2013/1/31

正義のコスト@  教育・学校・教師


 2004年から2005年にかけて全国で立て続けに女児誘拐殺人事件が起こり、日本中に恐怖が広がりました。子どもには「人を見たら不審者と思え」といった最上級の警戒心を植え付け、学校職員による登下校パトロールが始まるとともに地域にも呼びかけ、数多くの「見守り隊」が組織されたのもこのころのことでした。

 当時私の勤務していた学校の隣では、集団登校を始めた小学校がありました。子どもを誘拐から守るための最善の策の一つと考えられたものです。しかしこの集団登校、その後かなり厄介なものになりました。
 長年伝統となっている集団登校ならいいのですが、にわかづくりの集団走行ではさっぱりまとまりません。低学年の子は年長者に従うという訓練ができていません。高学年の子には地域の子を引っ張ってくるという技能が育っていません。そのため毎朝毎朝200日に渡って高学年は「ちっちゃな人たち」に苦しめられ、「ちっちゃな子」は怒鳴られたり叱られたり、はたまた喧嘩をしたりとトラブルが絶えなかったのです。そのためある保護者は「集団登校のせいで集団不登校になりそう・・・」と言ったとか言わなかったとか。

 しかしだからといってその「集団登校」をやめることはできません。なぜならそれは正義だからです。
 不審者対策として非常に有効な方法ですから、やめるには相応の理由が必要です。やめた途端に誘拐事件でも起きたら、学校は何を考えて集団登校をやめたのだと非難の集中砲火を浴びることは明白です。ケンカやイジメが絶えないとしたらそちらの方を何とかすべきで、集団登校をやめる理由にはならなかったはずだと・・・。かくして「集団登校」は永遠の重荷となっていきます。

 集団登校という正義を果たすのにどれくらいのコストがかかるのか、そしてそれはパフォーマンスに見合うものなのか、あらかじめしっかり考えておくべきだったのかもしれません。



 先日テレビを見ていたら、海岸沿いのある小学校が地域の防災活動に取り組み、津波避難マップを作るとともに地域のお年寄りと一緒に避難する活動に取り組んでいるという話をしていました。お年寄りの一人は「もう足も弱って逃げるのもたいへんなので津波が来たら流されればいいと思っていた」と言いますが、女の子に励まされ、もう一度頑張ってみようという気持ちになったそうです。親戚でもなんでもない、単にご近所というだけの子どもが「タマちゃん、さあ逃げるよ」とまるで友だちのように声をかけ、長くもない坂を十分な時間をかけて一緒に歩いていく姿は、本当に感動的なものでした。

 しかしところで、その同じ番組を見て、「こんなことばかりやっているから日本の子どもの学力は伸びないんだ」と怒りを持った人はいなかったのでしょうか。

 授業時数を増やせば学力が伸びるというものではないかもしれませんが、そう信じている人は少なくありません。政府自民党は学校6日制の復活も視野に入れているといいますから、防災教育に費やす時間を算数や英語に振り向けるべきだという人は少なからず出てきそうなものです。しかしおそらくそうはなりません。なぜなら番組で取り上げられたような優れた防災教育は、子どもにとっても地域にとっても絶対に必要だからです。

 私もそれでいいと思います。しかし同時に、「その時間は算数や英語に振り向け、世界と戦える人材を育てるのに有効ない時間だったのかもしれない」という視点は残しておかなければなりません。なぜならそうしないと、「地域社会に溶け込み、地域の一員として地域のために働き、なおかつ世界と互角に戦えるだけの語学力と理数能力を持った人材を育てる」という、実に荒唐無稽な話になりかねないからです。

                                      (この稿、続く)


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2013/1/30

学校は理解されない  教育・学校・教師


 さまざまな不祥事や事件、いじめや体罰の報道を見ながら、いつも感じているのは一種言いようのない苛立ちというか、空しさのようなものです。学校は理解されていない、誤解というほどではないが微かで、しかも決定的な溝があって双方それを乗り越えることができない、そういう感じです。
 むろんそれは私たちがきちんと伝えていないためですが、何が溝で何をどう伝えたらいいのか、それすらもよくわからないのです。私の野心のひとつはその部分を探り当て、一つひとつ分析して外の人の分かる形にすることです。

 たとえばモンスター・ペアレンツが問題になった時、「俺たちだってクレームには年中さらされている」という返しがあったりします。それはその通りです。しかし何かが違う。民間企業の“彼”が受けるクレームと、学校が受けるクレームとではどこかが決定的に違い、それが教員を次々とつぶしていく、そんな感じがするのです。
 その差をきちんと説明できなければ「状況は同じなのに教員だけがつぶれていく、それは社会を厳しさ知らず、学校から学校に就職した人間の甘さのためだ」といった誹りを受けるしかなくなります。しかしよく考えてみましょう。

 企業人の彼が受けるクレームの大部分は企業同士のものです。そこには経験から生まれた法人同士の“落としどころ”があります。いわばパターンがあるわけです。またそれが大企業なら専門の担当者がいることもあります。いざとなればそちらに引き継げます。クレームの内容も商品を中心としたものですから“商品”の周辺で物事が運びます。最後は争点が“金の問題”となる場合が少なくありません。そうなると弁護士の出番ということもあるでしょう。

 しかし学校の場合、相手は常に“個人”です。その要求も落としどころも千差万別です。時には不満を述べるその人自身も“落としどころ”を見失っている場合があり、そうなると話も果てしなくなります。いやそもそも“落としどころ”のない場合の方が多いとさえ言えます。
 話の中心にいるのは“もの”ではなく“子ども”ですから返品や交換、あるいは作り直しで済む問題ではありません。また保護者との関係は少なくとも年度の終わりまで切り離すことも無視することもできないのです。それが学校の苦しさです。


 もうひとつ、
「教師は多忙だ」と言えばほかの業種から「俺たちだって多忙だ」という話になります。そこに嘘はないでしょう。サービス残業という言葉は私も知っていますし、保護者の話の中にも毎晩10時11時といったことはよく出てきます。一つの業務を延々と続けていかねばならないのです。しかし教員の“多忙”は意味を異にします。それは同時進行の仕事が多様だということなのです。

 一人の平均的な中学校教員を思い浮かべてみましょう。普通、教員は名刺を持ちませんがもし作るとしたらその肩書はこんなふうになります。
「○○中学校教諭・2年1組担任・社会科教員・バスケットボール顧問・生徒会整美委員会顧問・(教科)社会科係・社会科授業研究委員・(学年)修学旅行係・(校務)清掃係・職員厚生係員・PTA総務部員・△△市社会科同好会員・・・・」
 教員の“多忙”の中心的課題は長時間労働ではなく、そうした多様な立場を次々と切り替えバランスよくオン・オフにしなければならないという神経戦なのです。

 そんなこと、私たちがきちんと説明しなければ、だれもわからないことです。
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2013/1/29

残酷な踏絵  教育・学校・教師


 埼玉県をはじめとして、年度途中での退職金減額にともない、早期退職を願い出る教員が続々出てきたということがニュースになっています。
 マスメディアやネットでは、一方で無理なからぬことという意見もありますが他方であまりに無責任と非難する声も聞かれます。さて若い先生方、皆さんがその立場だったらどうされます?

 私は、おそらくとんでもない優柔不断に陥って悶々と日を送るうちに時期を逸してしまい、忸怩たる気持ちを抱えながらも表面的には「最後まで教職を全うしたりっぱな先生(辞めなかった部分だけ)」として退職すると思います。しかしたぶん深く傷ついています。
 長い教員生活の最後の場面で、こんな試され方をしたからです。

 定年退職まで現場にいると退職金を減額しますよというのは一種の早期退職勧奨です。早く辞めると得ですよという明確なサインです。しかしそれに応じると今度は「無責任のそしりを受けてもやむをえない」(上田知事)「決して許されない」(下村文科大臣)となります。つまりアクセルとブレーキを同時に踏まれているようなもので、車が傷むばかりです。

 これまでだって人事院勧告凍結だの公務員給与一律カットだの、一方的な減額は何度も味わってきました。今回も平成24年度退職者は一律に退職金カットとすれば、以前同様しぶしぶと従ったはずです。
 それをわざわざ「教職を全うした者は退職金150万円の減額」というのでは、まるで教員としての矜持を試されているようなものです。

 お前の教師としての誇りは本物か、いつも口にしていた仕事や子どもへの愛情は偽りではないか、本当に金のためではなく崇高な理念のために働いてきたのか。もし崇高な心から出たものなら(2月3月分の給与との差額である)70万円など平気で捨てられるだろう。そうではなく「金のため」といった卑しい心が少しでもあるのなら、70万円を受け取って学校から去るがいい。さあどちらだ、旗色を明らかにせよ
 そういうことです。

 中には責任ある立場の教頭先生まで早期退職してしまったと非難する人もいますが、私にはよくわかります。過酷な教頭職を最後まで全うしようと歯を食いしばり、カレンダーに×印をつけながら頑張ってきて最後にこの仕打ちでは心折れます。非常に苦しい学級経営を続け、あと数か月、何とか頑張ってやり遂げようと思っていた担任も、これ以上続ける気にはなれないでしょう。みんな60歳という、体力的にもしんどい人たちなのです。
 またそれとは別に、家庭の事情で70万円がのっぴきならない額だという人もいます。しかしそうした人たちはみな等し並みに「無責任」な「決して許されない」人たちなのです。

「クラス担任など責任ある立場の先生方は、最後まで誇りを持って仕事を全うしてほしい」(下村文科大臣)
 そう言われても、こんな仕打ちを受けてどう誇りを持ったらいいものか。

 長年日本の教育に心血を注いでくださったこれらの人たちに、相応の尊敬や感謝の言葉を与えず無意味に弄ぶ、そういう為政者たちに「道徳教育の充実」を迫られるのはなんともやりきれない話です。



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2013/1/28

マスクの科学  文具・道具・器具


 数年前、新型インフルエンザが初めて流行した時に全国のスーパーやドラッグストアから使い捨てマスクが消えてしまったことがありました。このマスク不足に際して、テレビに出ていた評論家(?)たちがこんなことを言っていました。
「インフルエンザウィルスはマスクの網目よりはるかに小さいからマスクなんて何の役にもたたない」
「本来マスクはインフルエンザにかかっている人がやればいいのであって、予防のためにやるなんて馬鹿げている」
「欧米でマスクなんてやっている人は誰もいない。マスクをかけていると強盗と間違えられる」
etc・・・

 私は「欧米では・・・」で始まることのほとんどは「間違ったこと」だと思っていますからそれだけでもマスクをする十分な理由になると思うのですが、その前の「かかっている人だけがやればいい」に至ってはほとんど絶句状態でした。だってマスクが何の役に立たないとしたら「かかっている人」がつける意味もないはずです。それに「かかっている人だけにつけさせる」なんて、どうやったらできるのか。マスク文化のないアメリカで実施することを考えただけでも分かりそうなものです。「私はインフルエンザにも関わらず外出してきた馬鹿者です」と自ら表示するようなこと、普通の感覚だったできるはずもありません。今の日本や中国のように、みんながつければ患者もつける、それが手っ取り早いやり方です。

 さて先週のNHKテレビ「ためしてガッテン」は、マスクがテーマでした。
 番組の冒頭で数名の被験者たちが日ごろ使っているマスクを持ち寄り、ウィルスと同じ程度の大きさの粒子が通過すかどうかの実験をします。その結果は惨憺たるものでした。一番効果のあった医療用マスクでも74%ほど、第二位が34.3%、第3位が10%。そしてなんと残りの3人はカット率0%、つまり全く防いでくれないという結果です。

 実際、ウィルスをゴマ粒大に拡大するとマスクの網目は20センチ四方くらいになってしまい、引っかかりようがないのです・・・というのが番組の前段、しかしやり方によっては90%以上効果が得られる場合がある、それが後段です。
 さてどうすれば効果が上がるのか。

 実は、マスクの網目がスカスカでもウィルスはカットできて当たり前なのだそうです。なぜなら網目は何重にも重なっていますし、そもそも粒子にはものにくっつきたがるという性質があるからです。市販のマスクが「99.9%除去」と書いてあるのは間違いではないのです。
 それがなぜ0%になってしまうのか―それは一にも二にも装着の仕方です。

 番組では鼻の位置にくるワイヤーを折って鼻梁の形に合わせ、横や下の部分に隙間ができないように押さえることで90%近いカット率を生み出す様子が放送されていました。1箱65枚入り(400円程度)のマスクで、最初カット率0%というショッキングな事実を突きつけられた女性は、耳にかけるゴム紐を短くすることもアドバイスされ、97%を越えるカット率をはじき出しました。

 ただし完璧な装着方法というのは首をちょっと動かすだけでも崩れてしまい、常時90%以上という訳にはいきません。
 そこで「ためしてガッテン」では、満員電車の乗るときや患者の近くにいるときとなどリスクの高いときには完全な装着を目指す、そうでないときには多少ずれることも気にしないというメリハリありあるマスクを提唱します。

 マスクは完全密着ででなくてもウィルス感染を防ぐ効果があるそうです。その一つは“保湿”。これによって喉や鼻の粘膜の線毛の働きを活発化し、侵入したウィルスを外に送り出すことができます。もう一つは私たちが無意識のうちにやっている鼻や口を手で触るという行為、これによって起る接触感染を防いでくれるというのです。

 最後のひとつは特にスジの通った話だと思いました。
 さあ、さっそくマスクを買いに行きましょう。 ガッテン!



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