2013/5/31

「教員不祥事の陰に」  教育・学校・教師


「先生たち、いったい何やってるわけ?」
 先日、友だちと酒を飲んでいる最中にいきなり出てきた話です。最近起こった不祥事に関するものです。そこからしばらく言い争いみたいになって、しかし多勢に無勢、うまく反撃ができないまま家に帰って、酔いが醒めるにしたがってフツフツと怒りがわき上がって来ました。友人に対してではありません。うまく対応できなかった自分自身に対してです。
 友だち同士だからと言って気を抜かず、いつでも戦闘モードに入れるようアルコールの量を調節しておけばよかった・・・。

 なぜこれほど騒がれているにもかかわらず教員不祥事はなくならないのか。他の職業に比べてはるかに高い道徳性を求められているにもかかわらずなぜこうも不道徳な行いを繰り返すのか・・・そこから社会の人々は「教員の質」の低下という仮説を立てます。そして研修や社会経験の必要性を声高に叫びます。しかし本当に「教員の質」は低下したのか、低下したとしてその原因は何かといった話はいっこうに進みません。

 一方、教育委員会や校長会のように、学校がどれほどの研修を重ね処分の厳格化・厳正化を推し進めているかを知っている人々は「個人の自覚」に答えを求めようとします。これほど処分を厳しくし、不祥事を起こすなと言っているのにそれでも起こるのは、教師に自覚がないからだ・・・と。
 しかし私は両方とも間違っていると思います。理由がないからです。

 学校における課題の増加率が教員の能力向上をはるかに上回ることによる相対的低下、というのはあるかもしれませんが、基本的な意味での「質の低下」は問題になりません。日本の教育は近代教育だけでも150年の歴史があります。歴史を積み上げるたびに低下する能力というものはありません。また平成不況以降に採用された教員たちは30倍にもならんとする競争率を勝ち抜いたエリートたちです。これで「質の低下」なら何をやってもだめです。

「個人の自覚」もすべてを説明することはできません。確かに自覚の薄い教員によるものもありますが、実際の不祥事の大部分は“普通”あるいはむしろ“優秀と言われる”教員によって引き起こされているのです。

 例えば、昨年起った校長先生による痴漢行為などはその年齢や地位を考えても、あるいは「職を失い退職金を失いキャリアを無駄にして人間関係までなくしてしまう」という結果の重大性を考えても、「自覚が薄い」ではとても説明できるものではありません。本来そうした性向を持っていたならなぜ還暦近くなって初めて発現したのか、なぜそんなことが可能だと思ったのか、何か別な方法で代用するという訳にはいかなかったのか・・・。

 そこで考えられるのは「自分でもなぜあんなことをしたのかわからない」といった判断力の低下、裁判でも酌量されないレベルの心神耗弱です。

「心神喪失等の状態で重大な他害行為(殺人・放火・傷害致死・強盗等)を行った者の障害別内訳(平成9〜13)」によると、統合失調症が64%、そううつ病が8%、アルコール中毒6・2%、覚せい剤中毒3・1%となっています。

 2011年度に精神疾患で休職した教員は全国で5274人。休職に至らないまでも通院中だったり療休を繰り返し取ったりしている教員はその何倍もいます。
 さらにそこまで行かないが心に問題を抱え、本人も気づいていない―そんなケースはいくらでもあると思うのですが。



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2013/5/30

「グローバル社会の行方」  教育・学校・教師


 先日の「クローズアップ現代」で「租税回避」という話をやっていました。グローバル企業が払うべき法人税を払っていないという話です。

 例えばイギリスのスターバックスはオランダにある本社に多額のフランチャイズ料を支払い、スイスの関連会社にコーヒー豆の代金として破格の送金をします。その結果、イギリスのスターバックスは赤字企業となり、税金を払えなくなります。
 一方オランダやスイスでは正当な法人税を払いますが、この両国は法人税が破格に安い、いわゆる“タックス・ヘイブン”なのです。したがってスターバックス全体では“節税”となり、イギリスから見れば“租税回避”となります。
 しかし(イギリスの)スターバックスは税金は払わないものの道路・鉄道といったインフラは利用しますし、行政サービスも受けます。そこが問題とされる点です(ちなみに日本のスターバックスは別会社で、毎年日本政府に100億円あまりの税金を払っているそうです)。
 これは違法ではないそうです。しかし遵法というにはあまりにも身勝手で他を顧みないやり方といえます。


 かつてホリエモンや村上世彰がシャバで鼻息を荒くしていた時代、「会社はだれのものか」という議論が起こされました。社員のものか株主のものか、という意味です。
 当時の新鋭の企業家たちの考えからすれば、会社は株主のものであり、株主に1円でも多くの配当金を渡すのが企業トップの責務ということになります。すると会社の進む方向は非常にはっきりしてきます。
 原材料費や賃金、税金が限りなく安い場所で生産し、できるだけ高く売れるところで売るのです。もちろんその三つ(原材料費・賃金・税金)がすべてそろう国や地域はそうはありませんから、必要に応じて分け、あるいはつなげます。本社をケイマン諸島(最上級のタックス・ヘイブン)に置き、労働力の安いインドやミャンマーに工場を置く、原材料は世界各地から調達し製品は中国や日本やアメリカ合衆国で売る。ただしインド・ミャンマーには十分なインフラがありませんから日本政府を動かし、大量の円借款でそれらのインフラ整備を行う、それが理想的な企業のあるべき姿です。
 ただしそこには日本の姿はありません。

 国に一銭の税金も支払わず雇用も生み出さず、しかし世界企業としてどんどん規模を拡大するグローバル企業―しかし資本主義の論理からすれば、それがもっとも洗練された企業の姿なのです。

「これからの教育は『国際的に活躍できる人材育成』を目指して行われるべきだ」という話がありますが、高い税金を使って育てたこのような人材が、日本国のために働いてくれる保証はどこにもありません。その子はもしかしたら国家ではなく企業に忠誠を誓う人間になるのかもしれないからです。

 これではいったい何のための教育なのか・・・。
 教育を行う者として、心の隅の留めておきたいことです。
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2013/5/29

「天才親の世界」  親子・家族


 子どもが小さなころ、土曜日にピアノ教室とスイミングスクールに連れて行くのは私の仕事でした。子どもがピアノ練習をしている間は車の中で本を読み、水泳の間は観覧室兼待合室で同じように待っている他のお母さんたちの会話に、耳をダンボにして傾けるのが楽しみでした。

「ウチの子はどうせ大学へは行かないだろうし・・・」.といったところから始まる会話は、とりあえず「大学へ行かない我が子の人生」というものを考えたこともない私には、とても新鮮でした。

 ただし聞きながら「これは危険だな」と思うことが幾たびもありました。例えば、
「大丈夫よォ、○○ちゃんだもの。ウチの子だって何度も学校に行くのを嫌がったけど、結局休み続ける勇気なんかなくて学校に通ってるんだから」
「心配なんかいらないわよ。私なんか何にもしないけど子どもは普通に育っているモン」
 
 勇気がなかったから不登校にならなかったというのは単なる仮説です。「何にもしなかった」と言ってもそれは「母親が何もしなかった」だけで、父親や祖父母が必死でがんばった成果なのかもしれません。

 さらに言えば本当に「何もしない」ように見えて、実は大変なことを成しとげている親もいたりするのです。天才と言ってもいいほど「親業」の向いている人たちです。

 K・陽子ちゃんという女の子は中学生なのに保育園児のように無垢で、頭が良く、きちんとした所作振る舞いのできる子でした。どんな素晴らしいお母さんに育てられているのかと意識的に見ていたのですが、これが何と本当に口うるさい。
「親が口うるさく言いすぎると子どもがだめになる」という時の親の見本にしたいような人です。

 しかし2年、3年と付き合ううちに、この母親に一つの発見をします。口うるさいと言ってもいつも2〜3種類のことしか言っていないのです。常に躾ける項目は二つか三つ、それが達成されると次の二つか三つ・・・。そうしたことが自然のできるところが天才です。よい子が育ちます。


 別の話をしましょう。

 まだ土曜日の授業のあった時代のことです。ある月曜に提出された男の子の日記に、母親がびっちりと細かな書き込みをしてありました。
「先週の土曜日は体の調子が悪く、済まないと思ったのですが子どもにお金を持たせ、コンビニで弁当を買って学校に持って行かせました。そうしたら帰ってきた息子がプリプリ怒っていて、『あんな弁当持って来たのはボク一人だった』と言います。ああ、やっぱり―」

「ああ、やっぱり」のあとは当然「無理をしても作ってあげればよかった」、そう書いてあると思ったのですが、何とそこにあったのはまったく別の言葉でした。

「ああ、やっぱり男の子でもお弁当のつくり方を教えておけばよかった」

 私は心の中でジャンプしそうになりました。“自立的な子どもを育てる親はこんなふうに考えるのだ!” 相手が小学生なら無理しても作ってやるべきでしょうが、中学生の親ならこう考えなくてはなりません。

 若い母親同士が情報を交換し合い支えあうのは大切なことです。
 しかし「何もしなかった」「大したことはしてない」といった言葉を迂闊に信じてはいけません。世の中には親として天才的な人がいくらでもいて、本人は「何もしなかった」つもりでも、実に鮮やかな子育てをしている場合があるのです。
 あの人たちが何もしていないように見えるからといって、あなたまで何もしないでいいわけがありません。凡才は必死に頑張らないといい子は育たなのです。

 子どもが危機状態だというのにあまりにものんびりしている親がいたりすると、そんなふうに言ってやりたくなることがあります。もちろん実際には言ったりしませんが。


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2013/5/28

「日本ダービー」〜競馬の話  知識


 日本ダービー、終わってみればやはりキズナか、というレースでした。

 ただし最終コーナーを回ったところで18頭中後ろから三番目、一時はテレビカメラのフレームからも消えてしまったキズナが、そこからグングン伸びて最後は一着という圧巻のレースで、テレビの前の私まで興奮して快哉を叫んでいました。馬券を買った人たちには痺れるようなものだったに違いありません。
 ・・・と知ったかぶってみましたが実は私まったくの素人で、競馬ファンでも馬に詳しいわけでもありません。キヅナの名前もレース直前に初めて知たようなものです。
 もっとも昔、友人に熱烈な競馬ファンがいてしょっちゅう講釈を聞かされていましたので、何も知らないという訳でもありません(学生時代、その友人の強力な推薦で日本ダービーのハイセイコーを買ったのが、最初で最後の競馬経験です)。

 すべての勝負事には確定勝負と不確定勝負という二つの側面があります。
 確定勝負というのは実力差がある場合強い者が必ず勝つもの。将棋や碁がそれにあたり、ある意味すべての競技スポーツは確定勝負だという言い方もできます。私がどう転んでも相撲で白鳳に勝つことはありませんしダルビッシュの球を打ち返すことはできません。したがって確定勝負では力が拮抗する者同士でしか対戦ができません。

 それに対して不確定勝負は、例えば二個のサイを使って “丁”か“半”を問うサイコロ賭博のように、すべてが偶然(そう言って悪ければ“運”)にゆだねられます。素人もプロも同条件です。そもそも実力差というものが生じません。
 ただし普通、多くの勝負は確定・不確定の両方の要素を持っています。例えば麻雀やパチンコは幸運が重なれば素人にも勝ち続けるチャンスが生まれます。確定・不確定の二つの要素がうまく配分されていて、だから廃れないのです。

 競馬もその配分が実に巧妙です。
 何と言っても血統が最優先でエリートは常に強い。しかし必ず勝つとは限らない。なぜ勝つとは限らないかというと、競走馬にはそれぞれ非常に強い個性があり、個性と個性のぶつかり合い、組み合わせの中からさまざまな状況が生まれるからです。

 距離は重要な条件です。長い距離は苦手という馬もいれば大好きだという馬もいます。芝コースが好きな馬もダートが好きな馬もいます。雨でぬかるんだコースが好きな馬もまったくダメな馬もそれぞれいるのです。
 “一番でなくちゃダメなんです。二番ではダメなんです”という馬がいます。こういう馬は他に抜かれた瞬間に意欲を失ってしまいます。前の馬の跳ね上げる土を被ったらおしまいという馬もいれば、集団で走ること自体が嫌いな馬もいます。力を溜めておいて最後に発揮すれば爆発的な力を生み出すのに、いつも闘争心に駆られて最初から突っ走ってしまう馬もいます。

 馬券を買う人たちはそうした条件の一つひとつを検討し、その日その時の馬場の状態や気候、対戦相手の様子などを加味しながら資金を投入します。騎手たちもその日のコースの条件を加味しながら、馬の性格を考え、レースを組み立てます。

 一昨日もキズナに乗る武豊はレース序盤で前に行こうとする馬を押さえ(キズナを手綱で押さえ)、いったん後方に下げてから最終コーナーを過ぎたところで勝負をかけます。たぶん、終始心の中で馬に語りかけながら走っていたはずです。「行くな、下がれ、我慢しろ、今は時じゃない、行くな、行くな、行くな・・・」。そうして第4コーナーを回ってからは「行け! 行け! 行け! 行け! 行け・・・!」


 生徒を馬に例えてはいけませんが、私はしばしば生徒がわがままで頑固な競走馬、そして私がそのジョッキーといった思いにはまり込むことがあります。特に生徒指導上の問題が発生したときは、心の中で「行くな、行くな」「行け!行け!」と常に叫んでいるのです。

 ただしもちろん、そんなふうに一対一の気持ちで一人の生徒に向かい合う時間は、それほど長くはありません。それが残念なところです。



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2013/5/27

「職員研修の日」  教育・学校・教師




 子どもはお休み。

 先生たちは一日お勉強です。


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2013/5/24

「小学校英語の教科化という愚行」A  教育・学校・教師


 中高6年間も勉強しながら日常会話もできない日本の英語教育は間違っているという言い方があります。しかしこれは二重に間違っています。

 まず、英語は日常会話こそ難しい、ということが分かっていません。
 私はかつて○○空港の管制官と話したことがあります。
「英語たいへんでしょう」
というと一言、
「難しくはありません。話すことは決まっていますから。それだけを言えるようになればいいのです」
 なるほどと思いました。

 元「赤い鳥」のメンバーでのちにアメリカのバークリー音楽大学に留学した渡辺俊幸(洗足学園音楽大学教授)も、音楽大学の講義にはついていけても日常会話はついにできなかったと語っています。イチローの活躍からips細胞まで広がる日常の会話に熟達するのは、それぞれの業界で話ができることよりもはるかに難しいのです。

 第二に「中高6年間も勉強しながら〜できない」ことが問題なら、算数・数学の方がはるかに深刻だという視点がありません。私など小中高と12年間も勉強しながら、今や微分も積分もできないのです。それどころか中2・中3レベルの数学だって怪しい。
 理科となればさらにダメで、小学生レベルでも“落ち”はありそうです。
 ただし文系科目は強く、国語は十分にたちうちできそうです。漢字検定2級も持っていますから60〜70点は堅いでしょう。もちろん古文漢文で減点されることも含めてです。社会科は中3レベルまでほぼ完ぺきです。

 しかしこれをもって日本の学校教育は理数がダメで国社がすごいということにはなりません。私が今も国語に自信があるのは学校教育のおかげではなく、今日までずっと使い続けてきたからです。社会科の教員ですから社会科はいつも身近でした。しかし微分や積分、摩擦係数・化学式といったものは、大学入試が終わるとまったく使わなくなってしまいました。必要なかったからです。英語もまた似たような経過をたどっています。

 外国語に堪能な国というのは実は3種類しかありません。

 まず最初は、成熟した工業国でしかも国内市場の極端に小さな国。フィンランドを始めとするヨーロッパの多くの小国が入ります。
 国内市場が狭いので商売はどうしても外国相手となります。必然的に外国語の習得が必要です。国内市場が狭いということは翻訳本や映画の吹き替えが商業ベースに乗りにくいということにもなります。したがって読みたい本を読むために、あるいは字幕を読む煩わしさに苦しむことなく映画を楽しむために、外国語を学ぼうという人は自然に増えます。実際のところ、大学で使うテキストのほとんどが外国語となれば、高等教育を受けたい人は勉強するしかありません。

 外国語に堪能な第二の例は多民族国家です。
 極端な例はネパールで、この国は谷ごとに言語がありますから普通の人でも七種類ほどの言葉を平気で使い分けます。もちろん同じ意味の言葉を7種類ずつ覚えるわけですから言語的深まりは期待できません。おそらくネパール文学というのは非常に困難でしょう。同じことは五つの公用語(ドイツ語・フランス語、イタリア語・ロマンシュ語・ラテン語)を持つスイスにも言えます。

 三番目は、かつての植民地のうち、単一言語を持たない国です。インドやフィリピンがこれにあたります。
 インドにはヒンディー語、フィリピンにはタガログ語がありますが、ともに多数派というだけで国民全員が使える言葉ではありません。韓国・北朝鮮のような統一言語を持つ国は、外国語を強制されても植民地支配が終わると同時に元の姿に戻ってしまいます。

 日本は、以上三種類のどれにも当てはまりません。

 どれほど学校教育に力を注ぎ日本人の英語力を高めたとしても、卒業後の社会に英語の必要性がなければ、その力はあっという間に失われてしまいます。ですからどうしても高い英語力を持たせたいなら、日本を英語ができなければ生きにくい社会にするしかありません。

 映画やDVDの吹き替え版などもってのほかです。テレビの洋画劇場も字幕スーパーで十分です。「ハリー・ポッター」シリーズのようなベストセラーも、英語版しかないとなればファンは必死で復習し続けます。楽天のように有名企業のすべてで英語を社内公用語としてしまうとか、官公庁の手続きを英語に統一するとか、そうすればこの国は「英語名人」ばかりが住まう国になります。

 しかしその時日本人は、果たして幸せになっているでしょうか。


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