2013/2/12

「子どもの認知」B 〜怖い顔で叱る   教育・学校・教師

 2歳3歳の子どもには心の理論が成立していませんから、「他人には自分とは別の感情や考えのあることを理解し、それを類推する」ことはほとんどできません。自分にとって楽しいことも他人が楽しめない場合があるということが分からないのです。

 よく「どんな小さな子にもきちんと説明して納得させなければいけない」と言ったりしますが、4歳より前の子に「ダメでしょ、そんなことすればお友だちが悲しい思いをするでしょ」と言っても“お友だち”に別の感じ方や考え方があるなど想像もできないのですから、それでいうことを聞くはずがありません。しかしそうであるにもかかわらず、お母さんに叱られた子どもはその行為をやめ、今後もしないでおこうと決心します。それはなぜでしょう。

 ポイントはその時のお母さんの表情や声です。いつものうっとりするほど柔らかな表情と優しい声が一変し、鬼のような形相と強い口調がそこにある―それに子どもは恐怖するのです。

 それは例えば電車の中で、さっぱり落ち着かない子どもに対する母親の態度を見ていたりするとわかります。
 親がいくら注意してもきかない子どもは、そもそも注意する親を見ていません。座席に乗ってあちこち移動するのに忙しく、お母さんがいくら「ダメでしょ、ほかにもお客さんがいるんだから、じっとしていなさい」などと言っても聞く耳を持たないのです。

 ところが優秀な母親は子どもを押さえつけ、きちんとこちらを見させてから強く叱責します。おそらくそういう性格なのです。どんな小さな子であっても、自分の話をいい加減に聞かれるのが嫌いなのです。先に挙げた「どんな小さな子にもきちんと説明して納得させなければいけない」と考える人たちも同じです。 “さあこの子を説得するぞ”という意気込みがありますから、どうしても正対することになります。そして表情も声も厳しいものになるはずです。それが子どもを動かします。

 私はたくさんの先輩から多くの知恵をいただいてきましたが、その中でもっとも役に立ったことのひとつは、「叱るときは怖い顔で叱れ」というものです。特に小学校の低学年の子を叱るときはそうしろと―。

 まったくその通りです。ちなみに、これは簡単な実験で証明できます。小学校1年生の教室で休み時間に騒いでいる子がいたとします。休み時間ですから騒いでいてもよさそうなものですが、度を越すと注意しなくてはなりません。そんなとき、状況をそのままにしておいて「お〜い、いいかげんにしろよぉ〜、少しうるさすぎるぞぅ〜」とか言ってみるのです。日ごろの担任のあり方にもよりますが、それで静かになる例はまずありません。

 すべきことはその子のところまで歩いていき、中腰になって顔と顔を合わせ、しっかりとした怖い顔で「休み時間であってもそんな大暴れしてはいけません。しばらく静かに本でも読んでいなさい」、そう言えばいいのです。それでしばらくは静かにしています。

 怖い顔と怖い声、それには個性があります。
 怒ると途端にのっぺりとした無表情になり、話し方が異様に丁寧になる先生がいます。よくわかりませんが、子どもにはとても怖いようです。あるいは突然目が細くなり、氷のような視線を発する先生もいます。さらにまた私が「『見捨てるわよ』サイン」と呼ぶ恐怖のオーラを発光させるような人もいます。もちろんもともとの顔が怖いという、教師としては極めて有利な人もいます。

 しかし本当に大切なのは怒った時と日常との落差であり、日ごろから母親のように柔らかな表情と優しい声で接していないと、怒った時の恐怖が伝わっていきません。その意味でも、いつもは“優しい先生”でいたいものです。


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2013/2/8

子どもの認知A 〜心の理論  教育・学校・教師

 1970年前後だと思うのですが、「サルに心はあるのか」という論争がありました。ここでいう「サル」とはチンパンジーなどの霊長類に限ったことです。そしてこれについて、ある哲学者が非常に示唆に富んだ発言をします。

「私は、サルが罠を仕掛けるところを見たら、サルに心があると信じる」

 発言したのが哲学者というところがなかなかのミソです。そこにはすでに、心とは「他人には自分とは別の感情や考えのあることを理解し、それを類推できる機能のことだ」という前提があるからです。この前提のことを「心の理論」と言います、

 それを機に一部の動物学者たちは霊長類の中に心の理論を発見しようとし、別のグループは人間の中にいつごろから心の理論が生まれるかを研究しようとしました。そして1985年ごろ、イギリスのコーエン博士らがこんな問題をつくりました。「サリー・アン課題」と言います。

(1)サリーとアンが、部屋で一緒に遊んでいました。
(2)サリーはボールを、かごの中に入れて部屋を出て行きました。
(3)サリーがいない間に、アンがボールを別の箱の中に移しました。
(4)サリーが部屋に戻ってきました。
(5)サリーはボールを取り出そうと、最初にどこを探すでしょう?
(3歳以上の子どもに対して行うものですから、通常はアニメや人形を使ってやります。私は人形を使ってやりました。子どもの興味を引くために、ボールもチョコレートに変更します)

 正解はもちろん「かごの中」です。サリーはボールのすり替えを知らないからです。ところが3歳児にこれをやると面白いくらい引っかかります。「だってボールは箱の中にあるんだもん」ということです。

 私は息子が3歳のころから一か月おきくらいにこれをやっていました。昨日も書きましたが子ども相手の実験のすてきなところは、一か月も前のことなど完全に忘れていることです。いつも新鮮な話で、「お父さんはなぜ同じことを聞くのだろう」などと考えたりしません。そしていつも「箱の中」と平然と答えます。そこで私も、「そうかあ、箱の中なんだね」と言って済ませます。

 4歳になってしばらくして、いつものようにサリー・アン課題をやっていつものように「箱の中」と答え、息子は一瞬立ち止まります。そして「あ、違う、かごの中だ!」。
 サリー・アン課題通過の瞬間でした。
 寝返りやつかまり立ちと同じようにいつかはできるものですから、できたこと自体に喜びがあったわけではありません。しかし“その瞬間”に立ち会えたのはかなりうれしい体験でした。

 サリー・アン課題はほとんどの子どもが4歳から6歳の間にクリアします。逆に言えば4歳以前の子どもには「心の理論」は成立していないので「他人には自分とは別の感情や考えのあることを理解し、それを類推できる機能」はほとんどないかひどく脆弱だということです。
 また6歳を過ぎてもパスできないとしたら、そこに何らかに問題を想定しなければなりません。サリー・アン課題が自閉症の初期検査として使われるのはそのためです。

 しかしそうなると3歳の子どもに「ダメでしょ、そんなことすればお友だちが悲しい思いをするでしょ」と言っても全然通じないことになります。なにしろ「他人には自分とは別の感情や考えのあること」が理解できていないのですから。
 しかしそれにも関わらず、前述のお母さんのお説教は功を奏します。それはなぜなのでしょう。
                                          (この稿、続く)



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2013/2/7

子どもの認知@  教育・学校・教師

 外に作ってしまった子どもを法的に認知するかという問題ではありません。子ども、特に幼児の認知能力についてです。

 日本テレビの「はじめてのおつかい」という不定期の番組が好きで、忘れない限りは必ず見ています。もう今年で23年目になるそうです。

 最近では昔のビデオを放送した後で“あれから○○年”とテロップが出て成長した子どもの姿が出たり、“更に○○年”と二度目の“現在”が出たりして、「ああずいぶん変わったなとか」「まったく変わっていないじゃないか」とかさまざまな感想を持つことができます。

 その20年あまり前の「はじめての〜」を見ているうちにあることに気づきました。それは昔の方がスタッフの隠れ方が、手が込んでいるということです。いろいろな職業の人に変装しているのですが、カメラマンが次から次へと交代する、そっぽを向いた感じでカメラだけを向けている、人通りの少ないところでは深追いをしない等々ずいぶん気を使っています。それに比べたら最近のスタッフは驚くほど無防備です。
 誰もいない田んぼのあぜ道を背後から中腰で(カメラの入っている)箱を持ってついて行く、いつも訪ねていくお祖母ちゃんの背後からカメラで狙うなど、20年前には考えられなかったようなことを平気でします。

 しかしこれには経験が生み出したある理由があるのです。

「5歳3か月までは大丈夫。(中略)5歳3か月を越えた子をカメラマンが追うと、『まだ来る! 泥棒だ!!』とか言いながら、鬼ごっこになっちゃう。でも、5歳3か月未満の子だとカメラの存在に気づいてるんだけど、自分が撮られていると思わないようです。普通だったら、『何のカメラ?』って追及するけどそれがない」webザテレビジョンのインタビューより)

 この5歳3か月というのは日本テレビスタッフのオリジナルな発見でしょう。しかしなぜそうなのか、説明は一切ありません。スタッフがどう考えているのかもわかりません。ただしあれだけ無防備なのはこの「5歳3か月」という数字によほど自信があるからなのでしょう。放送を見ていても全くその通りだと思います。

 子どもの認知能力が年齢によって段階的に成長していくこと証明したのはピアジェです。彼は例えば、「物の数量はその形が変わったとしても、同じままである」という理解(数の保存の概念)は6〜7歳にならないと獲得されないと言います。

 ピアジェそれを知ったのはこんな実験からです。
「まず、おはじきを2列に等間隔に並べます。そしてどちらの列も同じ数であることを確認させます。その後、子どもの目の前で一方の列のおはじきの間隔を広げるか、または詰めて並べます。並べ替えた後、もう一度子どもに『2列のおはじきの数は同じかな? それとも違うかな?』と聞きます。そのとき間隔が広い列の方がたくさんある、と答えた子どもは数の保存が成立していないということになる」

 私はちょうど息子が4歳から5歳になるくらいのときにこの部分を勉強していたので、面白がって実験したのですが確かにその通りでした。

 子どもを使った実験の面白さは、できない年齢のときは何度やっても同じ間違いをしてくれることです。一か月前の実験なんて全く覚えていません。

 そしてそんな実験遊びの最中、私はとても素敵な場面に出くわしました。それは「サリー・アン課題」をやっているときのことでした。
                                       (この稿、続く)



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2013/2/6

ライ麦畑でつかまえて  教育・学校・教師

 難しいことばかり立て続けに書いてきて自分自身が滅入っています。そこで今日は軽いお話をしたいと思います。

 サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を私は21歳の時に読みました。けっこう長い本ですが、今調べるとたった一日で読んでいますからきっと夢中になって読んだのでしょう。

「ライ麦畑でつかまえて」というのは名誤訳で、原題は「The Catcher in the Rye」。直訳すると「ライ麦畑のつかまえ人」といった感じになります。これは主人公のホールデンが、日本では「ドリフの麦畑」で有名な「Comin Thro' The Rye(ライ麦畑で出逢ったら)」の最初の部分"If a body meet a body Comin' through the rye"を"If a body catch a body comin' through the rye"と聞き間違えていた、というところからきています。

 物語の最後の方で、チャランポランとしか思えない主人公の生き方に対し、妹が「いったいあなたは何をしたいわけ?」と聞くと、主人公はこう答えます。

「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるところが目に見えてくるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない―誰もって大人はだよ―僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ―つまり子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう、そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して来て、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、僕がほんとになりたいものといったら、それしかないね。バカげてることは知ってるけどさ」

 あるいは私は、この部分を読んだ時の感覚を、ずっと今日まで抱え続けてきたのかもしれません。
 教師としてそんなに優秀な仕事をしてきたわけではありません。特に、才能のある子を伸ばしたり、全体の学力を底上げするといったことはうまくいきませんでした。話し合いのさせ方は本当に下手です。部活や生徒会の指導も中途半端でした。
 ではいったい何に気を付けていたかといえば、それは「誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえること」だったような気がするのです。本当に困っている子、子どもについてまったく打つ手に窮してしまった家族のために、自分が最後の砦になってやりたい―。
 非行とか不登校とか「いじめ」とか、摂食障害をはじめとするさまざまな心の問題とか、最近では発達障害だとか、そういうことが私の中心的テーマでした。それもこれもみな「崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえる」ための知識が必要だったからです。


 さて、私はもう年ですからホールデンのように未来を語ることはありません。
 語るとしたら“来世”です
 フィービー(ホールデンの妹)のようなかわいい孫がいて「いったいあなたは何に生まれ変わりたいわけ?」と聞かれたら、私はこう答えるのです。

「とにかく私はね、ゴリラに生まれ変わりたいんだ。アフリカのジャングルの中で背中を銀色に光らせるシルバーバックさ。そして周りには数匹の子ゴリラが一日中遊んでいるんだ。私の背中を滑り台にしたり、時々キックしたり叩いたりしてさ―そんなことをして私の気を引き、遊んでもらおうとするんだ。そんなふうにしてひなが一日を送っていく。私が生まれ変わりたいのはそれしかない。バカげていることは知っているけどさ」



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2013/2/5

再び、体罰の問題にについてA  教育・学校・教師


 一昨日のニュースに、
 毎日新聞が2、3両日実施した全国世論調査で、大阪市立桜宮高校で男子生徒が体罰を受けた翌日に自殺した問題を踏まえ、体罰について聞いたところ、『一切認めるべきでない』との回答が53%と半数を超えた。一方、『一定の範囲で認めてもよい』との一部容認派も42%を占めた。
という記事がありました。男女別にみると、
 男性の「認めてもよい」は54%で、「認めるべきでない」(43%)を上回った。女性の「認めるべきでない」は62%。「認めてもよい」(32%)を大きく上回り、男女で顕著な差が出た。年代別では20代と30代で「認めてもよい」が、「認めるべきでない」より多かった。

 なぜ男たちは「認めてもよい」と思うのかというと、体罰によって受ける側に何らかの利益があると考えているからです。する側の利益だけを考えていたらこんな数字にはなりません。
 ではその “受ける側の利益”というのは何か。

 先日のNHKテレビでは“勝利至上主義”という言葉がキーワードとして取り上げられていました。もちろん相手に勝ちたい、栄光を手に入れたいといった本源的な欲望もあるが、それとともに全国大会出場といった栄冠を手に入れることによって選手はスポーツ推薦など進学の道を開き、学校は知名度を上げることによって生徒募集を容易にする、そうした学校と生徒・保護者に共通の利益によって体罰も容易に受け入れてしまうというのです。

 しかしそんな打算的な理由だけで、体罰を容認するという説明は理解できません。これだけ厳しく非難される中で敢えて“体罰容認”の態度を明らかにするにはもっと理念的なものが必要です。そしてそれは体罰を含む厳しい指導が、自分一人では成しえなかった跳躍現象を果たしえたという思いなのです。

 子どもの成長は右肩上がりの一本線ではなく、不揃いの階段だというお話をしました。その不揃いの階段の大きな一段を上りえたのは、体罰を含むシゴキや精神的抑圧のおかげなのだと“容認派”の人々は考えます。成長の巨大な階段を一気に登り切ることは尋常ではありません。絶え間ない努力や勇気、異常な執念が必要です。しかしそれは自分一人の力では到底なしえない。それを(体罰を含む)指導者の厳しい指導が後押しをした。だから自分は成しえたのだ、そう感じるのです。

「体育系特有の理不尽な負荷が社会に出てから役に立った。折れない気持ちを得ることができた」。
「愛情のこもった厳しい指導のおかげで、今の基礎ができ、社会に対応できる精神が身についた」
「当時はチキショーと思ったが、今となれば社会の厳しさに打ち勝つような忍耐力が培われた」
「しんどいなと思ったことは何回もあったが、それ以上に負けたくないという気持ちが強く、(体罰やシゴキに耐えたおかげで)スキルが上がった」
 これらはいずれも産経新聞からとった“体罰を容認する”側の人々の意見です。

 こうした「個人のスキルアップのために自ら進んで苦痛を引き受けた。その結果価値あるものを手に入れた」という論理を突き崩さない限り、私たちの間に広がる体罰容認の雰囲気は消えずひいてはそれが体罰の温床になります。

 しかしそうなるとある意味答えは簡単になります。要するに、体罰やシゴキ、ある種の精神的抑圧といったものによらず、しかも短期的に心身を追い込んでいく仕組みをつくればいいのです。それは非常に高いレベルのコーチングスキルですが例はいくらでもあるでしょう。

 現状を見る限り“体罰容認”の雰囲気はそう簡単に消えそうにありません。しかし雰囲気は周囲に蔓延していてもいざ体罰となったら処分を受けるのは教員だけです。どれほど苦しい状況にあっても決して手を出してはいけないという点では、他の犯罪も体罰も一緒です。


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2013/2/4

再び、体罰の問題にについて@  教育・学校・教師


 大阪市立桜宮高校の生徒自殺事件始まった体罰問題の追及は、柔道のオリンピックコーチの事件にまで発展しなかなか終息に至りません。もちろん隠された体罰が続々と出てくるのが主な原因ですが、これまでの学校問題(いじめや不登校、学力問題など)とは異なり、世論が一致して“体罰はだめだ”とならないことも、この問題の居心地を悪くしています。追及の軸が揺らいでいるのです。
 なぜ一致して“体罰はだめだ”ということにならないかというと、これには二つに理由があります。

 ひとつは、子どもの悪行にも罰が必要だという懲罰論です。

 学校というところは罪と罰の関係が非常にあいまいなところです。かつてはそうではありませんでしたが、現在はそうなっています。
 私が子どものころはいくらでもあった体罰は(ゼロにはならないにしても)ほとんど行われていません。宿題をやってこなくても「宿題忘れ一覧表」みたいなグラフを掲示されて辱めを受けることはありません。公共物を壊しても、よほど明確な悪意をもってのことでない限り、弁済を求められることもないのです。罰としての廊下に立たされることも便所掃除もありません。あるのは教師たちによる辛抱強い説諭だけです。しかしそうした状況に対して、それでもやはり子どもは罰を受けるべきだという人がいるのです。そして有効な懲罰のアイデアがない以上、体罰があっても仕方がないと彼らは考えます。

 もう一つの理由は、多くの人々、特に体育会系の人々が、それによって何らかの利益を得た(あるいは利益をもたらすことができた)と信じるような経験をもっていることです。それは非常に神秘的な体験で、だからこそ人々はそれにしがみつきます。

 人間の能力が高まっていくとき、そこには一種の跳躍現象が起きます。能力の伸長は右肩上がりの長いだらだら坂ではなくいわば不揃いの階段で、長い停滞のあと突然ピョンと伸びるのです。

 スポーツの世界は特にわかりやすいのですが、たとえば170pという走高跳の記録を持っている選手は172pに記録の壁を感じています。170pは何回でも跳べるのにそのわずか2p上は絶対に跳べない、一貫してそうなのです。
 ところがある日、何かの事情で172pをクリアする。するとかつてあれほど苦労した172cmはなぜかいくらでもクリアできる平凡な記録になり、今度は174pが壁になります。能力が伸びるというのはそういうことの繰り返しです。

 野球でいえばこれまで打てなかったボールが打てる、バレーボールでいえばこれまで捕れなかったボールが突然捕れるようになる、サッカーやバスケットボールでいえばこれまで入らなかったボールが入るようになる、それらは常に突然のことなのです。

 こうした一種の超常現象を手に入れるために何をすればいいのか、選手はよく分かっています。それは異常な努力や勇気、そして自分が成し遂げることへの異常な執念です。
 ただし人間は弱い。それが目の前にあると知っていても、異常な努力や勇気・執念を自分一人で支えることは容易ではありません。
 そしてそこに第三者が現れます。
                                      (この稿、続く)


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