2012/3/14

夢の持ち方@  教育・学校・教師


 私の甥に、自己表現という点では天才的な子がいて、高校生の頃、自分の将来についてこう言って驚かせたことがあります。
「SuperTさん、オレ、自分のやれることの中にやりたいことがないんだよね」
 ああそうなんだよな、私の子どもの頃の悩みも結局そういうことだったんだよな、と思いました。

 やりたいことがないわけではない。しかしそれは今の実力では簡単にはできそうにない。しかしできそうなことの中にはやりたいことがない。
 言ってみれば単なる怠け者のたわごとですが、当事者にとっては深刻な問題です。


 卒業式のシーズンになり、卒業生たちは「将来の夢は?」といった質問をされることが多くなっています。こうした時、かなり現実的な希望を持っている子はいいのですが、内心で分不相応な夢を持っているような子は言葉を失います。

「子ども歌謡コンテスト」とか何かで入賞していればいいのですが、何の実績もないのに歌手になりたいなどと言ったら笑われる・・・そこで「今はなりたい仕事は決まっていませんが、高校に入ってから・・・」といった言い方になるのですが、そんなふうに先延ばしにしていいものではないような気もします。

 昔、読んだ本の中にこんな話があります。
「自分の好きなことを仕事にする」というのは理想だが“好きなこと”の構造は単純ではない。例えば「歌を歌うことが好き」の一番軽いレベルでは“娯楽”だが、一歩深まれば“趣味”の段階に入る。その“趣味”が昂じて“特技”のレベルまで行くと「職業」が遠くに見えてくる。

 娯楽も趣味も特技もみんな「好きなこと」です。しかし「仕事にする」には“特技”の段階まで行って、それでもなお困難です。しかしとりあえず「好きなこと」を“特技”のレベルまで追い込んでおかないと話になりません。

 徒然草の中にこんな話があるそうです(第150段)。
(原文)
 能をつかむとする人、「よくせざらむ程は、なまじひに人に知られじ、内々よく習ひ得てさし出でたらむこそ、いと心にくからめ」と常にいふめれど、かくいふ人、一芸もならひ得ることなし。いまだ堅固かたほなるより、上手の中にまじりて、誹り笑はるゝにも恥ぢず、つれなくて過ぎてたしなむ人、天性その骨なけれども、道になづまず妄りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位にいたり、徳たけ人に許されて、ならびなき名をうることなり。天下の物の上手といへども、はじめは不堪のきこえもあり、無下の瑕瑾もありき。されどもその人、道の掟正しく、これを重くして放埒せざれば、世の博士にて、万人の師となること、諸道かはるべからず。
(現代語訳)
 芸能を身につけようとする人で、「うまくできないうちは、なまじっか人に知られまい。内緒でよく練習したうえで人前に出るのが理想的である」と言う人があるけれども、こんなことを言う人は、一芸も習得できることはない。
 未熟なうちから、上手な人に交じって、笑われようとも恥ずかしがらず、平気で押し通して稽古に励む人は、生まれつきの才能がなくても、中途で休まず、練習を我流にせず何年も励んでいると、才能があっても芸にうちこまない人よりは、ついには上手の域に達し、人徳もそなわり、世間からも認められ名声をえるものである。
 天下に聞こえた芸能の達人といへども、はじめは下手との評判もあり、欠点もあったものである。
 けれども、芸能に定められたいましめを正しく守って、勝手気ままにしなければ、その道の名人になることは、どんな道でもかわることはない。

 とにかく始めにゃ始まらないということです。
 とくかくやらせなければ始まらないとも言えます。


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2012/3/13

まいちゃん、イイネッ!  教育・学校・教師


 ネット上をフラフラしてたら「Genki tweets」というページに出会いました。「東日本大震災後、ツイッターに集まった元気が出る100つぶやきを集めました」という触れ込みです。

 私はボロボロ涙を落としながら最後まで読みました。人間とは何と美しいのでしょう。

「バイト中に地震があってほぼ満席の状態からお客さんに外に避難してもらいました。食い逃げ半端ないだろうな、と思っていたほとんどのお客さんが、戻ってきて会計してくれました。ほんの少しの戻られなかったお客さんは、今日わざわざ店に足を運んでくださいました。日本ていい国」

 3月11日当日のツイートの多くは帰宅難民からのものだったようです。

「一回の青信号で1台しか前に進めないなんてザラたったけど、誰もが譲り合い穏やかに運転している姿に感動した。複雑な交差点で交通が5分以上完全マヒするシーンもあったけど、10時間の間お礼以外のクラクションの音を耳にしなかった。恐怖と同時に心温まる時間で、日本がますます好きになった。」

 この日は数多くの人々が勝手に炊き出しをし、沿道を歩く人々にコーヒーやらおにぎりやらトン汁やらを配布していたみたいです。中にはこんな人もいました。

「ホームで待ちくたびれていたら、ホームレスの人達が寒いから敷けって段ボールをくれた。いつも私達は横目で流してるのに。あたたかいです」


 翌日、

「駅員さんに『昨日一生懸命電車を走らせてくれてありがとう』って言ってる小さい子達を見た。駅員さん泣いてた。俺は号泣していた」
 
 しばらくして落ち着き、募金活動が始まると、別の風景が見られるようになります。

「今日、募金箱に金髪にピアスの若い兄ちゃんが万札数枚入れていた。そしてその友人に
『ゲームなんていつでも買えるからな』と言っていたのが聞こえて私含め、周りの人達も募金していた。人は見た目じゃないことを実感した。そんなお昼でした」


「Genki tweets」の中で一番好きな話は次のふたつです。

「『お前今日なんで髪ストレートなん? 俺、巻き髪の方好きって言ったべ』
『そ−だけど−、まいに出来る節電ってこれくらいしか思いうかばなかったしい−』
電車の中でのギャルカップルの会話。日本全体が自分にできることを考えてんだなって実感して、なんかうるうるしてしまいました。まいちゃんイイネ!」

「匿名掲示板にて『みんな逃げ出して灯りも少ない、万引きし放題のコンビニに着いたら、お前らはどうする』という問いに即レスで『全裸で徘徊する』とついた。その後続々と賛同者が現れた。この国は駄目だけど元気です」


 コンビニを全裸で徘徊なんて最低だが(そんなオレでも)略奪は考えない、思いつきもしないというのがこの話のミソ。いい話です。

「ツイッターに集まった元気が出る100つぶやき」すべて廊下に張り出したので、また見ておいてください。


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2012/3/12

東日本大震災一周年追悼式に  教育・学校・教師


 津波の時には家族や友人のことを考えずにとにかく自分の身を考えて一目散に逃げよ、全員がそうすることで、それが結局家族・友人を再び会わせることになる―東日本大震災で釜石の子どもを救ったことで有名になった「津波てんでんこ」はそうした概念です。
 しかしこの言葉がもてはやされる一方で、「オレたちは『てんでんこ』というわけには行かない」と拒否的な反応をした人たちがいます。消防士や消防団の人々、警察官、民生委員、その他公共の役割を持つ人たちです。

 事実2011年3月11日の東日本では、たくさんの公務員や公共の職にある人たちが“早く逃げなかった”ばかりに亡くなっています。また、そうした責任のない人の中にも、わが身を顧みず他人を助けようとして亡くなった人が大勢いました。
 我が子や年老いた親の元へ走ったために失わないで済む命を失った人もいます。そういう人が大勢いたのです。
 そうした人々は賞賛されても貶められるようなことはあってはなりません。「津波てんでんこ」は子どもやお年寄りなどの災害弱者のスローガンであって、よほど信念をそろえた(みんな必ず迷わず逃げていると信じられる)家族や集団でない限り、達成できるものではありません。


 同じ昨年の3月11日、首都圏は数百万人もの帰宅難民が溢れていました。しかしのちのこの人たちの証言によると、幹線道路のいたるところで企業や商店が入り口を開け「トイレを使ってください」「休憩室を用意しています」と呼びかけていたそうです。ポットと紙コップを持ち歩いてコーヒーを配布しているおじさんや、薬局から買い込んだ使い捨てカイロを配っているおばさん、ある青年は家に帰って来た母親が、急いで大鍋に大量のトン汁を作り始めたことを感動をもって書き残しています。そしてそれと同じものかどうかは分かりませんが、帰宅の途中路上でトン汁を勧められ「ボクは大丈夫ですから、あとから来る人に上げてください」と譲った青年がいます。みんな誰かのために働こうとしていたのです

 私たちは何んと無垢で純粋なのでしょう。

 昨日、東日本大震災一周年追悼式のテレビをつけ、2時46分にともに黙祷しがら思ったことは、やはり人は誰かのために生きなければならないということです。

 私たちの体の中には、誰かのために生きるという情熱が確実にみなぎっていて、しかしそれは普段は固く封印されて表に出てこない、出てくるのはエゴイスティックだったり我がままだったりする自分ですが、やはり底には強力な愛他の精神がたぎっていつも出番を待っている、それが私たちなのです。

 私はそのことを子どもたちに伝えたいし、ここまでの危機ならずとも、今からでもその情熱を静かに表出させ、周囲に広げられる子どもに育てたいと思います。



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2012/3/9

正義のコスト  教育・学校・教師


 公務員制度改革の一環として、新規採用を大幅に減らすとともに年長者への退職勧奨(退職金の上乗せと引き換えに早期退職をしてもらう)が進められるという記事が出ていました。

 ところが新規採用の大幅削減などと言わなくても、放っておいても削減せざるを得ないはずだという話が出ています。それはここ数年続いた「天下り批判」のために天下り先が激減してしまい、50代半ばで退職していた公務員たちが定年まで官庁に居座るようになったからだと言うのです。退職者が減れば新規採用も減らさざるを得ません。
困ったことに、50代の公務員は給与が非常に高いので、この人たちが居座るおかげで給与総額が伸びてしまい、そこで「退職勧奨」の話が出てくる・・・一部のマスコミの言うことですから本当かどうか分かりませんが、辻褄は合っています。

「天下り排除」という正義を貫くために、すべての国家公務員が定年まで居座るというコストを私たちは甘受しなくてはなりません。


 指導力不足教員というのは平成16年の566人(全国)をピークとして毎年下がり続けています。それにつれて「指導力不足教員ゼロ」という都道府県・政令指定都市もいくつか見られるようになってきました。しかし「そんなはずはないだろう」というのがほぼ共通する実感です。もっとも教員数の圧倒的に多いはずの東京よりもずっと母数の少ない香川あたりが大量の「指導力不足教員」を輩出しているなど、指導力不足の“認定”そのものにも怪しい面がありますから、最初から妙なのです。一体どうなっているのでしょう。

「指導力不足」は犯罪でも背任でもありませんから、それを理由に即クビにするわけにはいきません。そこで1年乃至は2年といった研修期間を経てまた現場に戻すわけですが、一人の教員が現場を離れるということは別の誰かを穴埋めに入れるということです。普通は講師で対応しますが、指導力不足教員の代わりに入る講師の給与は安く見積もっても年間400万円はします。つまりひとり「指導力不足教員」を出すためには400万円の裏付けがなくてはならないのです。それが正義のコストです。

 香川県はそのコストをよく負っているということなのかもしれません()。他の県は、もしかしたらその400万円で同じように講師を雇い、チーム・ティーチングで2〜3クラスの授業の質を上げているのかも知れません。


 先日も書いた義務教育の留年制、語られている部分について言えば“正義”ですが、人間性や人間関係のスキルを高めるための学級という集団を失うのはたいへんなリスクです。しかしそれだけではありません。義務教育の留年制は予算的にも大きな問題を抱えているのです。

 例をあげます。たとえば各学年2クラス、全校で6クラスの中学校があったとします。計算をしやすくするためにすべてのクラスが定員ギリギリの40人(各学年80名ずつ)だったとしましょう。翌年の新入生も1クラス40人の計80人です。

 年度の終わりに精査したところ、3年生が3名、2年生が2名、1年生が1名の留年になったと考えます。すると翌年の3年生は全部で(80−2+3の)81名、2年生は(80−1+2で)81名、新1年生は+1の81名となります。法令によれば1クラス40名を越えるとクラスを二つに分けなくてはなりませんから、この学校の学級数は全学年1クラス増で6から9になります。

 学級数が6と9とでは教職員数が違ってきます。教職員定数は標準法にしたがって各都道府県が決めますが、6学級の学校は11人(校長を含む)、9学級だと16人というのが相場です。つまり5人の正規教員が新たに必要となるわけです。その給与ざっと3000万円ほどになるでしょうか。留年制は金がかかるといわれる所以です。

 残る問題はひとつです。それは「どんな犠牲を払ってでも正義は貫くべきか」です。

 もっとも公務員はコスト意識が薄いといいますから、結局やってしまうのかもしれません。


*香川県を持ち出したのはたまたま「指導力不足教員 香川はなぜ多い−四国新聞社」という記事を見つけたからです。それも2004年の話です。最近の様子はうまく検索で取れないので分かりません。香川県の方、お気を悪くされたら申し訳ありません。
 ただし正直申し上げて、香川・徳島を始めとして四国四県は文部行政に対してまじめに対応しすぎるという気がしています。他の都道府県はもっとすれっからしです。



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