2012/10/31

ガセネタ列伝  言葉


 人から聞いて「ああそうだったのか!」と膝を打ち、感動のあまり他にも吹聴して回ったらそれは全くのガセだった、というような経験がいくつかあります。今日はそれについて。


【アジサイの花の色はリトマス紙のように土壌の酸性・アルカリ性によって決まる】
 植物になんかまったく興味のなかった時代に仕入れた話。教師として子どもにも教えてしまった。
 ところがある日、子どもの一人が「じゃあ同じところにピンクの花と青い花があるのはなぜ」、別の子が「お祖母ちゃんにその話をしたら、あれは時期によって変わるんだよ、だから別名『七変化』って・・・」
 それで調べてみたら、お祖母ちゃんの言うとおりでした。大恥をかきました・・・が、それ以上に問題なのはたくさんの児童生徒に話をしてしまい、多くが信じたまま卒業してしまったことです。

 この話には続きがあります。のちにインターネットが普及して改めて調べる機会があったのですが、それによると、
 アジサイは土壌のpHによって色を変える。ただしリトマス紙と反対で酸性土には青、アルカリ性土には赤。日本の土壌はほとんどが酸性なので青い花が多い。アジサイの花は蕾から花落ちまでの変化の中で色を変える。だから七変化と呼ばれる。しかしこのことは土壌のpHとは何の関係もない
のだそうです。どこがガセだったかわからないような話です。


【除夜の鐘は百八】
 仏教の教えに四苦八苦というのがあります。四苦というのは「生・老・病・死」、それに「愛別離苦(あいべつりく:愛しているのに別れなければならない苦)」「怨憎会苦(おんぞうえく: 怨み憎んでいる者と一緒にいなければならない苦)」など四つを追加して合わせて八苦です。
 除夜の鐘はその四苦(4×9=36)と、八苦(8×9=72)、合わせて(36+72=)108、だから除夜の鐘は百八つ。

 これも喜んであちこちふれて回ったら全くのガセでした。考えてみたら四苦を(4×9)とするところですでにかなり嘘臭い話です。しかし、それにしてもよくこの計算式に気づいたなあ・・・。(本当は、人間の六感が捉える六つの感覚の組み合わせは6×6の36通り、それが過去・現在・未来の三期に続くので36×3=108というのが有力な説のようです)


【203高地】
 かつて「203高地」という映画が製作されたとき、駄洒落でもなんでもいいから「203」を説明せよという映画会社の企画がありました。その、ものすごくたくさんの回答の中に一言、「素数」。
 ものすごく感心しました。3ケタの素数まで覚えている人がいるのです。

 これも興奮してあたりに触れ回ったら友人の一人がポツリ、
「それ、7で割り切れるだろ」
 なんで私は試してみなかったのか・・・。


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2012/10/30

非違行為と受忍限度そしてアン・サリバンA  教育・学校・教師


 非違行為防止、綱紀粛正を極限まで推し進めていくと正常な教育活動ができなくなるというお話をしました。そしてその矛盾を解決するカギは「受忍限度」という考え方だというところで昨日のお話は終わりました。つまり「九九を暗記する苦しみ」と「九九を覚えないためにのちに受けるだろう苦しみ」とを比べると、前者の方がまだ「我慢できる範囲内にある」から強制してもいいと考えるのです。この「我慢できる範囲」のことを受忍限度と言います。

 その考え方に立てば、部活顧問の携帯の中に保護者の電話番号が入っていることも受忍限度内です。なぜならその携帯を紛失して個人情報が悪用される可能性およびその影響と、持っていないことによる危険性とその影響(急な日程変更への対応の遅れ、遅刻した生徒への対応ができない、生徒のけがへの対応が遅れる等々)、この二つを比較すると後者の方が圧倒的に深刻だからです。
 テスト中に眠ってしまった子は起こしてやればいいのです。そんな状況でも声をかけてもらえない子は不幸です。ただし中学校3年生の実力テストなどでは「本番と同じ厳しさでやる」と宣言して寝た子はそのままにしておくこともあります。

 制限速度40km/hの一般道を制限通りに走る車はそうはいません。警察車両ですら15km/hオーバーで走っている事実を私は知っています。そうしないと無用な渋滞を引き起こしてしまうからです。しかし20km/hオーバー、30km/hオーバーだと話は別です。それは受忍限度を越えてしまうと常識は教えます。また15km/hオーバーで走っていても、無事故ならいいのですが事故を起こせば15km/h超過の責任を問われます(だから他の車のドライバーをイライラさせても制限速度を守るという考え方は当然あります)。
 公式には制限速度は1km/hの超過も認められません。警察もダメだというに決まっています。同じように、少しでも人権蹂躙と疑われそうなことは認められません。個人情報の扱いやテストへの取り組みは冷徹なほど厳正でなくてはなりません。それが公式のアナウンスです。

 しかし同時に、「正しいこと」「正義」について考えるとき、内田樹のいう、
「その正義を全員が真面目に守ったら、みんなは幸せになるのか」
 という観点も忘れてはならないのです。

 ヘレン・ケラーの家庭教師のアン・サリバンはこんなふうに言っています。
「彼女が私に服従することを学ぶまでは、言語やその他のことを教えようとしても無駄なことが、私にははっきりわかりました。私はそのことについていろいろなことを考えましたが、考えれば考えるほど、服従こそが、知識ばかりか、愛さえもがこの子の心に入っていく門戸であると確信するようになりました」
 ヘレンに会ってわずか数日後のことです。しかしこの絶対服従を求める家庭教師は同時に、生徒の成長にいちいち小躍りして喜びの声を上げるような人でした。

 現代の日本にもサリバンのような教師はいくらでもいます。そういう人たちが非違行為の訴えを恐れるあまり、必要な教育を控えるのはゆゆしき問題です。しかしだからといって皆が次々と訴えられ、優秀な教員が一人また一人と現場から消えてしまうのも困ります。

 崖っぷちの教育ということにもなりかねませんが、必要なことは粛々とやっていくべきでしょう。



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2012/10/29

非違行為と受忍限度そしてアン・サリバン@  教育・学校・教師


 先週の非違行為研修「今では許されない」(と勝手に名前をつけていますが)、やって本当によかったなと思いました。
「連絡網を外に持ち出す」
「通知票を家で書くために成績物を持ち出す」
「罰としてトイレに行かせない」
「密室での一対一の生徒指導」
 こうしたことが許されないのはもちろんですが、
「体育の授業でまじめに走らなかったので他の子より多く走らせる」
「宿題をやってこなかったので授業中にやらせる」
「抱きついてきた児童を拒まない」
「嫌いなものを食べられるまで強制する」
などはつい最近まで平気でやってきたことです。
 しかしこれらを非違行為とすべて排除することは果たして可能なのでしょうか。

 先生が大好きで飛びついてくる子を拒否するのはなかなか難しいことです。それに世の中にはしっかと抱き締めてやらなければならない子もたくさんいます。私はそんな子を何人も見てきました。「いい子だね」と言って頭を撫でられると嬉しくて仕方のない子もたくさんいます。中学生だってそうされるのは好きなのです。

「嫌いなものを食べられるまで強制する」も確かに人権蹂躙ですから慎むべきでしょう。しかしだとしたら「苦手な九九を暗記できるまで強制する」はどうでしょう。「嫌いな英語を話すよう強制する」はいかがです?
 算数も英語も給食もすべて学校の指導領域です。特に“食育”は近ごろ強く叫ばれるところですし、極論を言うと、計算や英語なんかできなくてもきちんとものが食べられれば生きてはいけます。あれはイヤこれは食べられないでは健康な生活が送れるはずもありません。

 さらに非違行為として、「子ども同士、あるいは家庭を巻き込んでのトラブルの仲裁で、子どもや家庭の事情を説明して納得してもらう」といったものが上がってくると、もう怖くて仲裁などできません。実際、「先生はなぜ、ウチの事情をあちらに勝手に話したんですか」と非難されることはいかにもありそうですし、そう非難されれば抵抗しようがないのも事実です。

「部活の顧問が保護者の電話番号を携帯に入れたまま持ち歩いている」これはどうでしょう。
 電話番号つきの名簿は個人情報の塊ですから外に持ち出せないのはもちろんですが、携帯の中に入っているものもダメだとなると急な連絡は一切できなくなります。部活中にケガをしても保護者に知らせることができません。

 さらに「テスト中に寝てしまった子を起こすのは試験の公平性において問題がある(だからやってはいけない)」というのはどうしょう。非常に納得がいきませんが、これとて「自己責任で眠った子を起こすのは教師が特定の子を支援したのと同じだ」と言われれば、引くべきことなのかもしれません。

 しかし実はこうした難問も、解くカギがあるのです。
 それは「受忍限度」という考え方です。

「苦手な九九を暗記できるまで強制するのは人権を無視することだからダメだ」という人はほとんどいないでしょう。なぜいないかというと、「九九を暗記する苦しみ」と「九九を覚えないために、のちに受けるだろう苦しみ」とを比べると、前者の方がまだ「我慢できる範囲内(これを受忍限度という)にある」と考えられるからです。
   
                          (この稿、続く)
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2012/10/26

文具自慢A  文具・道具・器具

〜ちなみに「文具自慢@」は4月17日でした。

 授業研究会でU中学校を見てきました。その授業の様子は先日お話しした通りです。
 校舎は築67年という古いものですが「古い校舎をきれいに使う」の合言葉の通り、生徒の素晴らしい美術作品があちこちに展示され、掲示物も凝ったものがたくさんありました。

クリックすると元のサイズで表示します 右の写真は週歴を壁に掲示したものです。水色の台紙の上に重ねて添付されているのですが、よく見たらこれがフラットファイルなのです。
 普通にプリントをまとめてはさみ、横にしてぶら下げたかたちで壁に貼ってあります。ファイルの表紙の部分は三分の一ほどを切り取って残りを四つにたたみこみ、四角の筒状にしてそこに表題を張ります。そんなものが「学校だより」だとか「保健だより」だとか、五つも六つも並んでいるのです。
 私だと画鋲で何枚も重ね張りしてしまうのですが、それだと鋲で開けた穴が次第に広がって何ともみっともないものになってしまいます。それがこのフラットファイル型だといつまでもきれいなままです。
 基本的にファイルの内側だけを使いますので、使い古しの再利用で十分です。早速学校に戻ってから自分でも作ってみました。

  
クリックすると元のサイズで表示します もう一つ感心したのは左の写真です。単なる白紙に見えますが実は白紙をラミネートして裏にゴム磁石をつけ、黒板に張れるようにしたものです。
 これは何かというと、簡易ホワイトボードなのです。
 水性サインペンとともに一人につき一枚・二枚配ります。生徒はここに数式を書いたり仮説を書いたりして黒板のところまで持って行き、掲示します。
 これだと紙がムダになりません。黒板に掲示するのもワンタッチです。ラミネートフィルムの上に水性サインペンですから消して何度も使えますし、もし枠や罫線が必要ならそれを印刷してラミネートフィルムに挟めばいいだけです。
 私は以前お話しした通り、ラミネートフィルム大好きの“ラーミネーター”ですが、こんな使い方があるとは思いもしませんでした。

 この二つ、あまりにも嬉しかったので妻に自慢したところ、
「両方とも知ってる、こんなの特別支援学校にはいくらでもある」と、けんもほろろ。
 たしかにありそうな話です。
 今度そうした視点で見学に行ってこようかと思いました。




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2012/10/25

残酷な正義について  教育・学校・教師


 どういう設問だったのかどうしても思い出せないのですが、たぶん「1333年は何世紀でしょうか」といったような問題だったと思います(ただしそこまでマヌケな問題ではなかったはずですが)。

 授業の空き時間に採点していると、ある生徒の答えが「B」だったのです。前後を見ても選択問題はなく、なぜ「B」と書いたのかさっぱり分からないので休み時間にその子を呼んで訊ねてみました。すると生徒は「やーだ先生『13』、『13』って書いたのに・・・」とのことでした。1と3をくっつけ過ぎていたので「B」に見えたのです。
 もちろん答えは14世紀ですので「×」でかまわないのですが、もし答えが13世紀であった場合、事情を聞いて納得した私は「B」に見える「13」を正解にしてもよいのでしょうか。もしかしたら他のクラスでもそっくりなことが起こり、そちらの子の教科担任は不思議とも思わず、「×」にしているかもしれないのです。

 他の教科も似たり寄ったりなのかもしれませんが、テストの採点というのは世間で考えるほど簡単ではありません。例えば「墾田永年私財の法」が正答の場合、次の回答はどう判断すればよいのか。
「こんでんえいねんしざいのほう」
「こん田永年私財の法」
田永年私財の法」
「墾田永年私財の
「三世一身の法」
そして無回答。

「三世一身の法」と無回答が「×」なのは当たり前ですが、「田永年私財の法」はやっかいです。「墾田」などという、非日常的で国語でも習っていない字を一生懸命覚えたつもりで、しかし間違ってしまった、その子の答えを無碍に「×」にしていいものか。しかしこれを「△」として部分点をあげたとすると、当然「墾田永年私財の」も「△」をくれと言ってきます。しかし「法」を「方」と書くのは「墾」を「懇」と書き間違えるのとでは意味が違います。それが法律だと分かってないということだからです。

 さらに「こん田永年私財の法」は“どこも間違っていない”という意味では正答ですが、これに「○」をしてしまえば苦労して漢字を覚えてきた子は浮かばれません。「こんでんえいねんしざいのほう」となるとほとんど殺意を覚えます。しかしその子とて、この難しい言葉を一生懸命暗記してきたには違いありません。

 この難しい問題をクリアする方法は二つしかありません。
 ひとつはすべての回答に採点基準をつくることです。子どもの発想はユニークで何が出てくるかわかりませんから、前もって基準表を用意することはできないでしょう。ですからすべての採点が終わったところで教科担任が集まり、一つひとつを検討の上、正答は5点、全部ひらがなは2点、漢字一字のひらがなあるいは誤字は3点といった具合にそろえるのです。しかしそれをしたからと言って、「全部ひらがなは正答の6割引き」に論理的な説明ができるわけでもありません。「墾」の間違いは―2点、「法」の間違いは―3点と言っても納得させるのは厄介です。

 もう一つの方法は何かというと「必要な漢字を使った正しい答え以外はすべて『×』にする」と最初から宣言してその通りにしてしまえばいいのです。「墾田永年私財の法」以外はすべて「×」―そうすれば公平性は保たれ、一片の揺らぎもなくなります。
 しかしそれでいいのでしょうか。
 そんなやり方は教育ではありません。“情”がなさすぎます。

 実は採点の揺らぎというのはほとんどが“情”によって生み出されています。教師の「一点でもでも多く取らせたい」という願いが、採点基準を揺るがせるのです。以前は「そうした揺らぎは、全体としてはすべての子どもに平等に訪れる」という擬制のもとに許されていました。今回は訪れなくてもいつかは来る、ということです。

 しかし現代はそういうことも許されません。“優しい不正”よりも“残酷な正義”の方が重んじられるのです。

 学校は冷徹な執行機関となりつつあります。


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2012/10/24

不審者対応訓練のこと  教育・学校・教師


 あちこちにクマが出た、イノシシが出た、シカが走り回ったという話がありますが、このところ不審者の出没も頻繁になっています。

 よく誤解されますが、不審者、特に露出狂は冬場に出やすいということご存知ですか? 理由は「コートを着る機会が多いから」だそうです。

 さて、私は男なのでうまく想像できないのですが、女性の先生方は間近で露出狂に出会ったらどんな反応ができるとお思いですか? あるいはいきなり触られるとか腕を掴まれるとかいった状況で、ご自分は何ができると想像されるでしょうか?

 破廉恥漢ではないのですが、娘が高校生のころ、自転車に乗っていて自家用車と接触事故を起こしたことがあります。青信号で横断歩道に入ったところ、右から乗用車がかぶさってきたのです。幸い娘も左に急ハンドルを切っていたので倒されることもなく、いわば一緒に並んで左カーブを切る感じで停まりました。そのとき自家用車の側面に頭をぶつけたのですが出血するほどではなかったようです。
 ドライバーが降りてきて、大丈夫? けがはしていない? どうする? 病院に行く? と続けざまに質問を浴びせてきたそうですが、娘の頭の中にあったことはただ一つ、「この車に乗せられてはならない」だけだったようです。

 かつて奈良県で知り合いの女子中学生にわざと車をぶつけ、けがをしたところを車に連れ込んで結局殺してしまったという事件がありました。ですから「車に乗せられてはいけない」は一方の見識です。ただし「大丈夫です」と答えてその場を離れた2〜3時間後、急で激しい頭痛に襲われた娘は、結局病院に運ばれて詳しい検査を受けることになりました。その費用は私の保険では賄えないので(事故加害者の責任だそうです)、結局4万数千円を自腹で払うはめになりました。警察に言っても“高校生にもなっているのだから最初の段階でしっかりやれよ(それにけがもしてないし)”といった感じで取りあってくれません。たしかにそのくらいは教えておかねばならなかったのかもしれません。

 さて、不審者に出会ったとき、事故にあったとき、あるいは逆に人にけがをさせたり物を壊してしまったとき、何をどうしたら良いのか。

 娘の場合その程度で救急車を呼べ、警察に連絡しろとは言えなかったでしょう。本当は「あとで何かあったらいけませんから、一応名前を控えさせてください」とか言って名刺をもらうなり免許証を控えさせてもらうなりすれば一番良かったのです。しかしそれも高校一年生の女の子には難しそうです。だとしたらできるのは「ちょっと待ってください。父に連絡してみます」くらいのことです。それでいいのです。

 小学生や中学生で携帯がないのなら、
「済みません。携帯貸して下さい。ウチに連絡してみます」
 何かあったらとりあえず親に相談する―それは最も優れた方法です。

 では痴漢や暴漢に出会った場合はどうするのか―とりあえず相手がひるむくらいの大声が出せる練習ぐらいはしておくべきでしょう。いやその前に、見知らぬ人との間の危険な間合いといったものを熟知させておく必要がありそうです。

 来年の不審者対応訓練、そんなことはできないでしょうか。


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