2012/12/6

最初のことは忘れてしまった  教育・学校・教師


 しばらく前、田中文科大臣が認可申請していた3大学を認めずすったもんだした挙句、結局「この3大学については認めます」ということで鉾を収めた事件がありました。あの時、田中文科大臣の横暴に憤る声が多かったのと同時に、「しかし言っていることに間違いはない。日本の大学は多すぎる」という声もありました。この「大学の多すぎることに首を傾げた人」の大部分は、「結局大学が増えすぎて誰でも入学できるようになってしまった。だから大学生の質が下がった」そう考える人たちです。エリートだけが大学へ行けばいいとは言わないまでも、もう少し絞ったらどうか、そんなふうに考えています。しかしその人たちは忘れているのです。大学がこんなに増えてしまったのは、元をただせば大学生の質を上げようという文科省の施策があったからなのです。

 そもそも日本の大学は設置基準が厳しすぎる、アメリカでは校舎もなく教員もいず、論文を出すだけで学士号や博士号を授与する大学まであって問題となっているのに、日本の場合大学を新設するのは至難の業であり、そのことが大学の競争力を著しく削いでいる。認可基準を引き下げ、新しい大学が次々と生まれることによって大学間の競争を引き起こし、より高いレベルの大学教育を実現する。それで潰れる大学があってもそれは仕方ない、それが淘汰だ、とそんな論理のもとで制度改革が行われ、株式大学まで参入して話題となりました。
 その流れからすると田中大臣の不認可などとんでもない話で、「その考えにも一理ある」どころではありません。少しぐらいおかしな大学でもボンボンつくって競争を激化させる、それが道筋だったのです。

 こんなふうに、私たちは“最初の一歩“をすぐに忘れてしまいます。いや、私たちが忘れるのではなく、マス・メディアが忘れたようなふりをして目の前の事象を非難し、記事を売りまくるのです。

 悪評高い「ゆとり教育」だって、なぜこんなことが始まったのか、誰も思い出そうとしません。(また“そもそも”ですが)これは日本の子どもの国際競争力を高めるためのもので、児童生徒の「学力」を下げようというものではありませんでした。

 思い出してください。20年程以前、不登校やいじめ、非行や高校中退の原因はなんだと考えられていたのか。当時のマスコミを穿り出せば、答えはいくらでも出てきます。それは「受験中心の詰め込み教育」と「厳しい管理教育」の落とし子だったのです。この二つさえ解決すれば“学校問題”の大半は解消されるはずでした。

 さらに「21世紀の国際社会においてはもう日本式の詰め込み教育は通用しない、そこで必要とされるのは創造性や独自性であって、それらは総合的な学習によってしか生まれない」そういった論理から英語や数学の時間が削られ、「総合的な学習の時間」が生み出されてきました。

 授業内容が減らされることにも問題はありませんでした。
 内容を減らした代わりに残った部分は完全に定着させる、その方が現状よりはるかに高い学力が得られることになる。なぜなら内容を減らした分、“やることが多すぎて何もできない子”がいなくなるからだ。つまり“ゆとり教育”はそのものが日本の子どもたちの学力を高める教育なのである、そう説明されていました。

 けれど今や、そんなことはみんなが忘れてしまいました。総合的な学習の時間を賛美し、ゆとり教育を強力にバックアップしたはずのマス・メディアは、気がつくと“反ゆとり教育”の急先鋒です。

 来年度から指導要領改訂に伴い、高校の英語の授業はすべて英語のみで行われるようになるそうです。最近、それに対する懐疑的な報道が目立ちます。メディアはそろそろ新たな“反詰め込み教育“の準備を始めたようです。


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