは当然でしょう)。本人が納得している場合でも別の生徒がそれを見て、人権問題として親に訴えるケースもあります。学校の瑕疵や不備を親に教えるのが何よりの親孝行という家だってあるのです(その親が警察やマスコミに訴えます)。

 しかし一方、“叱る”には「そのとき、その場で、瞬時に」という原則もあるので厄介です。大勢の前で叱らなければならない場合もあるのです。危険回避など、誰が考えてもその場で叱るのが適切といった内容について、瞬間的に怒ったり叱ったりできるようにならなければなりません。そこが教師としての修行のしどころです。


A呼んで個人的に叱る
“怒る”のではなく“叱る”に重点を置こうとすれば、これが最良のやり方と言えます。しかし個人的に呼び出したりするとどうしても話がしつこくなります。
 相手がウンザリするようでは説諭の効果も半減です。会話の技術を磨かなければなりませんし、特に話の落としどころをしっかりと据えておかないと全体がだらしなくなります。もちろん「ウンザリしてもいつまでも話を聞いていなければならない罰」を与えているということであれば話は別ですが。

 いずれにしても叱ったり怒ったりするのは誉めるより何倍も難しい行為です。

B陰で叱る
 本人ではなく、その子の友だちや同級生に対して「アイツはダメだ」みたいな話をしてはいけません。まさに「悪行千里を走る」で、話はあっという間に本人に伝わります。しかも人間には「真実は陰で語られる」という思い込みがありますから、取り返しがつきません。

 教師は児童生徒の友だちでも仲間でもありません。“友だち”や“仲間”というのは、「たとえわずかでも一緒に悪事を働く可能性を含んだ関係」です。しかし教師と児童生徒の間に悪事を共有する可能性はゼロです。どんなに良い関係であっても、その意味で子どもを信用してはなりません。陰で悪口を言うのはどんな場合にも避けるべきことです。


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2013/6/14

「誉める・叱る」A〜誉める  教育・学校・教師


@大勢の前で一人を誉める

 大勢の前で一人を誉めると他の子たちも「あんなふうに誉められたい」と思って頑張るようになる――と考えるのは大間違いです。たいていの場合“その他の人々”は無関心です。ほかの子が誉められてうれしい子はいません。

 ましてやいつも誉められている子がまた全体の前で誉められるとなれば、周囲の子は嫉妬心をたぎらせ、本人はクラスの中で浮いてしまいかねません。ですからこれは案外いい方法ではないのです。誉めるにしても軽い扱いにしておかなければなりません。

 ただしこのやり方、一点で絶大な効果があります。それは、
「めったに誉められることのない子を有頂天にさせる」
ということです。
 めったに誉められることのない子は、誉められることによって生まれるリスクに知識も経験もありませんからすぐに有頂天になる。それでいいのです。

 また集団の形成期でどういう行為が誉められるかを全体に知らしめたいとか、“その他の人々”の嫉妬心に火をつけてそれで何かを果たしたいといった特別の場合もこの方法は、用いられます。しかしあまり一般的とは言えませんし、簡単に手を出さない方がいい方法です。


A呼んで個人的に誉める
 研究室や職員室にわざわざ呼んで誉めるというのはあまりないことです。ベテランの教員ならもっと効果的な方法を知っているからです。それはこちらから出向いて行って誉めるということです。わざわざ会いに来るほど嬉しかったと表すためです。

 演技ではありません。なぜなら生徒に良いことがあれば本当にうれしいのですから。それをちょっと上手に表現するだけのことです。

B陰で誉める
 教員は全員の児童生徒と良好な関係を結んでいるわけではありません。時にはどうしてもうまく行かない関係、ウマが合わないとしか言いようのない関係、何らかの事情で崩れてしまった関係、そういったものもあります。そうなると何をやってもダメ。素直に誉めていてもゴマすりとしか思ってもらえず、下手に扱えば反抗のネタにさえされかねません。

 仕方がないのでこういう時は生徒に代弁してもらうようにします。「囁き千里」と言って秘密や陰口はすぐに漏れるものです。 “良い話”はそれに比べるとなかなか伝わりにくいものですが、それでも伝わります。機会を捉えて“その子”の友だちや同級生に「あいつはいいやつで、こんなことをしたよ」とか「あんなことをして立派な奴だ」とか言っておけばいいのです(ただしその内容は具体的でなければなりません)。

 その言葉はいつか伝わります。しかも多くの場合、非常に重要な場面で出てきます。
(だけどなあ、あの担任、こんなこと言ってお前のこと誉めていたぞ)
 しかも本人の前で言ったことではありませんからそれだけ真実味も増します。 人間には真実は陰で語られるという思い込みがあります。
 これも演技や策略ではありません。本当は直接伝えたいのに、そのチャンネルが破損しているので他のチャンネルを使うだけのことです。


 紙面がなくなりました。【叱る】は来週に回します。


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2013/6/13

「誉める・叱る」@  教育・学校・教師

【誉める】
「性格を誉めるな、行為を誉めよ」という言い方があります。
「優しいね」とか「親切だね」と言ってはいけない、内容が曖昧で、次の行動ができない。真面目に対応しようとすれば24時間1年中、優しかったり親切だったりしなくてはなりません。それは辛い。
 ところが「宿題を見てあげたんだってね、偉いね」とか「代わって上げたの? いいぞ」とか誉められた場合は次に何をすればいいかはっきりしている、同じことをすればいいだけだ。これだと誉められることが役に立つ、というのです。たしかにその通りと思います。

 もうひとつ。
「子どもは誉めて育てろ」という言い方があります。私たちも保護者にそう言ったりします。
 しかしそう言うと必ず、保護者の中にこう言う人が現れます。
「誉めるところが見つからないのです。一生懸命見ているのですが、あの子、誉めるようなことをしてくれない」
 たしかにそうです。見ていてもだめなのです。誉めることはこちらがつくってやらなければならないのです。
 これについて非常に示唆に富んだ言葉を残してくれたのは山本五十六です。

「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ」

 やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて――そこまで子どもを仕上げておいて、その上で誉めるのです。
「ここまでやれば馬鹿だってできるはずだ」。そう思っても口にしてはいけません。子どもにはそれでも大変なのです。できれば誇りです。それを誉められれば、子どもは幸せなのです。

【叱る】
 ときどき「先生はクラスの中でボクのことばかりを叱る」という子どもが出てきます。親が聞くと「なぜウチの子ばかりが、そんな冷たい仕打ちを受けるのか」となりますが、ウチの子ばかりが冷たい仕打ちを受けているわけではありません。たいていの場合、ウチの子ばかりが悪いことをしているのです。そのことに気づかないケースが案外あります。

「三つ誉めて一つ叱れ」という言葉があるように、私たちも叱りたくなどないのです。しかし本当はほめて育ててやりたいような子が一つ誉めた次の瞬間に三つくらい悪いことをする。そうなるとあっという間に「一つ誉めて三つ叱る」状態になってしまう。「頼むよ、誉めるネタをよこせとは言わんが、叱るネタを少しは減らしてくれ」と心から拝みたくなったりします。

 さて誉めるにしても叱るにしても様々な状況と場合があって、その場その場で異なった判断をしなければなりません。それは当然です。しかしある程度定式化している部分もあります。 
それについては明日お話しします。



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