2012/3/12

東日本大震災一周年追悼式に  教育・学校・教師


 津波の時には家族や友人のことを考えずにとにかく自分の身を考えて一目散に逃げよ、全員がそうすることで、それが結局家族・友人を再び会わせることになる―東日本大震災で釜石の子どもを救ったことで有名になった「津波てんでんこ」はそうした概念です。
 しかしこの言葉がもてはやされる一方で、「オレたちは『てんでんこ』というわけには行かない」と拒否的な反応をした人たちがいます。消防士や消防団の人々、警察官、民生委員、その他公共の役割を持つ人たちです。

 事実2011年3月11日の東日本では、たくさんの公務員や公共の職にある人たちが“早く逃げなかった”ばかりに亡くなっています。また、そうした責任のない人の中にも、わが身を顧みず他人を助けようとして亡くなった人が大勢いました。
 我が子や年老いた親の元へ走ったために失わないで済む命を失った人もいます。そういう人が大勢いたのです。
 そうした人々は賞賛されても貶められるようなことはあってはなりません。「津波てんでんこ」は子どもやお年寄りなどの災害弱者のスローガンであって、よほど信念をそろえた(みんな必ず迷わず逃げていると信じられる)家族や集団でない限り、達成できるものではありません。


 同じ昨年の3月11日、首都圏は数百万人もの帰宅難民が溢れていました。しかしのちのこの人たちの証言によると、幹線道路のいたるところで企業や商店が入り口を開け「トイレを使ってください」「休憩室を用意しています」と呼びかけていたそうです。ポットと紙コップを持ち歩いてコーヒーを配布しているおじさんや、薬局から買い込んだ使い捨てカイロを配っているおばさん、ある青年は家に帰って来た母親が、急いで大鍋に大量のトン汁を作り始めたことを感動をもって書き残しています。そしてそれと同じものかどうかは分かりませんが、帰宅の途中路上でトン汁を勧められ「ボクは大丈夫ですから、あとから来る人に上げてください」と譲った青年がいます。みんな誰かのために働こうとしていたのです

 私たちは何んと無垢で純粋なのでしょう。

 昨日、東日本大震災一周年追悼式のテレビをつけ、2時46分にともに黙祷しがら思ったことは、やはり人は誰かのために生きなければならないということです。

 私たちの体の中には、誰かのために生きるという情熱が確実にみなぎっていて、しかしそれは普段は固く封印されて表に出てこない、出てくるのはエゴイスティックだったり我がままだったりする自分ですが、やはり底には強力な愛他の精神がたぎっていつも出番を待っている、それが私たちなのです。

 私はそのことを子どもたちに伝えたいし、ここまでの危機ならずとも、今からでもその情熱を静かに表出させ、周囲に広げられる子どもに育てたいと思います。



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2012/3/9

正義のコスト  教育・学校・教師


 公務員制度改革の一環として、新規採用を大幅に減らすとともに年長者への退職勧奨(退職金の上乗せと引き換えに早期退職をしてもらう)が進められるという記事が出ていました。

 ところが新規採用の大幅削減などと言わなくても、放っておいても削減せざるを得ないはずだという話が出ています。それはここ数年続いた「天下り批判」のために天下り先が激減してしまい、50代半ばで退職していた公務員たちが定年まで官庁に居座るようになったからだと言うのです。退職者が減れば新規採用も減らさざるを得ません。
困ったことに、50代の公務員は給与が非常に高いので、この人たちが居座るおかげで給与総額が伸びてしまい、そこで「退職勧奨」の話が出てくる・・・一部のマスコミの言うことですから本当かどうか分かりませんが、辻褄は合っています。

「天下り排除」という正義を貫くために、すべての国家公務員が定年まで居座るというコストを私たちは甘受しなくてはなりません。


 指導力不足教員というのは平成16年の566人(全国)をピークとして毎年下がり続けています。それにつれて「指導力不足教員ゼロ」という都道府県・政令指定都市もいくつか見られるようになってきました。しかし「そんなはずはないだろう」というのがほぼ共通する実感です。もっとも教員数の圧倒的に多いはずの東京よりもずっと母数の少ない香川あたりが大量の「指導力不足教員」を輩出しているなど、指導力不足の“認定”そのものにも怪しい面がありますから、最初から妙なのです。一体どうなっているのでしょう。

「指導力不足」は犯罪でも背任でもありませんから、それを理由に即クビにするわけにはいきません。そこで1年乃至は2年といった研修期間を経てまた現場に戻すわけですが、一人の教員が現場を離れるということは別の誰かを穴埋めに入れるということです。普通は講師で対応しますが、指導力不足教員の代わりに入る講師の給与は安く見積もっても年間400万円はします。つまりひとり「指導力不足教員」を出すためには400万円の裏付けがなくてはならないのです。それが正義のコストです。

 香川県はそのコストをよく負っているということなのかもしれません()。他の県は、もしかしたらその400万円で同じように講師を雇い、チーム・ティーチングで2〜3クラスの授業の質を上げているのかも知れません。


 先日も書いた義務教育の留年制、語られている部分について言えば“正義”ですが、人間性や人間関係のスキルを高めるための学級という集団を失うのはたいへんなリスクです。しかしそれだけではありません。義務教育の留年制は予算的にも大きな問題を抱えているのです。

 例をあげます。たとえば各学年2クラス、全校で6クラスの中学校があったとします。計算をしやすくするためにすべてのクラスが定員ギリギリの40人(各学年80名ずつ)だったとしましょう。翌年の新入生も1クラス40人の計80人です。

 年度の終わりに精査したところ、3年生が3名、2年生が2名、1年生が1名の留年になったと考えます。すると翌年の3年生は全部で(80−2+3の)81名、2年生は(80−1+2で)81名、新1年生は+1の81名となります。法令によれば1クラス40名を越えるとクラスを二つに分けなくてはなりませんから、この学校の学級数は全学年1クラス増で6から9になります。

 学級数が6と9とでは教職員数が違ってきます。教職員定数は標準法にしたがって各都道府県が決めますが、6学級の学校は11人(校長を含む)、9学級だと16人というのが相場です。つまり5人の正規教員が新たに必要となるわけです。その給与ざっと3000万円ほどになるでしょうか。留年制は金がかかるといわれる所以です。

 残る問題はひとつです。それは「どんな犠牲を払ってでも正義は貫くべきか」です。

 もっとも公務員はコスト意識が薄いといいますから、結局やってしまうのかもしれません。


*香川県を持ち出したのはたまたま「指導力不足教員 香川はなぜ多い−四国新聞社」という記事を見つけたからです。それも2004年の話です。最近の様子はうまく検索で取れないので分かりません。香川県の方、お気を悪くされたら申し訳ありません。
 ただし正直申し上げて、香川・徳島を始めとして四国四県は文部行政に対してまじめに対応しすぎるという気がしています。他の都道府県はもっとすれっからしです。



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2012/3/8

体験を経験にして  教育・学校・教師


 卒論のテーマが日本の現代政治史だったこともあって、第二次世界大戦についてかなり突っ込んで勉強したことがあります。そのとき気づいたことですが、戦争という大きな体験をしながら、戦前・戦中・戦後とまったく変わらぬ生活をした人がたくさんいます。よい意味でのことではありません。貧困や飢えや恐怖に晒され、肉親や友人を失ってもなお、何の反省も後悔もなく、好き勝手に生きたふてぶてしい人たちです。

 もちろん多くの人たちは人生の計画を狂わされ、翻弄され、その中で何かを学び取って新しい時代を生きようとし、今日まで生きてきました。しかし同じ体験をしたにも関わらず、まったく何も学ばない人たちがいたということは、人間の恐ろしい一面でもあります。私はこういう人たちを「体験を経験にできない人」と呼びます。

 さて、まもなく3月11日。東日本大震災から丸1年を迎えます。

 東日本大震災の残酷で悲惨な映像は山ほど見てきましたが、そのほとんどは瓦礫の間から、あるいは高台から海の方角にカメラを向けてのものであって、逆に海岸から山の方への写真は案外ありません。なぜないかというと海側から見た風景の中には、ほとんど無傷のまま高台に残る何軒かの家が写っていたりするからです。

クリックすると元のサイズで表示します



クリックすると元のサイズで表示します 昔、黒澤明監督の「天国と地獄」という映画があって、犯人が地獄のようなドヤ街から丘の上の豪邸を見上げる場面がありましたが、それと似て、海岸から高台を写す写真は災害とは異なる悲惨さを映し出します。

 それが被災地と私たちの関係です。私たちは何も失わなかったのに、被災地の人々は一切を失ったのです。
(ただしもちろんそれは象徴的な意味であって、被災地の高台の家が何も失わなかったという意味ではありません。写真のあの崖のずっとずっと先に私たちはいるのです)

 私たちがどう心を痛めようとも、どれほどの義捐金をつぎ込んでも、その関係はまったく変わりありません。

 私は、すべての日本人がこの災害から何かを学ぶべきだと思っています。2011年3月11日を境に、たとえ生き方の一部であっても変わらなければならないと感じています。言うまでもなく、変化はすぐに目に見える形で現れないかもしれません。しかしゆっくりとバイアスをかけ、3・11以前とは異なった方角に自分を変化させていかねばならないと思っているのです。

 一周年の今年の3月11日は日曜日です。日本全体で追悼するにはふさわしい曜日ですが、教師が子どもたちに直接指導するには不便な日です。ですから11日を敬虔な気持ちで迎えられるよう、前もって指導しておかなければなりません。週末の朝の会での話、あるいは学年だよりをつかって、改めて地震と津波で亡くなった人々を悼み、震災後の日本をどう生きるか、どう生きようと思うか、考えさせたいと思うのです。

 あれほどの災害のあった時代をともに生きながら、子どもたちが何の影響も受けずに育つとしたら、それはあまりにもマヌケです。



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2012/3/7

お手本の国のウソ  教育・学校・教師


「新学力観」という言葉は1980年代最後の時期に言われ始めたことで、簡単に言ってしまうと「旧来の学力観が知識や技能を中心にしていた。しかし進歩の速い現代にあって、知識・技能はあっという間に陳腐化してしまう。これからの時代は学習過程や変化への対応力を重視なければならない」といった学力観です。しかしそれにしても、知識・技能というものはそんなに軽視されていいものなのか、基本的に身に着けなければならないものはたくさんあるはずだ―それが当時の現場の教員の率直な思いでした。

 総合的な学習の時間が始まる直前、マスコミは「これからのグローバル社会においては日本のような知識偏重では必ず行き詰る。今必要なのは『考える力』なのだ」とか言っていました。現場の教師は、すべての子どもに世界に通用するような「考える力」をつけようとする教育が正しいものなのか、首を傾げる人がたくさんいました。

 そして21世紀になったとたん、「学校は教えるべきことを教えていない」と、突然非難されるようになりました。結局私たちの直観は正しかったのです。


 何年か以前、民主党の小沢一郎さんあたりが「安定した政治のための二大政党制を」と叫び始めた時、二つしか選択肢のない選挙がどうしていいのか分かりませんでした。しかしイギリスやアメリカがそうだからといったよく分からない説明つきでマスコミも煽り、自民党と民主党の二大政党ができあがって政権交代まで果たしてしまいました。

 しかしいざ始まってみると、両者とも中間層を広く取り込もうとするので言っていることがそっくりになってしまいます。確かに「どちらを選んでもまったく同じ」という意味では安定していますが、小沢さんや私たちはそんなものを望んだのでしょうか。


 同じく何年か前まで、一般市民や犯罪被害者に不利な判決がでるとマスコミは「不当裁判!」「まったく庶民感情に合わない法曹界の石頭たち」とか声高に叫んで「裁判に市民の声を、アメリカのような陪審員制度の導入を!」とかやっていました。私は映画の法廷ものや「刑事コロンボ」みたいな推理物が大好きで、陪審員による裁判の場面は(映画で)数多く見てきました。しかしあんなパフォーマンスで自分の運命が決められたらかなわないというのが率直な思いでした。案の定、裁判員裁判が始まるとマスコミは一斉に首を傾げはじめました。あと数年すると「裁判員裁判の不当」が叫ばれるようになることでしょう。

 先日の義務教育の留年問題のときも「フランスでは昔からやっている制度だ」などという話が出てきましたが、こと学力に関する限り、フランスは日本よりずっと格下です。

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 何でも外国を持ち出せばいいとなれば「ドイツはほとんどが半日学校だ!」とか「○○国では体罰で学力を上げてるぞ!」とか、あるいは「△△国では子どもが学校に来るとお金がもらえるんだぞ!」と好き勝手な(しかしいずれも事実)ことを言っていればいいのです。

 以上、私が現在読んでいる「『お手本の国』のウソ」(新潮新書 2011)を念頭に思ったことです。





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2012/3/6

マシュマロ・テスト  教育・学校・教師


 1968年にアメリカのスタンフォード大学で「マシュマロ・テスト」と呼ばれる奇妙な実験が行われました。

 これは4歳児を一室に入れ、目の前にマシュマロをひとつ置いて、母親がこう指示するのです。
@このマシュマロはいま食べてもいいけれど、15分間待つことができたらもうひとつあげる。
A途中で食べたくなったら、ベルを押せばいつでも食べられる。でももうひとつのマシュマロはなしになる)
Bどうする?


 ほとんどの子どもは「待つ」ことを選択し、部屋にひとり残される。そしてそこから子どもの地獄が始まります。

 ある子はマシュマロをじっと睨みつけて時を過ごし、別の子は見ないようにそっぽを向き、また別の子は歌をうたってごまかすと・・・。さて、そこで何%の子どもが誘惑に耐え、二個のマシュマロを獲得できたか。

 答えは30%、やはり4歳児の忍耐力などこの程度のものです。


 単純な実験ですが、このマシュマロ・テストが有名になったのは、同じ実験をおよそ600人にも施し、その後の成長過程を観察し続けたことにあります。実験から40年以上もたつというのに、このときの被験者は現在も追われています(これがアメリカの底力です)。

 高校生になった被験者たちを観ると、15分待てた子は30秒しか待てなかった子に比べ、大学進学適性試験(S.A.T.)の点数が平均210点も高かったといいます(2400点満点)。

 10年後の調査でも15分待てた子は学業面ですぐれ、健全な対人関係を築いていたことが 報告されています。さらに30代後半になった調査では子どものころ待てなかった人たちは肥満度(BMI)が高く、過去に薬物の問題があった可能性が高いという結果が出ました。待てる子は優秀で良き人生を送りやすいことがわかります。

 しかしここで問題になるのは、待てる子たちが生得的にそうした忍耐力を身につけていたのではないか、という可能性です。マスコミの大好きなDNAの違いです。

 しかしそうでないことは、マシュマロ・テスト時の被験者の観察から明らかです。待てた子はマシュマロのことで頭がいっぱいにならないよう、目を覆ったり、机の下に潜ったり、歌をうたったりと、要するに最初からそのことを考えないように努力していたのです。

 この方略は「集中力の戦略的配分」と呼ばれるもので、同じ状況を繰り返し体験することで自然に発明され、やがて身につくものです。待てる子どもたちは、その種の訓練をそれまでも受けてきた子たちなのです。家の中で何回も何回も「より高い価値(2個のマシュマロ)のためにより低い価値(目の前のマシュマロを味わう)を切り捨てる」体験を繰り返してきたのです。

 満4歳と言えば数え年の3歳です。「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、実は4歳までの教育が人間の多くの部分を決定してしまうのです。それがこのマシュマロ・テストの恐ろしい教訓です。






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2012/3/5

卒業式について  教育・学校・教師


 卒業生と在校生および来賓や保護者が向かい合う小学校の「対面式卒業式」が、ここのところ次第に減ってきているようです。主な原因は対面し続ける卒業生に緊張感に耐えられない子が出てきたこと、特に「せめて卒業式には」と決心した不登校の子にとって、対面式は乗り越えがたいストレスであること、などによると言われています。しかし別な意味で、対面式が下火になることに私は好感を持っています。

 対面式は一方で児童中心主義から、他方で保護者にもっと見やすい場所を提供しようというサービス主義から始まったものです。しかし私は、卒業式というのはそういうものではないように思うのです。

 入学式と違って、卒業式には「卒業証書授与式」という正しい名前があります。ここで理解できるのは、卒業式が「授与する者の式」つまり主体が「卒業証書を与える者」にあるということです。卒業生が主体なわけではありません。

 では誰が「卒業証書を与える者」なのかというと、これは学校教育法施行規則(昭和22年文部省令第11号)の第28条に「校長は、(各学校種)の全課程を修了したと認めた者には、卒業証書を授与しなければならない」とあってだから当然「校長」なのですが、単に法律だけでは説明できない問題があります。それは教育委員会の存在です。

 入学式では来賓の筆頭にある「教育委員会代表」の席が、「卒業証書授与式」では校長の上座にあります。また、かつては卒業式会場まで来賓を引率するのも教育委員会代表の仕事でした。
 現在は「教育委員会の挨拶」と言って普通の話をしますが、かつてこの部分は「教育委員会告辞」といい、さらにその昔は「告示」と表記して、今とはまったく別のことをしていました。私は大人になって一度だけ、正式な「教育委員会告示」聞いたことがありますが、それはこんなものでした。
「平成○○年度、○○市立○○小学校の卒業生は、男子○○名、女子○○名、計○○名です」
 それでおしまいです。それだけ言って壇を下りました。

「告辞」は文章として語られるものですが、「告示」は全体に知らしめるという意味の法律用語です。したがって上の表現は「本年度は○○名を卒業生認め、卒業させます」という意味です。

 また「告示」が卒業証書授与に先立って行われるのは「教育委員会が正式に認めたので校長は堂々と証書を渡せる」という手順を踏んでいるからなのです。さらに普通は副校長(教頭)先生の行う「学事報告」も、正式には学校が教育委員会に向けて行うものと解されています。つまり卒業証書授与式は徹頭徹尾、教育委員会が主体なのです。
 ではなぜ教育委員会主体なのか―それは教育委員会が住民の代表者だからです。

 住民を代表して学校を管理監督してきた教育委員会が、最上級生を卒業させるにふさわしいと認め、校長を通じて証書を授与する―それが卒業証書授与式の真の意味です。

 行政は子どもが0歳から18歳まで成長するのに一人当たり1千万円も使うと言われています。小中学校の卒業式はいわばその成長の中間報告であって、学校は住民の代表者たる教育委員会に対して「ここまで教育いたしました」と報告し、卒業生は「皆さまのおかげをもちまして、とりあえずここまで成長することができました」その姿を披露する式なのです。ですから在校生や保護者・来賓との対面式ではだめなのです。卒業生が対面すべきは教育委員会(つまり地域住民)であって、それ以外ではありません。

 ですから私は、卒業生に真摯な態度を望みますし、私もそのように振舞うつもりです。


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