2013/4/30

「666」  教育・学校・教師


 ふと上を見たら、デイ・バイ・デイも666号になりました。長く続いたものです。
 *注(ブログで読んでくださっている方々に)ペーパーベースの「デイ・バイ・デイ」の(現在の学校に来てからの)通し番号が666です。ちなみにブログの方は昨日20万アクセスを越えました。ありがとうございます。

 666は悪魔の数字です。なぜ悪魔の数字かと言うと聖書にそう書いてあるからです。

「ここに知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは人間をさすものである。そしてその数字は666である」(『新約聖書』の『ヨハネの黙示録』13章18節)

 オカルト映画「オーメン」では悪魔の子ダミアンの頭の中に666と読めるアザがありました。故ドナルド・レーガン大統領は転居した際、番地が666だったため職権を乱用して668に改めさせたという話があります。またアメリカでは2006年6月6日生まれの子は有意に少ないといいます。誕生日を移したということです。

「黙示録(もくしろく)」は文字通り“黙して示した(=内容が明示されない)予言の書”です。ですから、極めて暗示に富んだ表現が延々と続きます。

 それから、大きな声が聖所から出て、七人の御使にむかい、「さあ行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に傾けよ」と言うのを聞いた。そして、第一の者が出て行って、その鉢を地に傾けた。すると、獣の刻印を持つ人々と、その像を拝む人々とのからだにひどい悪性のでき物ができた。

 こういった文章、好きな人は好きでしょうがダメな人はまったくダメです。ただ、我慢して読んでいくと、どうやら神の陣営と悪魔の陣営が最終戦争をこの地球で戦い、最後に神の陣営が勝利して地上に千年王国を築く・・・とそんな内容になっていることが分かります。いわゆるハルマゲドンの話です。
 私はキリスト教徒ではないのでハルマゲドンを信じませんし、そもそもいずれの神に対する信仰も持ち合わせてはいません。しかし神を信じ、神の国の再興を信じ、その日のために黙々と働く人は尊重したいと思います。

 最近はあまり評判になりませんが、一時期、校歌や国歌を歌わず、柔道などの格闘技を拒否する一群の子どもたちが問題になったことがあります(一番困ったのは輸血拒否でした)。学校という枠の中で考えると“困った子たち”でしたが、その生き方・生活の仕方は大人の私から見ても感心するほど立派なものでした。

 冬季オリンピックの開かれたアメリカのソートレークには、キリスト教の別のグループの本部がありますが、そこの大型コンピュータには世界中の人間の記録が入っているそうです。来るべきハルマゲドンの日に、神に渡す名簿が必要だからだと言います(どこまで本当の話かわかりませんが)。
 その宗派に帰依する友人がいましたが、酒やたばこを嗜まないのはいいにしても、お茶もコーヒーも飲まず、生活のすべてが清廉潔白で、悪い盛りの私にはついていけない感じがありました。しかし尊敬できる人物だといつも思っていました。

 こういう人たちを見ていると、人間にはやはり信仰が必要なのだと心から思わざるを得ません。道徳とか倫理といったものではなく、まさに“信仰”でしか成しえないものがあるように思うのです。

*666についてのもっとも定評のある説明は次のようなものです。
 ギリシャ語で皇帝ネロをあらわす文字をヘブル語で書き表す。ギリシャ文字が「α=1」「β=2」と置き換えられるようにヘブル語も数字に対置できるので皇帝ネロを表すへブル文字をすべて数字に変換し、それを全部足すと666になる。したがって666とは皇帝ネロのことであり、それが黙示録の謎解きの答えである。

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2013/4/26

「デイ・バイ・デイのこと」B  


 なぜ書くのかというと、もちろん私自身の表現欲が主因です。

 私にはたくさんの“知っていること”があるのです。そしてその“知っていること”の大半は先輩教員から学んだことであり、その先輩もさらに先人から学んだものです。

 げた箱の靴の揃え方、静かに清掃をさせる方法、保護者懇談会の席の配置、家庭訪問の心得、なぜ小学校では並んで教室移動をするのか、避難訓練が100点満点でなければならないのはなぜか、学校で公平公平と平等原則ばかりが優先さえるのはなぜか・・・。

 日本の教育は明治以来の近代教育だけでも150年近い歴史があります。その中で得たものは非常に大きいのです。先輩たちや歴史から得たものをきちんと伝えずに済ますのは本当にもったいない。それはぜひ広く伝えていきたい。私の欲求の核心はそこにあります。

 もう一つは教育動向です。
 私は社会科の教員ですから新聞もよく読みますしテレビのニュースも見ます。しかしそれにもバイアスがかかっていて歴史や政治経済・地理―つまり授業に使える記事は熱心に見ても、それ以外の問題には気が回りません。教員である以上、当然教育行政についてもしっかり見ておかなければならなかったのですが、とてもではありませんが手が伸びなかったのです。

 学校五日制は突然天から降ってきたようなもので、その影響は実際動き出すまで全く分かりませんでした。ゆとり教育批判の中で言われた「円周率が3の授業」とか「みんなで手を繋いでゴールインのかけっこ」といったとんでもないヨタ話も、盛んに語られた当の時期には検証ができなかったのです。

 本当は政府や世論が学校をどの方向に進めて行こうとしているか、しっかりと見ておかなければならなかったのです。学校に対する誤解や不審はいちいちこれに応え、誹謗中傷に対しても戦いを続けなければならなかった、しかしとにかく若いころは日々に忙しく、大局的なことを考えている時間がありませんでした。それでホゾを噛みました。
 この間、学校は押される一方です。保護者の素朴な問いにも答えられず、そのために不信感をさらに深めたりしてきました。

 政治や世論が学校教育をどういう方向に進めようとしているか、それをしっかり把握したうえで保護者や社会に学校を説明していく、それが今日の教員に求められる大きな力です。その仕事にはたくさんのベテランがかかわる必要があります。その一人でありたい。そして少しでも仕事を果たし、若い先生たちに伝えていきたい―それが二つ目の理由です。

 三つ目に、その日その時、私が感心したり喜んだりしたことワクワクしたことを、子どもたちに伝えたい、それが理由です。

 もちろんそのためには先生方のお力を借りないわけにはいきません。ズカズカと他人の教室に入り込んで勝手に話をしたところで、果たせるのは一クラスだけです。けれどもしその日、私と同じように記事に感心して、「これ、教室で話そう」と思われる先生が二人いたら、二クラスで共有できます。三人いたら3倍です

「今日は何の日」的なことや歳時、豆知識のようなことを書くのはそのためです。


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2013/4/25

「デイ・バイ・デイのこと」A  


 毎日どんなふうに書いているかというと、こうです。

 何を書くかということは常に考えていますが、文を組み立てるのはたいてい帰りの車の中です。運転に集中すべきですが何も考えずに運転を続けることもできません。大雑把な構成を考えるのに、ちょうどいい時間なのです。

 速いときも遅いときもありますが、学校を出てすぐにできあがってしまうのは鬼門です。そのあと走っているうちに忘れてしまうからです。それで何度ホゾをかんだことか。
 そこでここ数年は早すぎる場合は車を停め、携帯のボイスレコーダに吹き込むようにしています。これだと安心して忘れられます。

 ところがさらに調子が良くて車を停める場所を見つける前に次のアイデアが浮かび、その構成をし終えたと思ったらまた次の文が思い立ち、そのまま家まで戻って・・・そして三つとも忘れてしまったということもありました。やはり一つひとつ押さえておくべきです。

 今話したのは“調子がいい”という例外的な場合であって、普段はそうもいきません。だいたい6割くらい固まればいい方で、最近は“何を書くか”さえ決まらないまま家についてしまうことが多くなっています。

 夕食を摂り、少し落ち着いてから風呂に入って、それからコンピュータに向かいます。400字詰め原稿用紙で4〜5枚分ですが、本当に速いときは20分程度で書きあがります。こういう時は、まず確実に良い文が書けています。何しろ猛スピードで書く文ですから猛スピードで読める文になります。それだけ読みやすい文だと言ってもいいでしょう。ところが時間をかけたときの文はそうはいきません。どうしてもねちっこくなります。内容が重複したり、表現がもたついたりします。

 さらに、私は風呂上がりにお酒を飲みながら書いていますので、時間をかければかけるほど酔いが進んで、最後はぐちゃぐちゃになってしまうのです。
 2時間もかけて酔いも限界に近づくと、書く方もままならなります。しかたがないので諦めて、続きを翌朝書くことにします。早起きなので朝も時間があるのです。

 それを登校前にメールで学校の自分のアドレスに送っておくのです(USBなど外部メモリは使ってはいけないので)。


「デイ・バイ・デイ」はブログ上では6年半にわたって書いたようになっていますが、ペーパー・ベースでは今年で9年目になります。
 その間に二度転勤していますので、3校で続けているわけです。

 同じ人間の書くことですから内容に繰り返しはあります。しかし使いまわしたことはありません。同じ内容でも書き直すと新しい発見があるからです。


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2013/4/24

「デイ・バイ・デイのこと」@  

(このあたりで一度、「デイ・バイ・デイ」そのものについてお話しをしておきたいと思います)

 30歳で教員になり、最初に持ったクラスがとんでもなく荒れてしまいました。
 そうなると周囲からたくさんのアドバイスが寄せられるのですが、なにしろ教職員が58人もいる大校なので、その数も半端ではありません。その全部をやろうとするからさらに学級はさらに荒れていきます。どんな価値あることも、自分で続けられることしかやってはならないのです。素晴らしいと思っても、自分には向かないものもたくさんあります。

 逆に、誰にでもできるもの―つまり私にもできるものもいくつかありました。そのひとつが「朝の会でよい話をする」です。美術の先生から教わりました。
「Tさんはいいよ社会科の教師だから。社会科で担任を持っていれば道徳と合わせて週6時間(当時)も授業ができる。これだと毎日じっくり生徒の顔を見ることができる。だけどオレなんか週一回2時間だけだぜ、道徳と合わせても週二日、3時間だけだ。こんなので学級経営なんかできるか?」

「うっかりすると美術(の教師)なんて自分のクラスに、朝行って、昼飯食って、帰りの会で話をしてそれで終わりになってしまう。おまけに生徒は、昼は昼食に夢中、帰りは部活に行くことで頭がいっぱい、話なんか聞いていない。だから朝の会がすべてなんだ。朝の会で何を話すかが決定的なんだ」

 私はけっこう素直な性質だったので以後ずっと、20年間にわたって毎朝「いい話」をすることだけを考えて学校に向かいました。苦しい日もありましたが、基本的に毎日必ずやるようにしていました。


 しかしそうした習慣も、学級を離れるとともに失いました。私はただ黙々と働く教員になってしまったのです。
 その年の終わり、校長先生が私を呼んでこんな話をされました。
「先生の仕事には満足していますが、学報には不満があります」
                           *学報・・・学年の連絡用通信
 それによると学報というのは大切な職員指導の場であり、その中で教員としての思いを伝え、学年を動かしていくものなのだそうです。

 それまで私の学報は日程だけを書いた白紙を置き、そこへ先生方に手書きで書いてもらっていたのです。あとはそのまま印刷するだけです。
 つくるのが簡単な上、先生によっては簡単なイラストを入れたりして、それなりにユニークで風情のあるものでした。それを全面的にワープロで打ち込むわけですから負担は増えます。しかし悪くない提案でした。何しろ20年も続けてきたことを丸一年もできなかったのですから。
 それが始まりです。学校に行くのも楽しみになりました。

 しかし活動の場をくださった校長先生の感じ方は、少し違っていたようです。一年ほどたったある日、学報に話が及ぶと一言ポツリ、こんなふうに言うのです。
「T先生の学報―、あれはもう病気ですな」
 私は腹の中でクスクス笑っただけでした。

 誰にも、一度として読めと言ったことはありません。単なる私の趣味、こだわりですから「病気」で十分です。
(しかし何が何でも一日も欠かさずに書かなければならないと考えるのは、やはり本物の「病気」なのかもしれません)


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2013/4/23

「ピーター・ラビットの話」   知識


 事情があって、今月からウサギが家にいます。
 ネザーランド・ドワーフというオランダに由来するカイウサギ。ドワーフというのは白雪姫や指輪物語に出てくる小人のことで、鉱山労働が主な仕事です。ネザーランド・ドアーフはアナウサギですし、ずんぐりむっくりした体型が似ているところからこの名があるのでしょう。

 ウサギですから鳴き声を上げませんし比較的匂いも少ないですから、家の中で飼うのに向いています。ただし頭が悪く、躾という点ではさっぱりうまく行きません。トイレットトレーニングがせいぜいで、他のことはさっぱり覚えられないのです。
 アナウサギですから狭いところを好みます。ものを噛む癖もあります。ということはテレビやコンピュータのラックの後ろに入り、コードを噛み千切ろうとしたがるということで危険極まりないのです。もう百万遍も叱ったのですが、30分と覚えていられません。
 特にウチのネザーランド・ドワーフがそうなのかもしれませんが、臆病で好奇心に欠けるところがあり、したがって散歩は嫌がります。狭いゲージの中にいてもさっぱり嫌がりません。

 このネザーランド・ドワーフを特に有名なウサギに仕立てたのはイギリスの作家ビアトリクス・ポターです。そう言っても誰なのか分からない人も多いでしょう。しかし「ピーターラビットのおはなし」シリーズの作者だと言えば誰でも分かります。ピーターラビットの一族がネザーランド・ドワーフなのです。

 私はピーターラビットには特別の思いがあります。それはまったく理解できないからです。
 二人の子どもが、それぞれ一歳半のころから小学校3年生を終わるくらいまで毎晩読み聞かせをしたのですが、このピーターラビットだけはさっぱり面白くなかった。なぜ子どもが夢中になるのかまったく分からないのです。それにもかかわらず、しかし二人ともこの本を繰り返し持ってきました。
 だからポターは世界的な作家なのでしょう。大人になっても子どもの感性でものを見たり感じたりでき、しかもそれを表現できたのですから。

 そしてこの「子どもにしかわからない」という部分で、私は読書や読み聞かせの重要性を説明します。だって「子ども時代にしかわからない」のですから。
 世の中には後回しにできないことがたくさんあるのです。

(しかしこんなことを言うと、「私、ピーターラビット、分かります」といった人がたくさん手を上げるかもしれません。そうです。子どものようにピュアな感性を持った人は、私が思うよりずっと大勢いるのかもしれません)


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2013/4/22

「ベテランの味」〜避難訓練  教育・学校・教師


 金曜日は避難訓練ご苦労さまでした。

 子どもにも言いましたが、訓練は常に100点満点でなければなりません。なぜならいざ火事・地震となれば、訓練の7割も達成できれば御の字だからです。火の粉が降りかかったり余震が繰り返される中で、「練習通り本番も」などということはできるはずがありません。

 100点満点の訓練の7割だったら70点です。これなら児童生徒全員の命を救うことができます。しかし訓練が70点なら70×0.7=49、つまり半分の点数も取れないわけです。これでは全員の安全という訳にはいきません。その意味でも、常に最高水準の訓練でありたいものです。
 私はいつもそう考えています。

 ところで昨日の訓練の最中、校庭へ降りる階段のところで田辺先生が児童全員の降りるのを確認してからまた走り始めるのを目撃しました。こういうのがベテランの味です。
 本校のような少人数の学校ならまだいいのですが、40人近い子どもの避難となると特別な配慮が必要になります。階段の下りというのはまさにそういう場面です。なぜかというと、非常に危険だからです。

 児童生徒を引率して下り階段に差し掛かると、まず最初に行うのは歩みを緩めるということです。危険ですから。それから階段を駆け下りて、あとは平らなので一気に集合場所へ走ります。それが列の先頭の動きです。しかしその間、列の後ろの方では別のことが起こっているのです。

 後ろの子たちは階段のはるか手前で立ち止まることになります。前が詰まっています。それから階段の上まで近づいて、さあ降りようと思って見ると意外なことが起こっています。列の先頭ははるか遠くを走っているのです。全員がゆっくり降りてから急いで走るのでどうしても列は長くなってしまうのです。したがって後ろの子は慌てて階段を駆け下りなくてはなりません。

 避難訓練では特に階段に注意して引率しなければなりません。列のうしろで階段を跳び下りている場合があるからです。引率者は階段を降り切ったところからむしろゆっくり歩かなくてはらないのです。できれば立ち止まり、後ろを見て全員が降り切るのを確認してから走り始めればいいのです。田辺先生がされたように。

 こうしたことはすべて教えられるかいつか自然に気づくことです。教員の仕事はいわば職人芸ですから、まじめに長く続ければいつか必ず身に着く技術です。そういうものがたくさんあります。

 避難訓練の引率要諦といったものはその典型ですが、できれば早く身につけた方がいい。そのためには頭の隅で、「あの先生なら何に注意しているかな」と心に留めておくことです。ベテランの先生方はそれぞれいろいろな“技”をお持ちです。見ていないとなかなか損なのです



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