2013/2/1

正義のコストA  教育・学校・教師


 20年程前、私が苦労していたのは中学校社会科の全カリキュラムを作成するという作業でした。多かれ少なかれ教科書に準拠するのですが、地域教材を含め、「その学校独自のカリキュラム」が求められたからです。1年生から3年生までの全400時間ほどの授業の、全計画を立てるわけですから書くだけでも大変でした。

 10年ほど前に必死にやっていたのは「評価規準」の作成です。これはすべての授業時間内に2〜3回のチェックポイントを置き、その時点までの課題がクリアできているかどうか、すべての児童生徒についてチェックしようというものです。これも一年分をあらかじめつるわけ」ですから本当に大変でした。当時は各校、それぞれ学年ごとに電話帳ほどの厚さのものを作成して棚に並べたはずですが、今はどうなっているのやら・・・。

「学校独自のカリキュラム」も「評価規準」もそれ自体は悪いものではありません。しかしそれを作成するのにどれだけ膨大な時間やエネルギーがかかるか、発案者は計算したことがあったのでしょうか。

 教員評価、学校評価もまた然りです。特に学校評価、教職員自身による評価、児童生徒の評価、保護者の評価、それに第三者の評価を加えて多角的に自校を分析し、翌年の教育活動に生かそうという試みは非常に優れたものです。しかし時間も手間もかかります。

 学校評議員制度、つまり地域の人々の声を学校に生かそうという試みも素晴らしいものです。しかしこの制度の発案者は、「地域の人々は案外学校について知らない」という事実を見落としています。ですからこの制度をまじめに運用するとすれば、月に最低2~3回は学校に来ていただき、児童生徒の活動を見てもらうとともにその意味や成果について知ってもらわなければなりません。これは学校・評議員双方にとって大変な仕事でした。

 民間企業や一般公務員の場合、新規事業に手を出すときは厳密なコストパフォーマンが計算されます。そうしないと少なくとも時間外勤務手当という形で人件費が伸してしまいます。新しい仕事を入れるということが本来業務の支障にならないかも計算されなければなりません。
 しかし残業手当のない教員の場合、どんなに仕事を増やしてもそれで支出が増えるということはありません。それが負担であるということが数値で出されてこないのです。ですから仕事はいくらでも被せられます。

 30年前の教員には「総合的な学習の時間」も「生活科」も「小学校英語」ありませんでした。教員の自己評価も学校評価もありません。学校評議員会もなければ学社融合、開かれた学校づくりという概念もありませんでした。防災教育もキャリア教育も性教育すらなかったのです。

 もちろん私はそれらの新しい教科や制度、概念の価値をいささかも疑いません。どれもきちんとやれば素晴らしい成果を産みだし、日本の教育に大いに寄与するものです。しかしそのためのコストはまったく考えてこなかったこと、そしてすべて正義である以上どんなに形骸化してもなくなることがないということ、この二つについてはあまりにも配慮が足りませんでした。
 何かを始めるときには何かを壊さなければならないという「ビルト&スクラップ」の原則にも無頓着でした。

 教員の質の低下が叫ばれていますが、激増する仕事内容に対して私たちの能力が追い付いていかないという意味では、確かに相対的に低下しています。
 すべて正義のために本業に支障をきたしている・・・それだけのことです。


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