2013/2/20

勝利至上主義について  教育・学校・教師


「勝利至上主義」という言葉を最近よく聞きます。

「本来は教育の場であった部活動が勝利至上主義に陥り、その結果体罰が・・・」といった文脈で使われます。要するに、本来は目的ではなかったはずの“勝利”が至上命題になってしまい、そのためには何でも許されるといった雰囲気になっている、という訳です。しかし部活動の実際はどうなのでしょう。

 私は二校目の学校でバレーボールの顧問となりました。バレーボールはド素人でしたのが席の空いているのはそこだけだったのです。

 その年の6月、早くも中学校体育連盟体育大会の地区予選が始まり、さほど強くない私の学校のチームも参加しました。しかしそれよりも弱い学校はいくらでもいます。その一つが、つい二か月ほど前に離任した前任校のチームでした。
 本当に弱いチームで、初戦を15−2、15−3くらいであっという間に負けてしまいました。15点マッチのバレーボールなんて、ただボーっと立っているだけでも2〜3点は入ります。15−2、15−3で負けるというのはコート上でなぶり者になっているようなものです。
 選手の中には仲の良かった生徒もいて、試合後、私の顔を見るなりヘラヘラと笑いながら「せんせ、負けちゃった。私たち、メッチャ弱い」そう言うのです。
 今でいえば「チョー弱い」という感じでしょうか、もう笑っちゃうしかないといった様子です。本当に可哀想でした。

 練習の質や努力の量に差があったのは間違いありません。しかし同じ3年間をバレーボールに捧げた同じ中学校3年生の女子にこんなに差があってはいけません。一方は勝者で一方はなぶり者なのです。負けるにしても、あるべき負け方というものがあるはずです。

 私はその時、「すべてのチームに対して、負けるにしても半分(当時の点数で8点)以上の点を取る」そういうチームをつくろうと強く決心したのです。しかしこの目標、実は驚くほど難しいものでした。
 
 有名な蓮舫議員の「世界一になる理由は何があるんでしょうか。2位じゃだめなんでしょうか」の答えは当然「2位を目指していたのでは2位にはなれない」です。同じように、「すべてのチームから8点以上取る」ためには10点以上(おそらく11〜12点程度)を目指していなければなりません。それだけの実力があれば何らかの理由で一方的に押し込まれても8点未満ということはありません。
 ただし優勝チームからも11〜12点取ろうというのですから尋常ではありません。かくして私は(勉強もよくしましたが)、鬼みたいな顧問になってしまいました。

 勝利至上主義に陥るなと言われても勝利を目指さない競技スポーツというものはありません。そもそも“競技”という言葉自体が“競う”ことを前提としています。
「本来は目的ではなかったはずの“勝利”が至上命題になってしまい、そのためには何でも許されるといった雰囲気になっている」のうしろ半分、「何でも許されるといった雰囲気になっている」としたら確かに問題です。しかし今回の体罰問題を機に、“勝利を目標としない部活”といった歪んだ考え方が出てくるとしたらそれも危険です。

 私たちの大切な生徒たちが、成長するための重要な時間をむだ遣いし、しかも競技場内でなぶり者にされるからです。


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2013/2/19

こだわりのマスク  文具・道具・器具

 先月28日にも「マスクの科学」という題名で「インフルエンザ予防にマスクは効果がある」というお話をしましたが、私が「デイ・バイ・デイ」にマスクの効能について書くのは、実に8回目なのです。そのくらいこだわりがあります。

 というのは4年ほど前に新型インフルエンザが流行したおり、全国的なマスク不足に対してマスコミ各紙が一斉に「マスク無意味説」を唱えたからです。たとえば2009年5月21日付産経新聞はこうです。

 外岡さんは(だれだっけ?)「欧米では、自分への感染がマスクで防げるかどうかについてはっきりとした効果があるとされておらず、マスクは病原体を持っている人が第三者にうつさないために使用されている」と説明。欧米では、手にウイルスがつくことが考えられるため手洗いをしたり、人込みに入らないようにしたりする教育が徹底的に行われている。
 つまり、欧米でマスクをしている人は「自分が病気で第三者にうつさないためにしているか、顔を見られたくないためにしている」(外岡さん)という。
予防アイテムとして、マスクの効果はどうなのか。新潟大学大学院の鈴木宏教授(公衆衛生)は「第一義的には(新型インフルに) かかった人が他の人にうつさないことに効果があり、自分に感染するのを完全に防ぐものではない」と指摘。さらに、「マスクを外すこともあり、鼻や口を完全 に覆っていないなど正しい付け方をしていない人もいる。それより、せきをしている人が外に出ないようにすることが効果があるのではないか」と分析する。
 多くの人がマスクをつけて生活している日本。鈴木教授は「街中にウイルスがウロウロしているわけでもなく、みんなが(新型インフルエンザ)にかかるわけでもないのにマスクをしている人が多いのは過剰防衛に映る。


 前にも言いましたが特定の分野(教育や公衆衛生、食品や栄養、等々)で「欧米では〜」と言われると私は反射的に「それはやってはいけないことだ」と思う癖がついています。欧米ではマスクに効果はないと言っている―ならばマスクにインフルエンザ予防の効果が絶対にあります。
 日本のマスク・メーカーはこぞって効果を謳っていますから、これはもう間違いはありません。
 私は日本人と日本のメーカーを信じます。少なくとも諸外国の人々やメーカーより絶対に正直です。だから間違いありません。
 今日お話ししたいことはそれだけです。

*マスクはしっかりと着装すれば90%以上の割合でインフルエンザ・ウィルスを遮断する、というのが1月末の結論でした。ところが先週の「ためしてガッテン」では花粉対策の場合、装着がかなりいい加減でも遮断できるという話をしていました。
 マスクの横や下から侵入した花粉は、マスクの縁辺部や皮膚にくっついてしまい、鼻や口までたどりつかないのだそうです。やっぱりマスクは偉い! 

(ただし花粉は雨などにあたるとウィルス並みの細かさに分裂するため、雨降りの翌日や翌々日は、インフルエンザ対策のようにしっかりと装着しないと、侵入を許してしまうそうなのです。雨の翌日は大変だという話は、たしか私の家族からも聞いたことがあります)


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2013/2/18

「格物致知(かくぶつちち)」  教育・学校・教師


「格物致知」というのは古代中国から現代に続く思想的な術語で、時代や人によって解釈が随分と異なる言葉です。

 三省堂の「新明解四字熟語辞典」には
 物事の道理や本質を深く追求し理解して、知識や学問を深め得ること。『大学』から出た語で、大きく分けて二説ある。宋の朱熹(しゅき)は出典を「知を致いたすは物に格いたるに在り」と読んで、自己の知識を最大に広めるには、それぞれの客観的な事物に即してその道理を極めることが先決であると解釈する。一方、明(みん)の王守仁(おうしゅじ:王陽明)は「知を致すは物を格ただすに在り」と読んで、生まれつき備わっている良知を明らかにして、天理を悟ることが、すなわち自己の意思が発現した日常の万事の善悪を正すことであると解釈している。他にも諸説ある
とあります。

 私がこの言葉を知ったのは、幸田文の随筆からです。幸田文の父である幸田露伴は、王陽明よりもさらに新しい清の顔元によってこの言葉を解釈していました。それは「格物」を「手を動かしてその事を実際に行う」とし、そうすることで後に「知は至る」、つまり実践によって知を獲得していくということです。

 露伴はかなり早い段階で文の才能に見切りをつけてしまい(そのあたりは結局、眼鏡違いでした)、この子は文学で生きられるはずもなく金儲けもできそうにない、だからよき妻となるしかなく掃除など家事全般を徹底的学ぶ必要があると考えました。そして母親のいない文のため、自分自身が家事全般を教えていこうとかなり厳しく躾けていくのです。その様子は幸田文の随筆に少し滑稽に描かれています。そしてその態度がまさに格物致知なのです。

 ただし格物致知を根幹とする教育というのは露伴一人のものではありません。西洋から経験主義が入ってくるはるか以前から、日本の教育は格物致知的なのです。
 たとえば古典芸能の世界では「形から入る」ということが大切にされ、ひとつひとつの所作の意味を二の四の言う前に、まず「形」をしっかりさせるための修行を続けさせます。絵画の世界も先人の名画を繰り返し繰り返し模写する中から、自分独自のものの発見が始まります。清掃やその他家事全般も、実際に手足を動かしてきちんと行う中から、その意味が知れてきます。

 日本の場合、学校教育の中にはさまざまに錯綜した格物致知の仕組みがあります。登山や修学旅行といった旅行的行事、音楽会や絵画展と行った学芸的行事、児童生徒会、部活動、清掃、それらはすべて実際に体を動かし、活動する中から課題を見つけ対処していこうというものです。そうした教育活動すべてを通して子どもの人格的な完成を目指す、それが日本の学校教育の在り方です。
 私はそうした学校のあり方に対して、現在の学校教育をつくりあげたはずの政府や文科省がなぜこうも無頓着でいられるのか不思議でたまりません。

 実際に手足を動かして問題が発生するのを待ち、その上で解決策を探りながら成長していくわけですから時間もエネルギーも膨大にかかります。しかしそれをやってきたからこそ現在の日本人が世界から尊敬される民族でいられるのです。

 そんなすばらしい日本の教育を無視して、道徳の教科書を充実させましょうといった矮小化された話にするから、教育はますます厄介なものになってしまいます。
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2013/2/15

配合禁忌(はいごうきんき)の話  


 一昨日の新聞に小さく「トリカブト殺人事件の神谷受刑者が病死 昨年11月」 という記事が出ていました。1986年の5月、沖縄の石垣島で新婚の妻を毒殺して保険金をとろうとした事件です。容疑者の3番目の妻ですが、前の二人を含め、三人とも心筋梗塞でなくなるといういかにも怪しげな事件です。
 しかしこの事件が記憶に残るは、そこにまるで推理小説のような経緯があったからです。

 事件が事件になったのは亡くなった三番目の奥さんの知人が、その死を怪しんで片っ端から保険会社に電話し、彼女に莫大な保険金が掛けられていることを突き止めたところからです。保険会社が支払いを拒み、容疑者は裁判に訴えるのですが、その裁判の過程でたまたま保管されていた被害者の血液や内臓の一部から、トリカブトの毒が発見されたという事実が明らかになります。
 容疑者は急きょ支払い請求を取り下げてしまいますが、そのころからマスコミも大騒ぎを始め、容疑を固めた警察も逮捕に踏み切ります。しかし実は容疑者には鉄壁のアリバイがあったのです。

 その日、容疑者は妻と妻の3人の友人とともに、計5人で石垣島に行く予定でした。ところが夫は急な仕事が入ったので大阪に戻ると言いだし、妻たちを石垣島行きの飛行機に乗せて自分は那覇空港に残ります。その2時間後、妻は突然死するのです。
 那覇空港を飛び立つ前に妻は夫からもらった栄養剤のカプセルを飲んでいますが、以後変わったものは口にしていません。もちろんその栄養剤カプセルが怪しまれますが、トリカブトの毒は即効性で2時間後に効くということはありえないのです。それが被告のアリバイです。。

 裁判は暗礁に乗り上げたかのように見えましたが、ここに不思議な証言者が登場します。それはトリカブトではなく、被告に大量のフグを売ったという漁師です。そこで再度血液の鑑定が行われるのですが、やはりそこからフグの毒も発見されます。
 犯人はご丁寧にもトリカブトだけではなく、フグの毒も混入して万全を期したのです。

 当時は知られていなかったのですが、この二種類の猛毒、拮抗作用があって同時に使うと毒としての性質を抑えあってしまうのです。互いに相手を金縛りにしてしまい、そのまま時間が経過する・・・ただしフグ毒はトリカブト毒に比べて半減期(血中で濃度が半分に下がる時間)が短いので、やがて拮抗状態は崩れ、トリカブト毒が本来の作用を取り戻す、それが事件の全体でした。
 まるで推理小説のような事件です。

 二種類以上の薬品を同時に使った場合、その効能を打ち消しあってしまう、あるいは毒として作用してしまう、そういう関係を薬学の世界では“配合禁忌”というのだそうです。
 私はこの「二つ以上のものを一緒にしたら効き目がなくなる、毒になる、あるいは素晴らしいものができあがる」といったものの見方が好きです。

 昔、ポップスの世界に沢田研二というスーパースターがいました。同じ時期、将来の森光子と目される田中裕子という名女優もいました。二人が結婚したら、オーラがあっという間に消えてしまいました。
 昔、ものすごく苦労させられたモンスター・ペアレンツがいました。夫婦別々にいるとたいしたことはなかったのです。しかし二人一緒だとんでもなく厄介な人たちでした。
「あ、配合禁忌だ」
 心の中でそうつぶやいたものです。



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2013/2/14

バレンタインデー惨題  教育・学校・教師

【第一話】
 高校3年生の2月14日、昼食を食べ終わって教室でわいわい騒いでいたら、呼び出しがかかった。廊下にでると同じ部活の一年生の女の子がちょこんと立っている。
「あの・・・」
と言って手に持ったきれいな箱を持ち上げる。
「これ、○○さんに渡してくれませんか」
(やっぱりね)と思いながらも一方で、
(オレを呼び出すなら本人を呼び出せばいいのに、そこにいるのに)とも思った。
しかし断るほどの理由もないので「いいよ」と受け取ると、
「あのそれから・・・」
と言ってポケットから小さな小さな包みを取り出し、
「これ、お礼です」
どうやらこちらの中身もチョコレートらしい。ほとんど一口チョコ。
なんだか“お駄賃”をもらったみたいで、急に情けなくなり、こちらの方は泣けた。


【第2話】

 大学2年生の2月14日、講義の直前に同じゼミの女の子がチョコレートを持ってきた。大変な人数の中で堂々と渡そうとする。それはいいのだが、それから5分以上に渡って、今渡そうとするチョコレートに恋愛的な意味はまるでないこと、日頃世話になっている(確かに相談に乗ったりはした)のでそのお礼として渡すものであること、勘違いさえれても困るがかといって傷つかれても困る、本当は迷ったのだけれど何もしないのも気が引ける等々、等々、等々。婉曲というよりは堂々巡りの感じで延々と話された。
(そんなに言うなら、くれなければいいのに)


【第3話】
 教員になって2校目。ほぼ一年間をやり終えた2月14日。登校したらいきなり生徒からチョコレートをもらった。私もまだ若く独身だった。
 それから一日中、あっちで声をかけられこっちで袖を引かれとやっているうちに、チョコレートは大きな紙袋二つ分にもなった。びっくりした。
 しかし実はそれ以上に困っていた。というのはそんなにもらうとは思っていなかったので、誰にもらったのか記録を残していなかったのだ。
 結局一か月後、私は「誰にもお返しをしない」という方法で公平を図るしかなかった。

 その翌年。前年の反省もあって今度はしっかりとメモを用意して登校した。ところがその年は、誰もくれなかった。ものの見事に、一個ですら来なかった。
 2年目に女生徒全員に嫌われるようなことをした覚えはないから、きっと前年で懲りたのだろう。女子中学生の記憶力は、こういう点では一致して、“良い”。


 さて、独身の先生のもとには恋人からのチョコは届いたのでしょうか。既婚の先生方の奥様方は、今でもそんな気の利いたことをしてくれるのでしょうか。そう思って、今日は勇んで帰りましょう。



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2013/2/13

子どもの認知C 〜言いたくないこと  教育・学校・教師

 学校における体罰は絶対にしてはならないことです。なぜなら“やればクビになるから”です。教育上の必要悪だとか、「愛があるなら」とかいった話はしません。懲戒免職にならない程度の体罰といった微妙な話もしない方がいいでしょう。

 いずれにしろこんなことで他人のお子さまのために自分の家族を破滅させてはなりません。
 懲戒免職となれば退職金も消えますし年金にも響きます。おまけに教員免許も取り消されますから予備校や学習塾の講師にもなれません。そもそも「懲戒免職」と書いてある履歴書をもってどこに行けばいいのでしょう。仮に履歴書に書かなくても、学校を辞めての再就職となれば長々と説明するか嘘をつかなければなりません。

 そんなわけで学校における体罰はだめだとして、ところで家庭におけるそれはどうでしょう。

 これについて、私は本当のことをあまり言いたくない気持ちでいます。子どもがほんとうに小さなころ、しょっちゅうお尻ペンをしていたからです。特に上の女の子の場合はそうでした。

 小さな子どもを叱るときは怖い顔と強い口調で叱らなければならない、それが十分な恐怖を与えるためにも、日ごろは優しい声と暖かな表情で接していなければならない―そんな話をしました。しかしそれはずいぶん最近になって学んだことで、自分の子が小さな時には思いつきもしなかったことです。

 また、「怖い顔を〜」と言っても、それすらも通用しない時期があります。生後間もないころから、2歳くらいまでの間です。またそれ以上の年齢になっても「日常すべきことがきちんとできない」といった内容だといちいち説諭しても始まりません。たとえば歯磨きは、毎日説教してやらせるような課題ではないのです。

 もっとも、だからといっていきなりペンではかわいそうなので、私はよくカウントを数えました。「さあ歯磨きするぞ」と何度か声をかけ、それでも来ないと、い〜ち、に〜い、さ〜ん・・・」と数えるわけです。たいてい「ろ〜く」くらいで間に合ってニコニコしながら夜の歯磨きとなるわけですが、何かの遊びに夢中になっていて「は〜ち」くらいまで動けないときもあります。そして「きゅ〜う」が聞こえると、すべてを投げ出し、大慌てでビービー泣きながら走ってくることになります。そういうこともありました。

 2歳を越えてだいぶたった頃、何かの事情でお尻ペンをしたときに「痛くないモン」とか言って反抗したことがあります。もう一度叩くとまた「痛くないモン」。
 私も引くわけにいかず何回か同じことを繰り返しているうちに、「だんだん痛くなってきた・・・」。
 そしてもう一回お尻をペンしたら「ワーッ」と叫んで泣き始めました。お尻ぺンはもう終わりかなと思ったのはその時のことです。

 小さなころたくさんペンをした娘は、次第に叱られる回数も減り、小学校の低学年を終えるころには私を怒らせることもまったくなくなりました。
 しかし下の息子の方は違います。
 この子は体が弱く、泣くと酷く咳き込んで悲惨な印象になる子でした。私はそれでもいいと思っていましたが、妻は女なのでどうしても庇う側に回ります。息子を叱るうちに妻を叱ることになり、そのうち夫婦げんかに発展し・・・といったことが繰り返されるうちに、いつしか息子に対する指導はずっと甘いものになってしまいました。

 今でも姉弟の様子を見比べると、姉の方がずっと厳しい生き方をしています。弟の方ももっとお尻ペンをしておけばよかったと、本当に申し訳なく思います。

 ただし、こうした話を人に聞かれて、それを児童虐待の理由に使われてはかないません。
 ですからこれは本当は言いたくない話ですし、死ぬまで誰にも話さないつもりです。


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