2012/6/29

教職課程6年制の愚行  教育・学校・教師


 火曜日のニュースに、「教員養成は『6年制』、修士レベル必要…中教審」というのがありました。それによると、

「教員の質を上げる方策の検討を進めてきた中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)の特別部会は25日、現在4年の教員養成期間を延長し、大学院修士レベルの6年体制を目指すことを内容とした報告をまとめた。
 ただ、修士化の実現時期や義務化には言及しなかった。
 同部会は、教員に修士課程修了を義務づける民主党政権のマニフェストを踏まえて議論を行ってきた。
 報告では、いじめや不登校など学校現場の課題の解決能力をアップさせるには、『教員養成の修士レベル化が必要』とした。そのうえで、修士化の実現には、国公私立大の修士課程の見直しや、教職大学院の拡充など養成体制の充実、改善が必要だとした。
 報告は今後、中教審総会で審議され、文科相に答申される。」(2012年6月26日 読売新聞)

 ということです。愚かなことです。

 現在6年の就業年数が定められているのは医学・歯学・獣医学・薬学の4学部だけだと思います(4年制歯学もありますが国家試験を受けられません)。
 6年かけても医学部だったら高収入とステータスが保障されています。
 獣医学部の方もそもそもの定員がきわめて少ないため、就職が100%保障されています。収入もピンキリだそうですが低収入ではありません。
 薬学部は、少なくとも現在のところはドラッグ・ストアの興隆で卒業生は引く手あまただそうです。
 では教育学部はどうでしょう。

 高収入でもステータスでもないのはご承知の通りです。その上、教員免許を手にしても正規の教員になれる可能性は・・・
(教員採用試験の競争率2倍などということはありませんしあったら大変ですが、それでも確実なところで)
二分の一以下です。誰がそんなあやふやなものに6年の歳月と1・5倍の授業料を払おうとするでしょう。しかも負担は単に修学期間が2年延びるだけではありません。

 22歳で就職して60歳まで勤めると就労期間は38年です。6年制大学を出た人は36年しか働けません。その差2年分の収入がなくなるわけですが、その2年分は新人としての2年分ではありません。職業人生活37年目と38年目の収入が入らないのです。それは安い金額ではありません。そして退職金にも響くのです。つまり2年余計に勉強するということは、使う金と入らない金を合算してざっと3000万円の大プロジェクトなのです。教員はそれほどの犠牲を払っても着くべき職業なのでしょうか(そうではない!)。

 同じことは既に歯学部で起こっています。かつて歯学部は若干のステータスと高収入の補償された人気の学部でしたが、歯科医師過剰問題と国家試験の難化方針(H18)によって、今や卒業しても歯科医になれない、なっても食えない学部になってしまいました。そのとたんに志願者が激減し、特に私立歯科大・歯学部では続々と定員割れが起きています。食えない職業、就けない職業のために6年の歳月を差し出そうという人はいないのです。

 教職課程も6年制にすれば確実に志願者が減ります。激減するはずです。そしてそれは教育学部の入試の易化を引き起こし、いずれは頭の悪いお坊ちゃんの行く学部にしてしまいます。
 それを防ぐためには教育学部の定員を十分の一以下に引き下げて確実に教員になれる学部にするか、教員給与を2倍か3倍にして “どんなに無理してもつきたい仕事”に教職を育て上げるしかありません。

 しかしそんなこと、できますか?



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2012/6/28

波平の友  


 先々週だと思うのですが、テレビをつけたら偶然「サザエさん」をやっていて、カツオがお小遣いをもらう場面でした。画面に大写しになった百円玉を見たらなんとそこには「平成23年」と書いてあってびっくりしました。なんとなく昭和40年代くらいの話だと思っていたのです。
 東芝提供なのに薄型テレビもないし黒電話を使っていますし・・・。

 そこでふと気になって調べてみたら、原作のサザエさんは1922年(大正11年)生まれの27歳。つまり連載が始まった時は、昭和24年が舞台だったのです(カツオが空襲体験を語る場面もあるらしい)。しかし1974年(昭和49年)まで続いたそうですから、私の「40年代くらい」という感覚は大外れというわけでもありません。サザエさん一家は誕生した時からほとんど年を取らないまま、25年間も生き続けたのです。

 ところでアニメ版の設定は少し違っているようです。アニメのサザエさんは24歳。年の離れた弟のカツオくんが11歳、ワカメちゃんは9歳。マスオさんは28歳で波平さんが54歳、妻のフネさんは52歳です。そして私は考え込んでしまったのです。
「54歳って、あんなに年寄りなのか?」

 考えてみると大正12年生まれの私の父は(サザエさんの終わった)昭和49年には51歳。波平さんがそうであるように仕事帰りによく飲み屋に寄り、家に帰ると必ず風呂に入ってそれから和服に着替えていました。寝る時はもちろん浴衣(ちなみに、私は波平さんの着物や浴衣、背広までがすべてVネックなのがとても気になっています)。頑固なところも髪が薄いところもよく似ています。当時の私から見ればやはり年寄りでした。

 長谷川町子が「サザエさん」の連載を始めた時は弱冠26歳。そんな年頃の女性から見れば、50歳代は相当なジジイのはずです。いくら若いつもりでいても、波平さんと同年輩です。若い人から見ればやはり「単なるジジイ」でしかありません(加藤茶や中本工事、ラサール・石井たちは別物)。

 私ももう少しお年寄りらしくしていた方がいいのかなと、ふとそんなことを思いました。


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2012/6/27

私たちがケリをつけなければならない  教育・学校・教師


 昨日のトップニュースは「消費税率引き上げを柱とする社会保障・税一体改革関連法案が衆院通過」、採決の際、民主党から57人の造反者が出たというものです。

 教員は政治的に中立であるべきという思いもあって「デイ・バイ・デイ」でもできるだけ政治については書かないようにしてきましたが、今日という今日はイライラがやみません。

 造反者たちの言い分は「消費税引き上げの前にやることがある」ということだそうですが、それは野党の言うべき言葉であって政権与党の人間が言っていいことではありません。もし本当に「やることがある」なら、過去三年間のあいだになぜしてこなかったのか、自分たちの怠慢を棚に上げて「イヤなものはイヤ」では話にならないではないか、私はそう考えます。

 実は「消費税率引き上げ」に反対する人々は「その前にやるべき」対案など持っていないのです。持っていないからこそこれまでもできなかったのです。
 ではなぜできもしないことを言ってまでも「消費税率引き上げ」に反対するのかというと、単純に次の選挙で勝つためです。今選挙となれば「消費税引き上げ反対」と「脱原発」を叫べば必ず勝てると踏んでいるのです。勝った上で消費税率を引き上げてもよし、原発再稼動を繰り返してもよし、それが無理なら国債をばら撒き、外貨が尽きるまで石油を買い続けて火力発電をさせるもよし、とにかく議席を取りさえすればいい、そんなふうに考えているのです。

 そのやり方は三年前、子ども手当てを創設します、高校を無償化します、農家の個別補償も高速道路の無料化もします、財源はあります、予算の組み替えと埋蔵金でどうとでもなります、そう言ったのと同じです。「普天間基地は最低でも県外、腹案があります」「25%の温暖化ガスの削減をします」「2020年代の早い時点で1000万戸の家庭に太陽光パネルを置きます」・・・全部同じです。

 まったく見通しもないまま俗受けする約束を、次々としては反故にしていく。天下国家、日本の未来など関係ありません。とにかく選挙に勝てばいい。それはもう民主党に根付いたというか、小沢選挙至上主義に張り付いた宿痾(しゅくあ)のようなものです。

「国民に受ける政策を訴えれば必ず当選する。当選した暁にそれを達成しなくても何の問題もない」それが小沢イズムの核心です。その上で小さくカッコを入れて「国民はバカだから」と思っています。

 その“国民”のほとんどは私たち教員の教え子です。その大事な教え子かかくもバカにされている。それは翻って言えば、私たちの教育が間違っていたということになります。実際、若年層の投票率の低さは、政治の怠慢というよりは教育の失敗でしょう。私たちが子どもに夢を与えることに失敗し、投票行動を起こさせることに失敗したからそうなったのです。

 私はそうとうにイライラしています。そして自分たちの未来を切り開くために、せめて二十歳になったら投票に行く、そういう子どもを育てなければ絶対にダメだと強く思います。選挙にも行かず、1000兆円にもなろうとする借金を黙って引き受け、私たち老人ばかりが得をする世の中を、指をくわえて見ている、そんな子どもを育てていては絶対にダメなのです。


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2012/6/26

身も蓋もない三つの物語  教育・学校・教師


 マット・デイモンという役者は、父は株式仲買人、母親は大学教授、兄は彫刻家という家柄で本人はハーバード大学に進み在学中から映画に出演していた、そんな人です。そのころから友達と書き始めていた脚本『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』は10年後に映画化され、アカデミー賞脚本賞を取ると共に、自身も主演男優賞にノミネートされたりしています。もっとも両親は彼が2歳の時に離婚していますから完全にすべてを持っているというわけではありませんが、才能と容姿と運と、どれもこれも人並み以上に与えられた(その意味ではとても嫌な)男です。
 そのマット・デイモンが先日テレビでインタビューを受けていて、「夫婦円満の秘訣は?」とか聞かれて一言、
「良い妻を持つことです」
(確かに、しかしそれを言ったら身も蓋もない。)



「自分の子を確実に東大に入れる方法」というのがあります。しかしそれには三つの条件がそろうことが必要です。

 まず第一は学習習慣があること。成績を上げる原動力は“意欲”ではなくて“習慣”です。

 第二に、優秀な学習塾・予備校に入れるか一流の通信教育を受けること。東大ともなるとどうしても専門組織の経験と知恵が必要です。

 そして三番目に(これが最も重要なのですが)、飛び抜けて頭の良い子どもを産んでおくこと。「確実に東大に」となると三番目の条件は絶対に欠かせません。
(身も蓋もない・・・)



 私が子どものころは「一流の高校から一流の大学へ、そして一流の企業へ」といった言い方がありました。今では馬鹿にされる言葉ですが、当時だって堂々と言えるものではありませんでした。
 しかしうすうすと、そういうものかもしれないなと思わせるものがありました。何しろ親と同じレベルの生活をしたいと思ったら親と同じ学歴ではいけない時代が来ていたのです。友人の一人はのちに“一流”と言える企業に入りましたが、1万円の自己負担で一週間もハワイに行ったり飲み会は個人的なものまですべて交際費で落としていたりと、やはり羨ましい生活を送っていました(今はもちろん違います)。
 ところが今や学歴が絶対ということはなくなりました。今はこういう言い方になります。

「どこの大学を卒業したかで人生の決まる時代は終わり、どこの家に生まれたかで人生が決まる、そういう時代が来た」

 これも身も蓋もない話ですが、1の例や2の例にはない深刻さがあります。

 一方で家庭の在り方に大きな差が出てきました。端的にいえば子どものために金も時間もエネルギーもすべてを投げ込める家もあれば虐待の家もあります。そのどちらに近い家に生まれるかで、その子の人生はまったく違ったものになるでしょう。
 他方、学校はその違いを消すことをやめてしまっています。かつての学校は何でもかんでも型にはめ、個々の違いを消そうとしました。「一流の高校から一流の大学へ、そして一流の企業へ」のような単一の価値観があってその枠でしか子どもの成長を考えなかったのです。それが個性尊重の時代になって、その子の持っている属性(もちろんその中には家庭環境も入ります)は丸ごと尊重されて大人になってしまいます。

 個性や自由は、尊重されると必ず幸せになるというものではありません。


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2012/6/25

人生の基本設計  教育・学校・教師


 あと一カ月で35歳になるという時に結婚し、最初の子どもが生まれたのが37歳でした。2番目の子が40歳のときです。妻はあと3日で31歳という日に結婚し、33歳で第1子、36歳で第2子を産んでいます。2回とも計画出産みたいなものでしたが、苦労せずに妊娠することができました。
と、こんな話をしたのは教員生活の最終段階に来て、今まで考えなかったこと、分かっていながら目を背けていたことがいちいち現実化してきたからです。

 とりあえず私の定年と息子の成人式が一緒です。つまり退職後も生活を保障してやらなければならないのです。上の子だって、その時きちんと飯が食えているかどうか分かりません。
 退職と同時に年金がもらえる―漠然とですが、そういう計画でやってきたのが「年金の基礎部分が65歳から」となって、共済部分も順次遅らされていきます。年金そのものもグンと減らされてしまいました。私の父も公務員でしたが退職後は左うちわでした。私は父のようにはいきません。

 もっと早く結婚して子を産んでおけばこういう慮りもなかったはずです。定年退職の前にお祖父ちゃんお祖母ちゃんになっている人はいくらでもいるのですから。
 昔の“結婚適齢期”男性28歳、女性24歳で計算してみると第1子が31歳(妻27歳)、第2子が34歳(妻30歳)、下の子の成人式は夫54歳(妻50歳)のときということになります。定年後は、昔ほどではないにしても悠々自適の中で迎えられます。
「一般的な結婚適齢期なんてない、結婚を決意した時が適齢期だ」という言い方がありましたが、“あまり面倒なく楽に生きていく”ということを考えると、昔の“結婚適齢期”はなかなかうまくできています(というより、昔の平均的結婚年齢を基礎にしてできている社会の仕組みが、いくつかあるということです)。


 土曜日の夜、NHKスペシャル『産みたいのに 産めない〜卵子老化の衝撃〜』という番組をやっていたようです。私は見ませんでしたが、それまでのニュース番組で予告めいたことを何度もやっていましたし、2月の「クローズアップ現代」でも同じことを扱っていたので内容は分かります。これもいかにも現代的な問題です。

 不妊の検査や治療を受けたことのある夫婦は、6組に1組。 不妊治療専門のクリニックが世界一多く、体外受精の実施数も世界一になっている。/女性の社会進出を進める一方で、いつ産むのかという視点を見過ごしてきた日本のひずみが現れている。/(中略)不妊の原因の半分は男性側にあるが、夫が不妊の検査に行きたがらず、ようやく治療が始まった時には、妻の卵子が老化しているというケースが後を絶たない。/専門家は「早くに気付いて治療すれば、自然妊娠が見込めるケースも多い」と指摘する。


 そうは言っても4年制大学を出れば最短で22歳。運に恵まれてすぐに就職できてもなんとか仕事ができるようになるまで3年、そこから真剣に結婚相手を探して3年、もう28歳です。今は採用試験もなかなか受かりませんから、1年2年はすぐに遅くなっていきます。

 そう考えると猫も杓子も4年制大学というのではなく、大学へ進まないことや短大を利用することも考えておかなければなりません。ここでの2〜4年の短縮は後の人生に大きくかかわります。

 こういうことは誰も教えてくれませんでしたし、私自身が教師として、親としても子どもたちに伝えてきませんでした。知っていて違う道を選ぶのはいっこうにかまいませんが、知らずに“選んだこと”になってしまうのはやはり辛い場合があります。

 こうした人生の基本設計にしても、やはり教えておく必要があるかと思いました。


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2012/6/22

学校はどこまでをめざすのか  教育・学校・教師


「中高合わせて6年も勉強しながら、結局身につかないような日本の英語教育は間違っている」という言い方があります。
 これに対する最初の反論は「小中高と12年間も学びながら、微分も積分もベクトルもみんなできなくなってしまう日本の算数数学教育は間違っている、ベンゼン環や芳香環の違いも摩擦係数の計算の仕方もみんな忘れてしまうような理科教育も間違っている、しかし日本人の大部分が新聞や雑誌を簡単に読みこなせる以上、国語教育だけは非常に優れている・・・そう言っていいのか」というものです。

 日本人の英語が身につかないのは学校教育のせいではありません。最大の理由は「必要ないから」です。同じく必要のない数学や理科も、大部分の人は忘れてしまいますが国語は忘れません。なにしろ毎日必要なのですから。

 では、母国語以外に外国語が必要な国というのはどんな国なのか。その端的な例が”学力大国“のフィンランドです。

 フィンランドという国は日本の9割ほどの国土に533万人、つまり日本のわずか4%ほどの人々が住む国です。この“人口が少ない”ということは経済や文化に大きな制約をもたらします。それは例えば書籍の翻訳や映画の吹き替えが商業ベースに乗りにくいということです。
 小説で言えば「ハリー・ポッター」のように確実なものならともかく、売れるか売れないかわからないようなものは翻訳本として市場に出せません。専門書となればなおさらで、したがって大学教育を受けようとする人は相当な英語力がないと原書で行われる授業についていけません。ここにも切実な英語の必要性があります。
 映画も、ディズニー映画のようにヒットが確実なものには吹き替え版も出ますが、大部分は字幕スーパーです。日本で言えば金曜ロードショウといったテレビの洋画番組でさえ、字幕スーパーで行われます。字幕で我慢できなければ英語を覚えるしかありません。

 またフィンランドにはノキアやLinuxといった有名企業がありますが、これらの企業に向かって内需掘り起しなどといってもまったく無理でしょう。なにしろ国土は日本並みでもGDPや人口はほぼ北海道と同じなのですから。商売は必然的に片端外国相手となり、外国語の必要性が生まれます。

 翻って日本はどうでしょう。書店には小説を中心して翻訳本がいくらでもあります。レンタルビデオを借りに行けばほぼ確実に日本語吹き替えがついています。何しろこの国では1万人に一人しか興味を示さない酔狂な作品でも、それを買ったり借りたりする可能性がある人は1万2600人もいるのです。こんな国で外国語の必要性が高まるはずがありません。

 だから英語教育なんか必要ないと言うつもりはありません。ないよりあった方がいい。
 しかし「日本人の大部分、あるいはせめて半分以上が外国人と気楽にしゃべれる程度の英語力をつけよう」といった教育は、「日本人の大部分が微積やベクトル、化学式や摩擦係数の理解できる理数教育を推進しよう」というのと同じように愚かなことです。だって必要ないのですから。英語も数学も理科もできない私のような人間は、社会科の教師にでもなればいいのです。無用な教科で弄られ痛めつけられることはないのです。

 では「ないよりあった方がいい」、そのレベルはどれくらいかというと、ここまで来てしまった以上簡単に戻せそうにもありませんから、せめてここで留めるべきというのが私の考えです。

 英語だけでなく、数学も理科も社会科も、もう日本の教育をあまりいじってほしくないのです。制度が何であれ、朝令暮改のごとくあれこれ変わりさえしなければ、私たちがなんとかうまくやり遂げるのですから。


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