2012/8/31

8月が終わる  教育・学校・教師


 やるせない8月が終わります。
 やるせないは「遣る瀬ない」と書き、進んでいくべき浅瀬がない、つまり川などの中ほどで途方に暮れている様を言います。

 いじめ問題に教員不祥事、これらが新聞に載らない日がないくらい。同じ教員の許しがたい犯罪、致命的なミス。いくら対応しても、いくら対応しても、いくら対応しても終わることがない。しかし私のやるせなさはそうした徒労感・空しさとはちょっと違っているような気がします。

 調べてみますと不祥事の中心は40代から50代、十分に分別があり妻子があり、失ってはならない財産もキャリアもある人たちです。そしてこの人たちは必ずしも教員の世界で日蔭者というわけではなく、かえって実力を認められ、生徒や保護者からの評判も良かったりする人たちなのです。なぜそんな人たちが、子どもでもしないようなつまらない犯罪に手を染め、教職から去って行くのでしょう。なぜそんな気になったのでしょう。なぜバレないと思えたりしたのでしょう。
 もうこれは病気だとしか思えない・・・、そう考えてふと立ち止まったのは全国で9000人にもなろうとする病気休職者たちのことを思い出したからです。そのうち60%ほどが心の病気による休職です。20年前に1000人程度しかいなかった心の病気による休職者は、2006年に5000人の大台を越え、それからずっと5000人台後半を維持しています。毎年これだけの同僚が苦しみに苦しみを重ねた挙句、私たちの周囲から消えているのです。

 繰り返される教員不祥事も、もしかしたらどこかで繋がっているのかもしれません。一種の社会的自殺です。心のバランスがめちゃくちゃなのです。

 教員の心の病気の原因について、よく多忙感が挙げられます。しかし忙しいのは今も昔も同じです。教員は時間が余ればその分を教材研究(行事の計画を含む)で埋めてしまいますから、忙しさは変わりないのです。変わりようがありません。しかし教員の置かれている状況は確実に変わりました。

 総合的な学習、生活科、小学校英語。学校で教える内容は“ゆとり教育”の時代にさえも増え続けました。不登校もいじめもここ二十数年の指導内容で、それ以前はほとんど問題にはなりませんでした。学校に求められるものは飛躍的に多くなり、教師に要求される倫理も非常に高くなっています。かつては体罰や罵声によって解決していたものが、丁寧な言葉の指導に替えられました。授業の質もずっと高くなっています。そして教師は追い詰められています。たぶんこの傾向は将来も変わりません。

 次々と社会的自殺に追い込まれる教員たち、そのイメージが私のやるせなさは、たぶんそこからきています。


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2012/8/30

美しいことば  教育・学校・教師


 例えばドイツ語は固く、フランス語は半分融けかかってビチョビチョ、イタリア語は軒や地面ではぜる雨音、ハングルは北朝鮮の国営放送の影響かやたら大仰で、最後は重々しくぴょんと跳ぶ“スムニダ”、そんな印象を持っています。

 フランス語に戻ればこれは世界一美しい言葉だという人がいますが、私はそうは思いません。やっぱりビチョビチョした感じがいやなのです。

 私が今考えているのは、果たして日本語は外国人の耳にどんなふうに響いているのかということです。何しろ日本人ですから日本語を聞けばみんな意味が分かってしまう。しかしそうではなく、ほんとうに純粋な音としてどんなふうに響くのかということです。

 これについて中国の日本寄りブログに「日本語ほど美しい響きを持った言葉を知らない」といった記述があったので気分を良くしていたのですが、なかなかそうはいきません。数学者で大道芸人もあるタレントのピーター・フランクルさんは「テレビ寺子屋」でこんなふうに言っていました。

「私は、ハンガリーの映画館で黒澤明の映画などを見ていましたが、そのころは『です』や『ます』ばかりが耳に残って決して美しいとは思えませんでした」
 なるほどね。私がハングルに対して「スムニダ」ばかりが気になるのとまったく同じです。

「日本語ほど豊かな表現をもった言語はない」という言い方もあります。
 私はガチガチの民族主義者ですから、「日本は素晴らしい」とか「日本人は優れている」とかいった言葉にまるっきり弱くてすぐにその気になるのですが、これも単純な話ではないみたいです。

 イヌイットの言葉には雪に関する膨大な表現があるそうです。
 英語にはなぜか人間の移動に関する言葉がたくさんあるようです。
wark,amble,escort,pace,parade,patrol,plot,trek,wander,stroll,stride,roam,
march,perambulate,promenade,traverse,trudge,toddle,tour,stalk

 誰かを守って歩けばエスコート、後ろから歩いて行けばストーク、偵察して歩くのはパトロールといった具合です。

 数学者の藤原正彦さんは「英語はケンカをするのに便利な言葉だ」と言ったことがあります。たしかに様々な文化と接触し、交渉し、戦ってきた国の言葉だからケンカ向きかもしれません。しかしそれを言うなら日本には、大阪弁という極めてケンカ向きの言葉があります。
 岡山弁・広島弁となるとさらに切っ先が鋭い感じです(というのはこれらの府県以外の人間の感じ方かもしれませんが)。

 いずれにしろ、どの国の言葉が美しいとか表現が豊かだとかいうのはそれ自体が愚かなのであって、それぞれ多少のずれはあるものの、同じ人間が操作するそれぞれの“言語”なのですから、総量としては大差ないというのが事実なのでしょう。



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2012/8/29

やってはいけない  教育・学校・教師


 昨夜NHKで「中教審 教員養成で修士課程履修を答申」というニュースをやっていました。簡単に言うと、4年の教職課程以外に1年乃至2年の大学院研修を課し、その間に学校現場での長期研修と院での高度教育を履修させようというものです。
 しかしこれは絶対にダメです。

 何度も申し上げていますが、教職は大学・大学院に6年も通って獲得すべき職業ではありません。同じ6年制でも医者と比べると給与が違う、ステータスが違う、就業年数が違う、の三重苦です。

 6年の修学期間を設けても、医者だったら50年でも60年でも働けます。しかし教員は(定年が60歳のままだとして)4年制だったら最大で38年、6年制だったら36年しか働けません。そして6年制で失う2年間の収入は、就職初年と2年目の分ではなく、37年目と38年目の高収入なのです。

 さらに言えば、医者の場合、医学部で真面目に勉強しても医師になれない人(医師試験に受からない)は少数ですが、教員の場合、採用枠の決まっている採用試験に受からないとなれないのです。6年も学校に通って人生最後の2年間の給与も諦めて、それで採用試験に受からないようだったら目も当てられません。そんな状況でもなお教員になろうという人がいたら、それは聖人か先の読めないバカか、お金持ちの子です。
 中教審としては聖人教師の誕生を願ってのことかもしれませんが、そうはうまく行きません。少なくとも私のような普通のサラリーマンは、自分の子を教職課程に進めようとは思わない、そして教員志望の裾野は狭くなり、ピークも下がります。

 さらに重ねて言えば、一昨日(27日)の読売新聞に「教職大学院、半数で定員割れ」といった記事が出ていたように、教員になるために大学院に行くのは馬鹿げていると、今の大学生でも理解しているのです。中教審メンバーは何を考えているのでしょう。

 実際には、毎年6000人もの院生を受け入れる大学院をどう拡充していくかとか、長期実習生をどう学校に受け入れさせるかとか、様々に問題があってそう簡単に進む話ではないようです。しかし注意して見ていかないと、日本の教育はとんでもないことになってしまいます。

*同じ6年制の歯科医や薬剤師はどうだ、という話もでそうですが、歯科医はもはや供給過剰の斜陽産業。歯学部や歯学科はあちこちで定員割れを起こしています。薬剤師はここ2年間新卒が出なかった(4年制から6年制への移行期)ために現在は引く手あまたですが、すぐに就職難に陥ります。

*学力世界一のフィンランドは修士でないと教職に就けないという話を持ち出す人がいます。しかしそれは制度に対する誤解です。
 フィンランドはすべての大学が最低修学年数5年で、それを卒業すると「修士」なのです(3年で「学士」は取れますが、それで卒業できるわけではありません)。教員だけが特別に「修士」であるわけではないのです。昔は高卒だけでも教員になれたのが、今は大卒でなければだめになりました(ただし正規のみ。講師は高卒でかまわない)。
 おまけにフィンランドは大学教育に一銭もかからない国です。日本とは条件が違いすぎます。日本も教員養成課程と同時に、すべての学部を6年制にするとなれば教員志望も減らないかもしれませんが。


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2012/8/28



 レスリングの浜口京子という選手が好きです。あんな父親(派手で見栄えが悪くて、ひょうきんで融通が利かなそうな)の派手なパフォーマンスの横で、ニコニコ笑っていられるようなお嬢さんに悪い子はいないという気がしています。

 さて、今回のオリンピックを見て思ったことのひとつは、親子鷹といっていいようなアスリート親子が山ほどいたことです。
 体操の内村航平や田中兄弟姉妹、卓球の福原愛や石川佳純、約束通り父親を肩車した吉田沙保里、陸上の室伏広治、サッカーの澤穂希、ウェイトリフティングの三宅宏実、これらのメダリストの背後には常に保護者の影が見え隠れしています。

 多くの家庭に練習場があり、多くの場合その保護者が初期のコーチでした。そしてほとんどの場合、親が金銭的にも時間的にもそしてエネルギーの上でも、すべてを子どもに投げ込んで悔いのない人たちでした。

 もちろんマスメディアを通して私が見た親たちの姿はごく一部ですが、日本のアマチュアスポーツの現状を見ると、ある程度の成績を収めるまでは保護者の全面的なバックアップがないとアスリートたちは生まれてきません。そしてほとんどの場合そこには「子どもの人生は子どものもの。親の価値観を押し付けてはいけない」とか「子どもの将来を親が決めてはいけない」といった曖昧さはありません。「私はこの子をオリンピック選手にしたいのだ」「この子には金メダルを取らせるのだ」という横暴なまでの信念があります。

 古い本ですが「子育てのゆくえ〜子育てをしないアメリカが予見する日本の未来」(エイデル研究所 1993)の中で、著者の松居和はいわゆる“お受験”に関しても「親と子が同じ目標に向かって精魂を傾け、合格の暁には手を取り合って喜ぶ、こんな素晴らしい親子の姿はない」といったようなことを言っています。

 もちろんスポーツや勉強に向いていない子を駆り立てても気の毒ですが、ある程度の限界が見えるまで、親は自分の願いや期待をかぶせ、子の将来に目標を立ててともに進んで行っていいのではないかと私は思っています。
「本人の意思を尊重し、本人が目標を見つけて本人が“その気”になる」のを待っていたら埒が明かないことは結構ありますし、そんなことをしていたら大切な子どもの時間を無為に過ごしてしまう危険性はいくらでもあります。

 しかしそれでもなお子どもの将来を規定することに抵抗のある親御さんには、こんなふうに言ってあげることにしています。
「大丈夫。普通、子どもは絶対に親の思う通りに育たない」



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2012/8/27

夏休みに家で考えたことD〜最終回  教育・学校・教師


@原発
 原発を含む日本の中長期的なエネルギー政策はどうあるべきか。2030年の原発比率を(a)ゼロ(b)15%(c)20〜25%とする三つの選択肢を示した上で、国が広く国民に意見を聞く試みが行われました。その方法も三つです。
 一つ目は全国11都市で開かれた意見聴取会。二つ目がインターネットを活用した意見公募(パブリックコメント)。三つ目は「討論型世論調査」です。
 三つの調査全てで2030年(つまり18年後)の原発比率0%が最も多く、順番に68%、90%以上、47%でした。また毎週金曜日に国会前で行われている反原発デモは当初の予想に反して衰えることを知りません。こうした状況を見て、政府や政治家の発言も脱原発依存に傾いて行っています。
 その結論はいいとして、私が不思議に思うのは、反原発の人々がネットを通じてデモやパブリックコメントへの参加を呼びかけるとOKなのに、電力会社や原発受益者がメールを使って参加を呼びかけたり聴取会に参加したりすると“やらせ”になるという事実です。
 それってフェアじゃないんじゃないか、というのが私の感想です。

 ついでに、しかし政府はこうした聴取会やパブリック・コメントの結論に従うとは一度も行ったことがありません。しかしそれでいいのか、私は疑問です。人は意見を求められた上に無視するのは大嫌いなのです。

Aいわゆる大津いじめ自殺
 大津のいわゆるいじめ自殺事件に関して、再調査のための第三者委員会が発足しました。それはいいのですがその要綱には「いじめの事実を含め、学校で起きたことを明らかにし、その事実に基づいて自殺の原因を考察すること」と明記されているといいます。ここにはひとつの隠された意味があって、それは「家庭のことを問題にしない」ということです。部分的にしろ家庭に原因があるかもしれないという考え方は、最初からしないという意味です。
 一方「訴訟に関する事柄は対象としない」という一文もあります。その意味は「自殺の原因は最終的に司法の判断を待つ」という意味です。
 事件に関する学校の責任を明らかにしたい遺族側と、裁判の前に責任を負いたくない市との厳しいせめぎ合いのあとが伺えるような文章です。そうした要綱のもとで調査を行う委員たち、大変だろな。

B竹島・尖閣列島
 パンドラの箱、なんで開けてしまったのか。さらに言えば、そもそもなぜパンドラの箱を作ってしまったのか。
 やはり物事は先延ばしにすべきではないし、先延ばしにせざるをえなかったことは(解決の方法がない限り)延々と先延ばしにしていく方法を考えるしかない、そういう場合もあるという教訓。

C政局
 大阪維新の会に異常な期待が集まっている。この時代にあって、私に任せればすべてをうまくやり遂げてみせると公言するような人や組織は信用ならない。3年前の政権交代で十分思い知ったはずなのに。

 以上、「夏休みに家で考えたこと」はこれで一応おわりにします。

 いよいよ明日から子どもたちが登校してきます。なんとなくウキウキしています。



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2012/8/24

夏休みに家で考えたことC〜いじめ  教育・学校・教師


 尾木直樹という人はまったく好きになれないのですが、一か月ほど以前、新聞紙上で非常に良いことを言っていました。それは、
「加害者の親と話すとき、“いじめ”という言葉を使ってはいけない。ウチの子が“いじめた”と言われると親は絶対に認めない」
といったことです。

 大津の事件でも最初の保護者会で“加害者”の親はこんなことを言っていました。
「ただ、遺書もなく亡くなった友人を、生前いじめていたとの判定を学校側に下されることは、『■■■(氏名、伏字)の死因の一つを作った人間』との烙印を押されることとほぼ等しく世間では認識されると思われます」(2011.11.1の保護者会前に配布された文書とされるもの)

 これは言葉の持つ一種の魔力の問題であって、
「A君はY君たちからの執拗ないじめに合って自殺した」
というのと、
「A君はY君たちから執拗な恐喝と暴力に合って自殺した」
とでは全く異なった印象になるからです。

 後者だと「なぜ親や教師に相談しなかったのか」とか「黙っていた方にも責任はあるだろう」、あるいは「恐喝や暴力くらいで死ぬことはないだろう」とかいった感想を持つ人間は、必ず現れます。しかし前者だとそうはならない。
 逆に「自殺するほどだからよほどのことをされていたに違いない」という方向にしか心は動かないのです。

 最初の尾木のアドバイスに戻れば、「お宅のお子さんは“いじめの加害者”です」と言われればそれは「お宅の子は理由もなく友だちを追いつめ、自殺にさえ追い込みかねないモンスターです」と言われているのと同じですからどうしても認めがたい。それが「お宅の子は、友だちに暴力を振い、繰り返し恐喝をした“加害者”です」と言われると、確かに気分のいいものではありませんが“モンスター”ではなくなる。通常のありふれた非行で、面倒くさく厄介ではあるがどこかに解決の糸口がある、と感じられます。

 被害者の立場から考えてもこれは理解できます。
 自分が受けたのは暴力と恐喝だと言われるとなんとなく被害が矮小化されたような気になります。その言い方だと自分の受けた心の傷や悲しみが切り捨てられたような感じなる。やはり“いじめ”という言葉を使ってこそしっくりくる、そんな感じです。

 世の中のいじめ問題がやたら難しくなるのは、つまりはこの“いじめ”という言葉の曖昧さと、曖昧だからこそ纏っている大量の意味やニュアンスのためです。また曖昧であるが故に加害者と被害者、学校、市町村教委、マスメディア、世論はまったく噛みあっていきません。
 そう考えると“いじめ”という言葉を極力使わないようにすることが、問題解決の大きなポイントとなってくることが分かります。

“被害者”には、
「一つひとつの問題について認めさせ、謝罪させましょう。“いじめ”を認めさせようとすれば絶対に受け入れてくれません。将来、警察に入ってもらう可能性を考えても、傷害とか恐喝といった刑法上の言葉を使って調査・究明をした方が有利です」
 そう言って受け入れてもらうしかありません。

 私は校長がうっかり「文科省の定義にしたがえば、“いじめ”と認めざるを得ません」と言ったばかりに、問題がまったく動かなくなってしまった“いじめ”の事例を経験したことがあります。


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