2013/3/21



 春休みになりました。
 
 今は指導要録を書き、進路の最終確認をし、転出の先生たちは引っ越しの用意をして過ごします。
 学校に残る先生方は新年度準備に忙しい時期。
 机や椅子から壊れたものを弾いて新しいものを入れ数や大きさをそろえたり、教科書を分配したり、入学式の準備をしたりと忙しい時間が続きます。

 デイ・バイ・デイも新学期まではお休み。

 次回は4月1日に更新します。


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2013/3/19



 そう言えば昔、私が最も夢中なった映画の一つが「卒業」です。クリックすると元のサイズで表示しますダスティン・ホフマンの出世作で、音楽が素晴らしく、その後私はダスティン・ホフマンとサイモン&ガーファンクルの両方のファンになりました。映画「卒業」で主人公を誘惑する人妻役を演じたのはアン・バンクロフトで、彼女はその5年前、「奇跡の人」のアン・サリバン役で主演女優賞を取った人です。

クリックすると元のサイズで表示します「奇跡の人」は一般にヘレン・ケラーが主人公だと思われがちですが、バンクロフトが主演女優賞を取ったことでもわかるように、奇跡を起こす人=アン・サリバンが主人公です。私が最も尊敬する教師です。これについては以前お話したことがあります。


 映画ではない、私自身の「卒業」の思い出はいつも「不安」とともにありました。私は「人見知り」ならぬ「環境見知り」でしたので、新しい世界に向かっていくのがとても苦手だったのです。卒業というとすぐに「別れの悲しさ」といった方に話が向かいがちですが、私のような人間もいます。 “大丈夫だよ”と勇気を与えて、力を込めて送り出してやってください。

 さらに“卒業”つながりで急に思いついたのですが、この時期、3学期の締めくくりの「3学期終業式」があり最上級生を送り出す「卒業式」はあるのに、各学年の1年を締めくくる儀式というのはないのですね。学年の修了は、通知票についている「修了証」をもってのみ明らかにされるだけです。

 「終業式」「修了式」「卒業式」と三つも重なったらたまらんという考え方もあるかもしれませんが、だったら「3学期終業式」に替えて「修了式」をやればいいだけのことです。けれどそれをしないということは、その背景には学問の継続性を大切にするといった考え方があるのかもしれません。「卒業していく児童生徒は仕方がないにしても、各学年途切れることなく学業にいそしめ」、そういう意味かも知れないということです。

 すくなくとも、私たちはそんな考えでやっていくべきでしょう。

 皆さま、1年間、ほんとうにご苦労様でした。そう言って休めるほど春休みは暇ではありませんが、このまま引き続き頑張りましょう。




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2013/3/18

三学期終業式に  教育・学校・教師


 一年間ご苦労様でした。
 特に今年は5月のいじめ問題、12月の体罰問題、その間にさまざまな教員不祥事・事件事故が重なり、対応に追われた一年でした。マスコミを見る限り教員に対する信頼は地に落ち、学校は崩壊の危機に瀕しているかのようです。

 しかし人々は忘れています。日本は現在でもトップクラスの学力を維持し、学校体育は日本のスポーツの総合力を下支えしています。
 子どもたちの健康診断や発育測定を定期的に行っているのは学校だけですし、組織的に栄養摂取や健康増進を教えているのも学校だけです。家庭生活の営み方、衣食住の維持の仕方、こういったことも私たちが教育しています。社会でどう働いていくかというのも現代の学校の重要なテーマです。

 東日本大震災では現在も原因不明の一例を除き、学校における児童生徒の避難はほぼ完ぺきでした。今後他地域で同様の災害があっても、学校だけはまず安全です。なぜなら私たちは何度も何度も練習しているからです。

 同じく大震災のとき、日本が世界に発信した被災地の人々の沈着冷静さ落ち着き、社会秩序を守り辛抱強く整然と助け合うさま、大規模な暴動や略奪のなかったこと、原発事故の最前線にもとどまり命を賭して国を救おうとする勇気。
そうしたものをDNAのためだと考えるのは日本人だけです。世界はそれを教育の成果だと絶賛しています。

「本職の清掃業者を一人も入れていないのに校舎がきれいに保たれている」
 国内では当たり前すぎて誰も言葉にしませんが、こんなことですら世界では稀なのです。

「道路を横断するときには手を上げて合図をし、車が止まるのを確認してから素早く渡る。渡り終わったら止まってくれた車に向かって頭を下げる」
 そういうことを教え訓練したのは誰だったか。町内会か、公民館か、それとも社会福祉協議会だったのか―。

「自分の机の中やロッカーをきちんと整頓しておくこと、持ち物を忘れないようにメモすること、風邪の流行りそうなシーズンにはうがい手洗いを励行し、一時間に一回は換気に心掛けること」 
 毎日必ずということになれば、それらは一般の家庭ではなかなかさせられることではありません。しかし学校はできます。

 以上は一例ですが、今のところ、それを評価する声はどこからも聞こえてきません。誰も褒めてくれませんが、それらが必要欠くべからざることは私たちが一番よく知っています。

 毎年3学期の最後の日はそうした物言いになりますが、誰も評価してくれないなら私たちが讃え合いましょう。少なくとも“組織的に”という意味では日本人を日本人にするための教育を行っているのは学校を置いて他にないのです。
 どんなに疎んじられても、この尊い仕事を誇りを持って続けていきましょう。



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2013/3/15

一子相伝とサービス業  教育・学校・教師


 一子相伝というのは辞書的に言うと、
「学問・技芸などの奥義・秘法を自分の子の中の一人だけに伝えること」(辞林)
ということになります。
(学問や文芸とは異なりますが、以前本校の副校長だった相沢先生は長男であるにもかかわらず家督を継がず、弟に任せたばかりに受け継ぐべきものを渡されなかったと言います。それは先生の家の持ち山のマツタケが群生する場所という、極めて重要な情報です。年によっては数百万円以上の収入を生み出す場所ですから)。

 詰まるところ教育は一子相伝を同時に多数に行うことだと私は考えています。たとえ30人の学級だとしても、学問を教えるという意味で教師と子どもの関係は1対1―「私は、選ばれたお前に秘伝を授ける」という真剣さに裏打ちされたものだと思うのです。浮ついたものだったり軽いものであったりしてはいけません。師は価値あるものだけを与え、弟子は深刻に受け止める必要があります。

 ところで、「教え諭す」には師弟以外に別の仕組みもあります。それは医師と患者、カウンセラーとクライアントのような関係です。
 この関係は師弟よりもはるかにゆるいもので、患者は必ずしも医師の言うことに従う必要はありません。「煙草をやめなさい」とか「運動をしなさい」というのは選択肢であって指示や命令ではないからです。患者やクライアントには従わない自由が保障されていて、その点で師弟関係とは異なります(学校で「宿題をしなさい」とか「委員会の仕事をしなさい」と言われたときに、従わなくてもいいと考える人はいないでしょう)。

 師弟関係の場合、弟子が課題を抱えてなければ「師」が与えますが、患者やクライアントの場合は最初から課題を抱えていてそれを意識している―その点でも異なります。患者やクライアントには「ニーズ」があるが、児童生徒にはない、そういう言い方もできます。

「一方が何かを与え他方が受け取る」という点だけに注目すると、一般のサービス業も同じようなものだということができます。しかしこの関係は医師と患者、カウンセラーとクライアントよりもさらにゆるいもので、消費者には完全な選択の自由が与えられています。「煙草をやめなさい」のように心理的ストレスを受けることもありません。

 両者の間にあるのは商品であり、供給者は徹底的にニーズに応えることが要求されます。消費者が望まないものを提示するのは供給者としては命とりですし、それにも関わらず押し付けるのは強要または押し売りです。

 政治家や評論家の一部は「教師はサービス業だ」と言いますが、教育をサービス業だと考えると学校の仕組みは今とまったく異なったものになってしまいます。子どもが与えられるものは「必要なもの」から「ほしいもの」に代わり、保護者も「より少ない投資で最大の利益を目指す」という消費者行動に走り始めるからです。

「教育はサービス業だ」と言われるようになってから「教育」は終わってしまったと私は思っています。そしていま学校で起っているのが、まさに児童・生徒・保護者の消費行動なのです。しかしこれについてはいつか改めてお話ししましょう

【付記】
 言うまでもなく学校は学問だけを教える場ではありません。学校の中には「人間関係を学ぶ」という側面があり、その面は一子相伝という訳にはいきません。児童生徒会活動や各種行事を通して子どもたちは社会を学ぶわけですが、そこには一子相伝とは異なる論理が働いています。
それは、具体的な活動の中から師の言葉を介さずに学ぶ「経験主義」です。



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