2012/9/28

「死戦期呼吸」〜その子はいま、心停止なのに深呼吸をしている  教育・学校・教師


 昨日の朝のニュースで見たのですが・・・、

 昨年の9月29日、埼玉県さいたま市の市立小学校で駅伝の練習中に11歳の女児が倒れ、救急車で搬送されたものの翌日死亡が確認されるという事故がありました。このとき問題となったのは救急車が到着した際すでに女児は心肺停止の状態であったにも関らず、それまで現場にいた9人もの教職員が何の手当てもしていなかったことです。AEDはまさにその保健室にあったというのに。
 なぜ手当てをしなかったのかというと、9人は女児がまだ呼吸をしていると思い込んでいたのです。

“心肺停止なのに呼吸をしている”、この状況を説明するのは「死戦期呼吸」という反応です。心停止が起こるとおよそその半数は「死戦期呼吸」という「呼吸」に似た反応を起こすのだそうです。「あえぎ呼吸」と言っていいような呼吸で、大きくからだをそらし、深く息をしているように見えて実は呼吸をしていません。その回数も1分間に数回と極端に少なくなります。しかしそうした知識がないと、それも生きている証のように見えてしまいます。先のさいたまの教職員が陥った罠もそれです。

 9人の教職員は倒れた直後の女児の脈を見、呼吸を確認し、その直後に起こった心停止を見逃して「死戦期呼吸」を「だいぶ乱れて入るがまだ呼吸が止まったわけではない」と勘違いしたのです。繰り返しますが「死戦期呼吸」は“心停止のサイン”であって、“生きている証”とは正反対のものなのです。
 そんな反応があるなんて、今まで何度も心肺蘇生法を受けたのに聞いたことがありません(今年の心肺蘇生法講習会に出ていませんので、その場で話が出たとしたら知らなかったのは私だけということになりますが)。

 こうした、文字通り“致命的なミス”を防ぐ方法は、意識のない人間の脈と呼吸を継続的に観察すること、そして何と言ってもAEDなのだそうです。AEDは停止した(正確にはそうでないらしい)心臓を蘇生させる機械ですが、意識を失った人間の心臓モニターとしても働きます。むしろ心臓が動いているうちから使うべきものであって、そもそも心停止を確認してから取りに行くようでは遅いのです。 

 事故の時はもちろん、いきなり倒れて意識がないようだったらとりあえずAEDを取りに走り、呼吸や心拍が少しでもおかしいようならパッドを貼付してモニターを始める、そのくらいでなければいけないようなのです。

 ついでに、

 先の番組では救急車要請のために校長を探しているうちに時を過ごしてしまい、結局手遅れになったという例も挙げていました。救急車の要請は学校長の判断で行うものですから、校長を探すのはスジです。しかしスジを通すにもほどがあります。

 意識不明・心肺停止といった状況は一分一秒を争うものです。迷わず119番に電話して救急車を要請します。それで文句を言うような校長(ほとんどいないと思いますが)だったら、深く頭を下げて謝り、下を向いたままベロを出していればいいのです。そんな校長なら連絡が遅れて万が一のことがあったら「なぜすぐに救急車を呼ばなかった」と怒るに決まっていますから。

 もっとも大切なのは子どもの命です。



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2012/9/27

折り返し  教育・学校・教師


 毎年同じことを書く季節ネタです。

 今月は月末が土日ですので明日28日が学校としての9月の最終日です。次に登校する月曜日は10月1日で、わずか三日の差ですが、非常に意味ある三日間です。というのは9月末日は年度の折り返し点だからです。9月30日をもって、本年度の前半が終わります。そして月曜日からは後半に突入です。

 中学2年生にとってはこの日が中学校生活の折り返し点となり、そろそろ卒業後のことを真剣に考えなくてはならなくなります。進路のことはもちろん、学力的・人間的にこのまま中学校を終えていいのか思案のしどころです。

 小学校5年生は・・・全くピンとこないと思いますが、この日をもって義務教育9年間を折り返します。私はかねてより6・3制に代わる4・5制を提唱していますが、その考え方によれば小学校5年生は子どもでいることより、大人の予備軍としての力をつけ始めるときです。日本の子どもは10歳前後から抽象的思考ができるようになると言いますし、実際算数などは国際的に見れば基礎数学のレベルに入ってきています。大人になるための勉強を始めるにふさわしい年齢なのです。外見上も、5年生は小1と同じ学校にいるより中3と同じ学校の方が良いように見受けられます。

 そしてすべての学年の子どもたちにとって、10月1日はその学年の後半への突入です。今の学年にふさわしい子になっているでしょうか、半年後に一つ上の学年になる準備はできそうでしょうか。少し考えさせたいところですね。




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2012/9/26



「いじめに対して、教師は絶対に許さないという毅然とした態度で臨むべきだ」という言い方があります。私はこれがよく分かりません。

 とりあえずそれはさておき、
 8月15日に香港の活動家14人が尖閣諸島の魚釣島に上陸したとき、識者・評論家・政治家・マスメディアは一斉に「及び腰の『配慮外交』ではなく、毅然とした対応を望む」といった発信をしたはずです。それに応えて野田首相が、8月23日の衆議院予算委員会で「領土・領海をめぐり生じる事案は、不退転の決意で毅然と対応していく。これが基本的な方針でございます」「警備態勢の強化などを図るとともに、国際社会において、わが国の立場を積極的に主張する」と述べ、強い態度で領土・領海を守る取り組みを進めていく考えを示しました。

 その上で毅然と尖閣諸島を国有化したら、ご存知の通りの中国の猛反発。するとメディアは「尖閣諸島の国有化がこうした中国の反発を招くということは予想していたか」と言いだし、首相が「ここまで大きな暴動など過剰な反応が起きる予想はなかった」と答えると、何と暗愚な宰相・・・といった論調になっていきます。

 そもそも「及び腰の『配慮外交』ではなく、毅然とした対応を望む」と言っていた人たちは、具体的に何をどうやることを望んでいたのでしょう?
 毅然というのは「意志が強く動じないようす」だそうです。
 尖閣について言えば、外国人に買い取られぬよう国有化し、尖閣諸島は日本の領土だとあらゆるところで宣伝し、そのために中国で反日デモが起きようが不買運動が起ころうが、経済制裁を受けようが軍事的圧力を受けようが、意志を固くして絶対に動じない、それが毅然とした対応であって、そのことを大部分の識者やマスメディアは望んだはずです。

 話を戻して「いじめに対して、教師は絶対に許さないという毅然とした態度で臨むべきだ」に当てはめると、「教師は絶対に許さないという『意志が強く動じないようす』で臨むべき」ということになります。しかしその具体的な意味は何なのでしょう。
 私にはそれは尖閣と同じように、相手の出方いかんに関らずどんな犠牲を払っても絶対に許さないという線を崩さないということのように感じられます。
“加害者”のどんな説明や言い訳にも耳を貸す必要はない、その保護者の訴えにも引いてはならない、“いじめ”は“いじめ”として厳しく極めつけ適切に処罰しなければならない・・・。そこには「“いじめ”で被害者に落ち度があるということは絶対にない。いじめる側が100%悪い」といった一方的な見方が背景にあります。

 私だって「被害者が悪いからいじめられて当然」といった考え方には与しません。しかし人間関係に100:0があるといった考え方も採用しません。“いじめ”の相はもっと複雑で「いじめは許さないという毅然とした態度」で臨めるような単純なものではないのです。

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2012/9/25

反抗期は終わった  教育・学校・教師


「たかじんのそこまで言って委員会」に最近レギュラー入りした津川雅彦さんは、二言目には「日教組が日本の教育をダメにした」といったことをおっしゃいます。しかし日教組は今や組織率26.2%。学習指導要領を無視して日本の教育を大きく動かす力など、良くも悪しくもどこにもありません。
 それは確かに組織率の高い県も影響力の強い県も過激な県もありますが、世情言われるような特異な教育を実現できる県など稀です。だから“日教組”をキーワードに日本の教育を読み解こうとする教育論を、私は信じません。
 同様に“反抗期”をキーワードに子どもの成長を読み解こうとする考えにも、私は与しません。第一次反抗期はともかく、第二次反抗期などとっくの昔になくなっているからです。

 第二次反抗期というのは、「親や教師が体現する社会の枠組みや価値体系」と「強く育ってきた子どもの自我」とが激しくぶつかり合う状況で、大人から見れば“反抗”、子どもの側から見ればいわば“革命”です。したがって大人が価値感を強制しないか、子どもたちが強い自我を持たなければ(あるいは両方同時に起これば)、第二次反抗期は起きようがないのです。
 そういう目で社会を見れば、事態は明らかです。

 これだけ世の中がお子様中心になり「自分の将来は自分で決めなさい」みたいになると、子どもは革命の対象を失います。子どもたちに被さって抑え込もうとする力があまりにも弱いのです。怒鳴ったり殴ったりやたらうるさく言って子どもに言うことを聞かせようとする大人など、今やどこにもいません(もっと巧妙になったとも言えますが)。そんな状況では社会の枠組みや価値体系の強制どころではありません。

 他方、子どもの方にも問題はあります。つい今しがた“強く育ってきた子どもの自我”と言いましたが、言っている端から「これって、あるのか?」という気になります。自我の定義は山ほどありますが簡単に言ってしまうと“自分は自分であるという強い意識”のことです。「他の人間たちと一緒くたに扱われたくない、自分は自分として尊重される権利がある」という強い自負心・自尊心・自己肯定感のことを言います。
 そう言ってみると、こちらの側からも第二次反抗期など起こりようのないことが分かります。自負心・自尊心・自己肯定感の“弱さ”、こそが現在の子どもたちの重要なテーマだからです(もちろん“強い自我”のかけらくらいはあります。“普通の子ども”と違った服装をしたり化粧をしたがったりするのはまさにそれですが、言ってしまえばその程度です)。

 もっとも現在だって、ひねくれた、可愛げのない、素直でなく、時にふてぶてしく反抗的な子はいます。しかし彼らの“反抗”は「大人の価値」と「強い自我」のぶつかり合いといった激しいものではありません。“反抗期”といった期間限定のものでもありません。小さなころからずっとわがままで、素直でもなかったのです。

 ですから親御さんが「反抗期だから仕方がない」とか「今はそっと見守って」というのはとんでもないことで、台風のように行きすぎるのを待っていても去ってくれません。指導すべき時に必要な指導をしておかないと、とんでもないことになります。保護者にはそう言っておきましょう。

*今回この文を書くにあたって、もう一度“第二次反抗期”について調べようと思って当たったらWikipediaにも書いてありませんでした。あの何でも載っている(載せたがる)Wikipediaにその項がない! 本当に“反抗期”はなくなってしまったのかもしれません。


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