2013/5/15

「円安・ドル高」  知識


 これだけテレビで円安ドル高と言われると子どもから質問されることがあります。ところが為替レートの話、手順を間違えると思わぬドツボにはまったりします。

 この問題の厄介さは二つの点にあります。
 その第一は円安と言われるにもかかわらず、1ドル=80円→90円→100円と数字があがってしまうからです(逆に円高だと100円→90円→80円と数字は下がります)。それが感覚的にうまくつかめないという点。

 もう一つは為替変動というのが、貿易やサービスなど実際の経済活動によって起こる面と、マネーゲームとして動く場合の両側面があるからです。これが同時に動くため分かりにくいのです。


 まず前者については、円高とドル安、ドル高と円安はそれぞれ同じものだということを最初に押さえます。
 相手が中学生以上なら、1ドル=80円が1ドル=100円になるというのは「ドル紙幣」という商品が80円から100円に値上がりしたことだ(ドル高)、しかしこれは円の方をそろえると100円=1.25ドルから100円=1ドルになる、つまり「100円玉」という商品が1.25ドルから1ドルに値下げしたことになる(円安)だから「円安」と「ドル高」は同じなのだと説明します。
 しかし小学生だとこの時点ですでにアウトになりますから、「円とドルはシーソーのように片方が上がると片方が下がる」と機械的に教えてもいいでしょう。

 そしてそこまで説明した後で、円安と円高という言葉を意識から遠ざけ、ドル高・ドル安だけでものを考えるように仕向けます。なぜならニュースは常に「1ドル=○○」で表現するからです。ドルだけで考えると1ドル=100円→120円はドル高(=円安)、1ドル=120円→100円はドル安(円高)と言われてすぐに理解できます。

 さて後半ですが、為替レートは国際的な経済活動によって変動します。たとえば外国から石油をバンバン買って国内で売った時、石油会社は消費者から円で支払いを受けますが、外国へはドルで支払わなくてはなりません。そこで「ドル」を求めて日本中に声をかけます。ドルが足りないのです。足りないものは必ず値上がりまします。これが「ドル高(=円安)」です。
 逆に日本がバンバン輸出してドルの支払いを受けると、国内でドルがだぶつき円が不足します。これが「ドル安(円高)」です。

 ただし現実には、為替レートはこうした普通の経済活動によって動かされる面より、「今ドルを買っておけば明日は値上がりするだろう」とか、「早く手放さなければ明日は下がってしまう」とかいった思惑によって動かされる面が強いのです。
 現在起っているドル高(=円安)も、「今日80円のドルを買っておけば明日81円になっているかもしれない」という思惑からスタートしました。80億円分のドルを買っておけば翌日は81億円です。
 しかしそれも小学生には難しいでしょう。


 小学生に教えてあげることのできるのは、以下のことだけです。

「ついこの間まで1ドル=80円ほどだったのが今は100円でしょ。ということはアメリカの1ドルの品物があっという間に80円から100円に値上がりしたのと同じだ。だから外国のものを買ったり外国旅行をしたら苦しくなるよね。80万円で行けた旅行が100万円もかかるのだから。

 円とドルはシーソー。だから外国の人が日本のものを買ったり日本に観光旅行に来るのはすごく安くできるよね。このまま行けば日本の車や電化製品が外国でバンバン売れるようになる。そして外国からたくさんの観光客が来てくれる。
 ただしこちらからが出ていきにくいけどね」



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2013/5/14

「人権教育旬間」E 〜問題への取り組みA  教育・学校・教師


 盗人にも三分の理と言いますが加害者にもそれなりの理屈があり、極めて主観的で身勝手なものであるにしろ、彼らは“(彼らなりの)正義”に則って行ったのかもしれない―そうした可能性を無視した指導は、指導でなくなる危険性があります。
 昨日の一文です。

 いじめ問題の指導が困難なのは、多くの場合、加害者の内に主観的な正義があり、その奥には被害者意識があるためです。そうしたものの全くない“いじめ”の指導は難しくありません。なぜなら加害者は自分が悪いことを知っているからです。

 では被害者意識があり、正義を振りかざしている場合はどういった指導が可能なのでしょう? それには彼らが負った被害と、彼らの行っている加害の著しい不均衡を、まざまざと見せつけるしかありません。
それは事実確認という形で行います。

 怒ったり「お前のやったことはこういうことだぞ!」と怒鳴ったりする必要はありません。ただ淡々と、いつ、誰が、何を、どのように行ったのか、誰が何と言い、それがどういう発言に結び付いて結局何が起こったのか、そしてどうなったのか、そういったことを延々と聞いて書き留めていくのです。一連のストーリーが、聞いている私たちの脳裏にまざまざと映像として浮かび、「ああそういうことなら、確かに起こりえるな」と納得できるまで煮詰めていくのです。

 それは客観的な立場にいる私たちが事態を理解するプロセスであるとともに、主観的な言い訳をたくさん持っている加害者たちが、自分の行為を客観的なものに組み替えるプロセスでもあるのです。別な言い方をすれば、自分たちの行為を映像のように見ることで、己の罪深さを思い知る過程ともいえます。

 原因を聞いてはいけません。そこには山ほどの言い訳や説明があるからです。また“加害者”が複数いる場合は人数分の教員を用意して、同時並行で指導しなくてはなりません。せっかく一人を「思い知らせて」も、他がそのまま変化していなければあっという間に戻されてしまうからです。それに、指導は時間がかかりますから、担任一人ひとりやっていたのでは、あっという間に一週間二週間は過ぎてしまいます。それでは遅すぎます。
 
 いじめ問題はじっくり時間をかけ、丁寧に取り扱うべき課題ではありません。
短時間に大量の人間とエネルギーを投入し、一気呵成に解決してしまうべきテーマです。そうしないと必ず長引き、修復不能に陥ります。

                                 (この稿はこれで終わります)

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2013/5/13

「人権教育旬間」D 〜問題への取り組み@  教育・学校・教師


 いじめ問題において加害者があれほどまでに残酷になれるのは、いじめる側に被害者意識がある(攻撃を受けた、いやなことを言われた、仕事を押しつけられた、足を引っ張られた・・・)からだ、というのが先週の話の最後でした。
 いやな思いをさせられて傷ついた心は、「相手も同じように傷つくべきだ」という意識を生み出す、暴力は悪いことだとわかっているが、口で言ってもわからない、何度言っても改善が見られないとなれば、多少の暴力やいやがらせも仕方ないと思い始める、そんな話です。

 被害者意識はまさに“意識”ですから、金銭や時間のように定量的にはかることはできません。したがって被害の大きさは極めて主観的なものになります。たとえば「挨拶をしたのに無視されたのでみんなで押しかけて殴った」といった事件は、客観的には罪と罰が著しく不均衡ですが、主観的にはイーブンなのです。そのくらい、加害者の受けた傷は大きかったのです。

「いじめで、いじめられる側にも責任があるという人もいるがそんなことはない。いじめは100%いじめる方が悪い」そんな言い方があります。
 たしかに“いじめ事件”を解決しようとしている最中に「いじめられる側にも責任がある(だから直せ、あるいは容赦しろ)」と言ったのでは、被害者に気の毒ですし加害者には無用な支持を与えることになりかねません。
 しかし人間関係において100対0で一方だけが悪いというケースはそうはありません。通り魔殺人や交通事故ではないのです。文科省の“いじめの定義”が「一定の人間関係のある者から」と言っている以上、そこには100対0では済まない何かがあったはずです。

 盗人にも三分の理と言いますが加害者にもそれなりの理屈があり、極めて主観的で身勝手なものであるにしろ彼らは“(彼らなりの)正義”に則って行ったのかもしれない―そうした可能性を無視した指導は、指導でなくなる危険性があります。
 加害者の心の中にある“正義”を見つめ、その中から被害者意識をあぶり出して最終的には治療する、そうした過程ないといじめ問題の最終的な解決はないのです。


 いったん始まったいじめは解決するのが非常に困難です。割って入ろうとすると必ず被害者側と見られて身動きできなくなってしまいます。したがっていじめを始めさせないことが最重要となりますが、その際のポイントが「被害者意識を持ちやすい児童生徒の指導」ということになります。恵まれない子の指導と言い換えても同じです。

 学校によく順応し、生き生きと前向きに生きる子がいじめの加害者になることはありません。そもそも学業やスポーツに忙しく、そんなことをしている暇もないのです。いじめをする子は皆、恵まれない子です。自業自得の場合があるにしても、まだ子どもですからそうした事実を受け入れだけの力はまだありません。

 したがって私たちはそうした子どもの不幸に心を寄せ、そうであるにもかかわらず別の子の不幸も背負って歩けることを教えなくてはなりません。攻撃を受けたり嫌なことを言われたり仕事を押し付けられたりしても、平気で笑って対応できる子に育てなくてはならないのです。人生は楽しくかけがえのないものであって、生きるに値する、そうしたことを教えるのです。
 それがうまく行けば、クラスにいじめ事件が起こる余地はなくなります。

 しかしそれにもかかわらず指導がうまく行かず、あるいは指導が完結する前に、重大ないじめ事件が発生してしまう場合があります。その時はどうすればよいのか。
 それが次のテーマです。
                                     (この稿、続きます)
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2013/5/10

「人権教育旬間」C 〜被害者意識  教育・学校・教師


 1994(平成6)年に起った通称「愛知・大河内清輝君いじめ自殺事件」では、清輝君自身がかなり長い遺書を残しています。その一部。

 何で奴らのいいなりになったか?それは川でのできごとがきっかけ。川につれていかれて、何をするかと思ったら、いきなり、顔をドボン。とても苦しいので、手をギュッとひねった。助けをあげたら、また、ドボン。こんなことが4回ぐらいあった。特にひどかったのが矢作川。深い所は水深5〜6mはありそう。図1(※略)みたいになっている。ここでAにつれていかれて、おぼれさせられて矢印の方向へ泳いで逃げたら、足をつかまれてまた、ドボン。しかも足がつかないから、とても恐怖をかんじた。それ以来、残念でしたが、いいなりになりました。

 いじめ自殺と呼ばれる事件の記事やルポルタージュを読んでいて、常に不思議なのは子どもたちはなぜこうも残酷になれるのか、という点です。相手はハエやカではないのです。猫やウサギでもこんな仕打ちはできないのが普通です。それを中学2年にもなった人間が、人間に対してできるのです。これが正常な人間のすることなのでしょうか?

 これについてもっとも納得できる説明をしてくれたのは、高垣忠一郎『登校拒否・不登校をめぐって』(青木書店、1991)でした。

「しかし高学年にもなってくれば、自己客観視に必要な認識面での能力は、それなりに発達してきているはずであり、それができないとなれば、自己客観視を困難にする他の要因を考えねばならない。そのような要因の一つとして考えられるのは、被害者意識である。いじめる側の心のすみにでも被害者意識があれば、それが邪魔をして、自己の加害者としての立場に気づかせないことが往々にしてある」

 大河内君の事件では加害者側の発言がほとんど採集されていないので分かりませんが、「葬式ごっこ」の鹿川君の場合は分かります。加害者の中の被害者意識は鹿川君が不良グループから足抜けしようとしたこと、そして彼のお父さんが加害者宅に怒鳴り込んできたことによって膨張します。いずれも被害者サイドから見れば当然のことですが、加害者は傷ついたのです。
 楽しいときは一緒に過ごしながら、いざとなると“良い子”に戻るのは許しがたい裏切りです。

 いわゆる「グズ」や「のろま」が標的にされるのは、彼らが学校の集団活動においてしばしば後の加害者たちに迷惑をかけるからです。この人たちと同じ委員会になったり係になったりすると大変なのです。人と違った子、集団生活から外れてしまう子もおなじで、集団の統一性を守るための努力を惜しみ、自分だけが楽をしようとしています(と、加害者たちは考える)。

 誰かから直接的な被害を受けた(攻撃を受けた、いやなことを言われた、仕事を押しつけられた、足を引っ張られた・・・)といった思いは、「相手も同じように傷つくべきだ」という意識を生み出します。もちろん暴力は悪いことですが、口で言ってもわからない何度言っても改善が見られないとなれば、多少の暴力やいやがらせも仕方ないと思い始めます。

 こうした事情を背景として、「自分は被害者だ」と意識する子たちの中から、あるいはその子の痛みを代弁する形で、加害者は現われてくるのです。もちろんその被害者意識はわがままで歪んだものなのですが。
                                   (この稿、来週も続きます)
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2013/5/9

「人権教育旬間」B〜分類  教育・学校・教師


 1999(平成11)年に起ったいわゆる「名古屋中学生5000万円恐喝事件」は、事件が報道されている間じゅういじめ問題として扱われていました。その後加害者たちが逮捕され、少年院送致や保護観察になってようやく「恐喝事件」として定着しました。処分の理由がそれだったからです。

 しかしこれはどう見ても最初から暴行・恐喝事件でしょう。被害者と加害者は最初から「被害者―加害者」で、それ以外の関係はありませんでした。被害者が蹴られたり殴られたりしたのはそうすれば無尽蔵にお金を吐き出すからで、その点では分かりやすい犯罪です。いわゆる「いじめ問題」の難しさはありません。 しかしこうした犯罪も、一般にはいじめ問題とされることが多いのでこれも一つの類型としておきます。

 第2の類型は「ドラえもん」に出てくるジャイアンのようないじめです。なんでも自分に従わせようとする強烈な個性によって行われ、被害者の代表はスネ夫です。
 スネ夫が常にジャイアンにくっついているように、両者には強い人間関係があり、ある時期まで被害者にも利益を与えます。ジャイアンのパワーが利用できるからです。しかしそれと引き換えに差し出すもの(たとえばパシリ行為)が苦痛になると、被害者によって「いじめ」と意識されるようになります。また、客観的には本人が意識するずっと以前から、それは「いじめ」です。

「いじめ=自殺」と呼ばれる事件のいくつかは、この第二の類型に始まって第一の類型に移行したものです。被害者の差し出すものが金で、その金の工面ができなくなったり、いくら渡しても展望が開けないと思い知ると切羽詰ります。学級から浮き上がった小グループの中で行われることが多いので、周囲に気づかれない場合も少なくありません。

 3番目に“嫉妬に起因する「いじめ」”があり、しばしば物隠しや物壊しとして始まります。
 陰でこそこそと行われるのは加害者(もしくは加害グループ)の方が全体の中で弱い立場にあるからです。もちろん時間の経過とともに勢力図が変わり、加害者の方が多数派になればもっと大っぴらなものになりますから要注意ですが、物隠しや物壊しは活動の内容がそれ以上に広がらないのが普通です。

 4つ目の類型は、通常の人間関係のトラブルさえも「いじめ」としか意識できない子が訴える「いじめ」です。「バカ」と言われた、無視された、仲間はずれにされた、「こっちに来るな」と言われた・・・いずれもよいことではありませんが、かつては自力で克服すべきものでした。事象の一つひとつを解決することを通して、人間関係スキルを高める―そのための課題だと考えられていたものです。
 別の意味で厄介ですが、起きている事象自体は大したことはありません。

 そして最後に、時にはクラス全体を巻き込み、執拗に繰り返される、私たちがうまく説明できないいじめが残ります。

                                       (この稿、続きます)

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2013/5/8

「人権教育旬間」A 〜いじめの研究   教育・学校・教師


 学校における最大の人権問題は「いじめ」だ、そう言っても異論は少ないでしょう。ここに何らかの光明を見出せば、人権教育は大いに進むことになります。
 しかしそれが難しい。なぜならこれまで、「いじめ」がきちんと研究されることはなかったからです。

 たとえば平成18年度に文科省から出された「『児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査』の見直しについて」には、
「いじめられた児童生徒の立場に立って、より実態に即して把握できるよう、いじめの定義を見直す」
とあり、最初から公正あるいは客観的な判断はしない方向で「いじめ」の定義も変えてしまおうと宣言しています。実際その後の「児童生徒の問題行動等〜(中略)〜調査」では
「個々の行為が『いじめ』に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする」
となっており、被害者の側にバイアスをかけて判断するよう求めています。しかしそれでは研究になりません。

 さらに社会的な注目を引きやすいため、「いじめ」がむやみに多用される傾向があって分析の邪魔をします。
 たとえば「名古屋5000万円恐喝事件」(1999)も「中野富士見中学校いじめ自殺事件」(1986)も同じ「いじめ」で繰られますが、性質はまったく異なります。それを同じテーブルに載せるから話が分からなくなるのです。

 第3に、私たちが「いじめ」事件の時系列での変化に対して、あまりにも鈍感だったということです。
 たとえば「中野富士見中学校いじめ自殺事件(通称「葬式ごっこ自殺事件」)」は、クラスメイトばかりでなく他の教室の人間や教師まで加わって一人をいじめるという、大掛かりでどこにも救いのない事件でした。しかし被害者の鹿川君はある日突然そういう状況に陥ったわけではありません。
 そこに至るにはさまざまに紆余曲折があり、加害者にも鹿川君にも心の変化がありました。それを加味しないで事態の最終局面だけで判断すると、被害者は無辜の善人で加害者は極悪人ということになります。しかしそんなはずはありません。

 そういえば「温泉ガエル」という話がありました。ビーカーの熱いお湯の中に投げ込まれたカエルは慌てて飛び出すが、水からゆっくり温められたカエルは危険を感じることもなくいつか死んでしまうというあの話です(本当にそうなるとは思えないのですが)。鹿川君も加害者も周囲の人々も、事態がそういう方向に進んでいるとは夢にも思わなかったのです。しかしある日気づくと、彼らは互いにのっぴきならないところにまで来てしまっていました。おそらくそういうことです。

「いじめ」は分析されなければなりません。ただ「加害者が100%悪い」「学校の隠ぺい体質」と言いたてていても何の解決にもなりません。

 湯川准教授のセリフを借りれば「現象には必ず理由がある」のです。それを分析しなければ何の対応策もとれないのです。
                                      (この稿、なおも続きます)





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