2012/11/30

本の愉しみ  いいこと

 最近はそうでもないのですが、若いころは本そのものが好きで、文庫本ですらとても大切にしていました。

 買ってくるとまず表紙を外して後ろの方から2ページずつ、全体の三分の二くらいのところまで折り開いて行きます。いきなり最初から読み始めると、最終的に背表紙が斜めになってしまうからです。そうならないように、予め逆の折り目をつけておくわけです。それが終わってからやおら読み始めます。


 全部読み終わると最終ページの裏に書名と著者名、読始・読了日を書きこみ、真中に蔵書印をボンと押します(書名・著者名なんて書く必要もないのに)。それから今度はカバーにフィルム・シートを張り付けます。これもうまくやらないと気泡が入ってしまうので慎重にやります。それにもかかわらず入ってしまった泡は、針で小さな穴を空け空気を抜きます。そしてゆっくりと書棚に納める。それが至福の瞬間でした。

 こうしたフェティシズムは女性には分からないみたいで、妻などは長湯のついでに本を風呂場に持ち込み、1時間でも2時間も読んでいたりしますから、最後には本がミルフィーユみたいになってしまいます。彼女にとって読み終えた本は中身のなくなったペットボトルと同じなのです。しかし見ている私は、自分の本でなくてもイライラします。


 私の部屋には6段のスチール棚が8台、同じく6段の文庫用が3台、それにいわゆるカラーボックスが4台あります。他に置き場所がないので納戸に隠したスチール本棚が2台あって、それらを全部合わせるとおよそ4000冊の本が入っています。私は人から借りた本でも読み終えると(つまり最後まで読むだけの価値がると)改めてその本を買ってしまいますから、16歳の頃から今日までに購入した本の、ほぼすべてが目の前にあることになります(そう考えると4000冊は決して多い数ではありません)。

 そのうち読み終えたものはどれくらいあるかというと、おそらく7割程度です。途中で「これはダメだ」と思って投げだした本もあるし、「○○市史」のように買わされたものもあります。何よりいけないのは「○○教育全集」とか「世界の歴史25巻」みたいなもので、まとめて買った本のほとんどが手つかずです。たぶん一生読まないでしょう。

 ただしその“結局読まなかった本”も含めてすべてが私の個性です。これまでの日々のそのときどき、自分が興味を持ったもの心魅かれたものの一覧が、背表紙のかたちで目の前に並んでいるのです。その一覧を見るだけで、私がどんな人間か分かります(ですから人には見せません)。


 そのずらっと並んだ背表紙を眺めていると、若かりし頃の思い出がいくつも甦ってきます・・・と書きたいのですが実はそうではありません。覚えていないのです。
 コンスタンの「アドルフ」という小説は私の青春の一冊で、2〜3回は読んだはずなのに(恋愛小説だったということ以外)まったく覚えていません。三島由紀夫の「豊饒の海」も「何か輪廻転生の話だったよなあ」くらいで何も浮かんでこない。
 最近で言うと、東野圭吾の「パラレルワールド・ラブストーリー」は四分の一ほど読んでからやっと「ああ、これ、やっぱり読んだことあるワ」と気づき、しかし結末も思い出せないので最後まで楽しんで読めた、という情けないのか、それでいいのか分からないような経験もしています。

 本当にやるかどうかは別にして、老後に“やればよいこと”のひとつがここにあります。

 同じ本をもう一度全部読み直して、新鮮に楽しむということです。


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