2012/3/26


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 更新を休んでいる間に、アクセスカウンタが150000を越えました。150001は偶然にも私自身がゲットしました。
                               ココ→


 ブログを初めて5年半、記事は1232本になります。


 いつも可愛がってくださる皆さま、
 ありがとうございます。










                          →→→→




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2012/3/19

ブログでお付き合いいただいている皆さま  


 卒業式を終えて、春休みに入りました。
 「デイ・バイ・デイ」は基本的にお休みになります。

 いつも可愛がっていただき、とても感謝しています。

 予定として、次回は4月2日からになります。
 
 その節はまたよろしくお願いします。




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2012/3/16

風立ちぬ  教育・学校・教師


 いよいよ卒業式です。

 お互い、よくここまでやってきました。誉め合いましょう、讃え合いましょう、ねぎらい合いましょう。
 教職員同士、児童生徒同士、子どもと大人の間で、互いに成長したことを確認し、1年間、ぶじに過ごせたことを喜び合いましょう。

 私にとってこの一年は私事で大いに動いた年でした。4月になればさらに変化が起こります。変化は良い結果を呼び起こすこともあれば悪いことをもたらすこともあります。変化のない安穏もいいですが、変化に自分を乗せ自らを省みるのもいいことです。来年度こそ、何か新しいことを始めたいと思っています。

 学校の方は実に平和な一年でした。子どもたちに大きな事故はなく、職員の交通事故も今年は一件もありませんでした(実は去年は4件もあった)。天候に恵まれないこともままあったとはいえ、ほとんどの行事は大過なく終えることができました。子どもの成長のあとは、さまざまな場面で見られます。

 学校が平穏だと世間はついつい甘く見がちですが、“何事もない”“普通の子どもたちが普通に勉強している”という状態が、教職員の偉大なスキルや努力によって支えられているということに気づいていないのです。それは内部の者だけが分かることです。

 ですからお互いに、誉め合いましょう、讃え合いましょう、ねぎらい合いましょう。

 今日を最後にこの地を去られる先生方、この学校から持ち帰るべき一番のことは、どんなに時代が進み社会が変わっても、条件がそろえば子どもたちは昭和初期の雰囲気で学ぶことができるという事実です。それは常に危うく薄氷を踏むようなものですが、実は確実にある。その記憶が今後の糧になります。

 残留の先生方、来年は新たな発信をしましょう。私たちに何ができるか、もう一度試してみましょう
 
 一年間ありがとうございました。


 風立ちぬ いざ 生きめやも




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2012/3/15

夢の持ち方A  教育・学校・教師


 かつて「自分探し」という言葉が流行ったことがあります。ほんとうの自分を探し、自分が生まれてきた意味を探るために、旅に出たり、あるいは定職につかず一定期間フリーターとして働くことを言います。彼らの望んでいたのはある程度自由な身分のまま、さまざまな人に出会ったり環境に身を置いたりすることで、ある日突然しっくりくる自分、自分に最もふさわしい生き方を見つけ出すといったものだったように思います。

 今は学校を出ると同時に定職につかなければ、生涯ハケンかフリーターだとか言われますので表立った「自分探しの旅」はなくなりましたが、本質的に自分をつかみ損ねてフワフワしている若者はけっこういそうです。

 ただしこの「自分を探す」とか「自分の生まれてきた意味を探る」とか、あるいは「自分をつかみ損ねる」という言い方には、「本当の自分」は「この自分」とは別のところにある、という思い込みがあります。「本当の自分」は、自分の外や自分自身の中の片隅にあるようなのです。

 しかしそれは違う、と言ったのはサルトルでした。人間というのはそういうものではない、人間は万年筆や机や椅子とは根本的に異なるのだと。

 例えば、「万年筆」は、製品としてできあがる以前から存在しました。どんなふうに存在したかというと、「インキ壺を内蔵し、いつまでもインキの出続ける筆記用具」といったかたちで人間の頭の中に存在したのです。頭の中の「万年筆」はのちに具体的な製品のかたちとなって現れます。机もイスも、「物を置いたり書いたりするための平面を持った台」とか「人間が高い位置で座るための道具」とかいったふうにまず人間の頭の中に存在し、それから「モノ」になります。しかし人間は違う。

 それは誰かの頭の中に概念として存在し、それから物となって世の中に生み出されたのではなく、まず生まれてしまう、生まれてから存在が問われると言うのです。

 もちろんそう言えば、いや草や木や、魚や鳥だって何かの用途や先行する概念があって生まれたものではないという反論ができますが、これら草や木や、魚や鳥と人間とでは、決定的な違いがあります。それは人間だけが「自分の生まれてきた意味」を問うからです。人間だけが「本当の自分」を持ちたがるのです。
 
 若い人と話していて「本当の自分」や「自分に正直に」といった話が出てくると、最後に持ち出すのがこのことです。自分の外や自分の内部の片隅に「本当の自分」があると考えるのも間違いであれば、いま感じている「自分」だけが自分であると考えるのも間違いです。

「自分」はまず生まれてしまうのですから、空っぽの何もないところから創り上げていくしかないのです。そして日々更新することによってしか存在しません。

 夢をもつというのは、そうやって自分を創り続けるために目標を置くという、ただそれだけの意味しか持たないのかもしれないのです。


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2012/3/14

夢の持ち方@  教育・学校・教師


 私の甥に、自己表現という点では天才的な子がいて、高校生の頃、自分の将来についてこう言って驚かせたことがあります。
「SuperTさん、オレ、自分のやれることの中にやりたいことがないんだよね」
 ああそうなんだよな、私の子どもの頃の悩みも結局そういうことだったんだよな、と思いました。

 やりたいことがないわけではない。しかしそれは今の実力では簡単にはできそうにない。しかしできそうなことの中にはやりたいことがない。
 言ってみれば単なる怠け者のたわごとですが、当事者にとっては深刻な問題です。


 卒業式のシーズンになり、卒業生たちは「将来の夢は?」といった質問をされることが多くなっています。こうした時、かなり現実的な希望を持っている子はいいのですが、内心で分不相応な夢を持っているような子は言葉を失います。

「子ども歌謡コンテスト」とか何かで入賞していればいいのですが、何の実績もないのに歌手になりたいなどと言ったら笑われる・・・そこで「今はなりたい仕事は決まっていませんが、高校に入ってから・・・」といった言い方になるのですが、そんなふうに先延ばしにしていいものではないような気もします。

 昔、読んだ本の中にこんな話があります。
「自分の好きなことを仕事にする」というのは理想だが“好きなこと”の構造は単純ではない。例えば「歌を歌うことが好き」の一番軽いレベルでは“娯楽”だが、一歩深まれば“趣味”の段階に入る。その“趣味”が昂じて“特技”のレベルまで行くと「職業」が遠くに見えてくる。

 娯楽も趣味も特技もみんな「好きなこと」です。しかし「仕事にする」には“特技”の段階まで行って、それでもなお困難です。しかしとりあえず「好きなこと」を“特技”のレベルまで追い込んでおかないと話になりません。

 徒然草の中にこんな話があるそうです(第150段)。
(原文)
 能をつかむとする人、「よくせざらむ程は、なまじひに人に知られじ、内々よく習ひ得てさし出でたらむこそ、いと心にくからめ」と常にいふめれど、かくいふ人、一芸もならひ得ることなし。いまだ堅固かたほなるより、上手の中にまじりて、誹り笑はるゝにも恥ぢず、つれなくて過ぎてたしなむ人、天性その骨なけれども、道になづまず妄りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位にいたり、徳たけ人に許されて、ならびなき名をうることなり。天下の物の上手といへども、はじめは不堪のきこえもあり、無下の瑕瑾もありき。されどもその人、道の掟正しく、これを重くして放埒せざれば、世の博士にて、万人の師となること、諸道かはるべからず。
(現代語訳)
 芸能を身につけようとする人で、「うまくできないうちは、なまじっか人に知られまい。内緒でよく練習したうえで人前に出るのが理想的である」と言う人があるけれども、こんなことを言う人は、一芸も習得できることはない。
 未熟なうちから、上手な人に交じって、笑われようとも恥ずかしがらず、平気で押し通して稽古に励む人は、生まれつきの才能がなくても、中途で休まず、練習を我流にせず何年も励んでいると、才能があっても芸にうちこまない人よりは、ついには上手の域に達し、人徳もそなわり、世間からも認められ名声をえるものである。
 天下に聞こえた芸能の達人といへども、はじめは下手との評判もあり、欠点もあったものである。
 けれども、芸能に定められたいましめを正しく守って、勝手気ままにしなければ、その道の名人になることは、どんな道でもかわることはない。

 とにかく始めにゃ始まらないということです。
 とくかくやらせなければ始まらないとも言えます。


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2012/3/13

まいちゃん、イイネッ!  教育・学校・教師


 ネット上をフラフラしてたら「Genki tweets」というページに出会いました。「東日本大震災後、ツイッターに集まった元気が出る100つぶやきを集めました」という触れ込みです。

 私はボロボロ涙を落としながら最後まで読みました。人間とは何と美しいのでしょう。

「バイト中に地震があってほぼ満席の状態からお客さんに外に避難してもらいました。食い逃げ半端ないだろうな、と思っていたほとんどのお客さんが、戻ってきて会計してくれました。ほんの少しの戻られなかったお客さんは、今日わざわざ店に足を運んでくださいました。日本ていい国」

 3月11日当日のツイートの多くは帰宅難民からのものだったようです。

「一回の青信号で1台しか前に進めないなんてザラたったけど、誰もが譲り合い穏やかに運転している姿に感動した。複雑な交差点で交通が5分以上完全マヒするシーンもあったけど、10時間の間お礼以外のクラクションの音を耳にしなかった。恐怖と同時に心温まる時間で、日本がますます好きになった。」

 この日は数多くの人々が勝手に炊き出しをし、沿道を歩く人々にコーヒーやらおにぎりやらトン汁やらを配布していたみたいです。中にはこんな人もいました。

「ホームで待ちくたびれていたら、ホームレスの人達が寒いから敷けって段ボールをくれた。いつも私達は横目で流してるのに。あたたかいです」


 翌日、

「駅員さんに『昨日一生懸命電車を走らせてくれてありがとう』って言ってる小さい子達を見た。駅員さん泣いてた。俺は号泣していた」
 
 しばらくして落ち着き、募金活動が始まると、別の風景が見られるようになります。

「今日、募金箱に金髪にピアスの若い兄ちゃんが万札数枚入れていた。そしてその友人に
『ゲームなんていつでも買えるからな』と言っていたのが聞こえて私含め、周りの人達も募金していた。人は見た目じゃないことを実感した。そんなお昼でした」


「Genki tweets」の中で一番好きな話は次のふたつです。

「『お前今日なんで髪ストレートなん? 俺、巻き髪の方好きって言ったべ』
『そ−だけど−、まいに出来る節電ってこれくらいしか思いうかばなかったしい−』
電車の中でのギャルカップルの会話。日本全体が自分にできることを考えてんだなって実感して、なんかうるうるしてしまいました。まいちゃんイイネ!」

「匿名掲示板にて『みんな逃げ出して灯りも少ない、万引きし放題のコンビニに着いたら、お前らはどうする』という問いに即レスで『全裸で徘徊する』とついた。その後続々と賛同者が現れた。この国は駄目だけど元気です」


 コンビニを全裸で徘徊なんて最低だが(そんなオレでも)略奪は考えない、思いつきもしないというのがこの話のミソ。いい話です。

「ツイッターに集まった元気が出る100つぶやき」すべて廊下に張り出したので、また見ておいてください。


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