2012/12/5

良き本を読むこと  芸術


クリックすると元のサイズで表示します 先週、「老後に“やればよいこと”のひとつは、同じ本をもう一度全部読み直して、新鮮に楽しむということです」とか書いたことが頭の隅にあったのか、土曜日に家を出る際、何の気なしに昔読んだ文庫本をバックに投げ込みました。重松清の短編集「ナイフ」。1999年に坪田譲治文学賞をとった作品です。

 私はその中の「エビスくん」という話に思い入れがあってよく覚えていたのですが、あとの4作品にはほとんど記憶になく、いつもの通り新鮮な気持ちで読めました(つい10年くらい前に読んだ本ダロ!)。しかしそれでもやはり2回目は2回目なのでしょう。記憶の中のこの本は、とても暖かい調子で書かれていたこと、人間の心の綾のよく描かれていたこと、子どもの心のよく分かる人の書いた本だと感じたこと、そういったものでしたが、今回再読して思うのは実に表現のうまい本だということです。1回目と2回目の、惹かれかたが違うのです。

 表現のうまさについて言えば、例えば第一話の「ワニとハブとひょうたん池で」で主人公がいきなり村八分になる場面で、

 ある朝目覚めたら毒虫に変身していた……という外国の有名な小説があるらしい。あたしはまだ読んだことがないけど、自分が毒虫になっていることに気づいたときの主人公の気持ちは、なんとなくわかるつもりだ。
 一学期の期末試験を数日後に控えた七月初め、あたしは一夜にしてハブになった。
もちろん、ヘビになったわけじゃない。村八分のパテブを略して、ハブ。(中略)要するに、つまはじきにされてしまったというわけだ。なんの前触れも、理由もなく。


 カフカの「変身」を持ち出して、あちらが毒虫でこちらがハブと、どうしてこんなにうまい符丁が思いつくのか。しかもそのカッコウいい思いつきをいつまでも引きずらず、さらっとやり過ごしてしまう。

 表題にもなっている第二話「ナイフ」では、いじめられっ子の父親が小さなおもちゃのサバイバル・ナイフを胸に、息子の敵と戦おうとする場面でつぶやく、「私はナイフを持っている」「ナイフがある」という言葉が効果的に、繰り返し使われています。

 その父親が、徹夜で飲み明かした朝、ブラインドを開ける場面では、
 ブラインドを全開にする。さえぎるもののなくなった陽射しが窓からあふれ、私は目を瞬いた。なにも見えない。まぶしい暗闇に、私は、敵の気配を探る。一人息子を狙う悪意と策略と暴力と罵りと虚勢といらだちと退屈を、歩哨のように凝視する。どこにいる。どこまで近づいてきた。そして、いつ、襲ってくる…。
 私はこの「まぶしい暗闇」という一言で参ってしまいます。そうだよな、徹夜した朝の光は「まぶしい暗闇」だよな、そこに凝らした目を向ける・・・。

 先週のデイ・バイ・デイで、風呂場の湿気にふやけてダブダブになった妻の本のことを「最後には本 がミルフィーユみたいになって」と書き私は悦に入っていたのです。「うまく言えた!」みたいに鼻が高かったのです。しかしプロはそんなことを事もなげにやってしまいます。いくらでも生み出して、しかもつまらないものを置くようにあちこちにまき散らします。常に一定水準以上の表現を思いつくのです。だからプロだとも言えるのですが。
 ではどうしたらそのプロの域に一歩でも近づけるのか。

 その方法の一つはやはりすぐれた作品をたくさん読むしかないのです。内容の面白い本、感動させてくれる本、ハラハラドキドキさせる本、いろいろありますがそれとともに「表現のうまい本」も読んでおく必要があります。
 先日、読書旬間の紹介のために読み直した向田邦子のエッセイもそうでしたが、優れた表現者から表現の方法を学ぶしかないのだと思うのです。




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