2012/2/29

2月29日  歴史・歳時・記念日


 2月29日です。

 小学校では「地球は太陽の周りを365日かけて一周する」と教えますが、正確には約365.242199日で回っています。これを「平均回帰年」といいます。つまり平均的な地球の周回日数で、端数が0.242199日、およそ1/4日あるのです。

 したがって4年に一回、1年の日数を1日増やしてやると季節と暦のずれを修正できます。これが閏年です。ただし「およそ1/4日」ですから、閏年を設定すると今度は約―0.030004日ずれてしまうことになります。そうしたずれを出さないためには、閏年は400年に97回あればいいことになります。閏年は4年ごとにやってはならないのです。

 そこでグレゴリオ暦では、閏年について次のようなルールがつくられていました。
 1 西暦年が4で割り切れる年は閏年
 2 ただし、西暦年が100で割り切れる年は平年
 3 ただし、西暦年が400で割り切れる年は閏年
 それでもずれは解消しませんが、残った分は約3320年で1日となりますから、“その時”になって考えればいいことです。

 再三申し上げている通り、古代ローマ歴はMarchに始まってFebruaryに終わりましたのでFebruaryで日数調整をします。したがって2月が28日だったり29日だったりします。

 また、これも繰り返し申し上げている通り、閏年と夏季オリンピック・アメリカ大統領選挙は必ず一致します。したがって閏年になったら「今年は夏のオリンピックとアメリカ大統領選挙があるな」と思っていればいいのですが、今回、はじめて例外があることに気づきました。 

 それはグレゴリオ暦閏年の第2と第3のルールです。
「西暦年が100で割り切れる年は平年」「西暦年が400で割り切れる年は閏年」ですので、1900年のパリ・オリンピックおよびアメリカ大統領選挙は閏年ではありませんでした。

 ただし2000年のシドニー・オリンピックとブッシュ・ジュニアが当選したアメリカ大統領選挙はグレゴリオ暦閏年の第2法則にも関わらず、第3法則によって閏年が復活し、それぞれ閏年の夏季オリンピック、アメリカ大統領選挙となっています。

 2月29日生まれの有名人としては、男性は佐久間象山(幕末藩士)、二葉亭四迷(小説家)、原田芳雄(男優)、赤川次郎(作家)、押阪忍(司会者)、ブライアン・ジョーンズ(元ローリング・ストーンズ)、田原俊彦(タレント)などが挙げられます。
 女性では、菅井きん(女優)、兼高かおる(旅行家)、膳場貴子(アナウンサー)、飯島直子(女優)、菊川玲(女優)、吉岡聖恵 (歌手《いきものがかり》)。変わったところではオバケのQ太郎が1964年の2月29日生まれだそうです。

 吉岡聖恵は今日で7回目の誕生日(28歳)なので、つい先日まで「私は6歳」とか言っていましたが実はそうはなりません。法律上「みなし誕生日」というのがあって、「道路交通法」や「銃砲刀剣類所持等取締法」では前日の2月28日が誕生日ということになっています。そうでないと20回目の誕生日、つまり80年目にならないと運転免許が取れないことになってしまいます。

 もっともこれは法律上の規定であって日常生活を規定するものではなく、2月29日生まれの多くの人は3月1日を「みなし誕生日」としてパーティを開いたりプレゼントをしたりしているようです。


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2012/2/28

いっぱい教えて、たくさん練習させた〜義務教育の留年制についてB  教育・学校・教師


 PISAの学力調査でフィンランドが世界一になったとき、さまざまな説明がフィンランド国内から発信されました。やれ教員が修士所有者だとか、よく本を読むからだとか・・・しかしその中で、もっとも愉快でその通りだと思ったのは「いっぱい教えて、たくさん練習させたから」というものでした。この件については改めて書きますが、後にフィンランドの小学校の教科書を見たら、その「いっぱい教えて、たくさん練習させた」の意味がとてもよく分かりました。
 
 東日本大震災の際に発信された大量の映像・画像の中に心に残るものはたくさんあるのですが、そのひとつは広い校庭の上に、給水車からのびる長い、長い、長〜い人の列です。それぞれバケツやらヤカンやらポリタンクやらをもって並んでいるのですが、最後の方の人が給水を受けるのは3時間後といった有様でした。近くのガソリンスタンドからはこれまた長〜い車列続いています。こちらの方は5時間待ちとか。しかし人々は並ぶのをやめません。

 そうした秩序ある態度に対して、日本人評論家の中には「国民の中に確固として残っていたDNA」などといったアホな論評をした人もいましたが、そんなDNAがあったらたまったものではありません。○○人の「けんかっ早いDNA」だの△△人の「グータラなDNA」などと言い出したら科学ではないからです。

 被災者たちが我慢して並び続けたのには二つの理由があります。
その第一は「待っていれば必ず公平な分配が行われる」という供給者にたいする信頼です。ワイロや縁故で横流ししているかもしれないと思ったら、とてもではありませんが3時間も待つことはできないでしょう。並ぶ時間があったらコネを探した方が圧倒的に確実です。

 もうひとつは「他のみんなもそうしている」という日本人全体に対する深い信頼です。「もしかしたらどこかでうまいことをやっているヤツがいるかもしれない、しかし大多数は自分と同じように愚直に並んでいる」、そう信じなければ、これまた並んでいることは耐えがたくなります。

 ところでそうした信頼に根拠はあるのでしょうか?―もちろんそんなものはありません。根拠はないのに信じられるのは、まさに私たちが「いっぱい教えて、たくさん練習させたから」です。保育園の時から義務教育を終えるまで、日本の子どもは何百回も並ばされ公平な分配を受けてきました。ですから並ぶことにも公平に扱われることにも“慣れている”のです。それが普通だと、信じ込まされ、事実“それが普通の社会”をつくりあげてきました。

 津波に町が破壊されつくした時、もとからあった町内会が機能したことはよく分かります。しかし横のつながりのなかったマンションの住人たちも、あっという間に自治組織をつくりあげてしまうのです。それも「いっぱい教えて、たくさん練習させたから」です。
「当番活動はしっかりしなさい」「係の仕事は掛け替えがないのです」「他人の仕事に出しゃばってはいけません、しかし義務を果たさないこともいけません」。こうしたことは日常の当番活動から文化祭の係、修学旅行の係活動などを通して何百回も練習し続けたことです。だからいざという時も、困らないのです。

 しかしこうしたこともやがて失われています。

 橋下市長たちは暗に言います。「そんなことDNAに刷り込まれてるのだから改めて訓練する必要ないじゃないか。いま本当に大切なのは学力なんだよ。それがすべてさ」

 世界を感嘆させた日本人の態度というのも阪神・淡路、東日本までで終わりかもしれません。何十年後かの次の災害では、四川・ニューオーリンズ・ハイチ・日本と並び称されるに違いありません。そのときはせめて、学力だけは世界一であってほしいものです。
                            (以上、もちろん皮肉です)




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2012/2/27

義務教育の留年制についてA  教育・学校・教師


 先週金曜日に申し上げたように、橋下市長は喧嘩上手で言ったことを100%その通りにしようとは必ずしも思っていません。しかし義務教育の留年制度は禁断の果実ですから、いったんたしょうとも手をつければ、あとには戻れないものです。これに口をつければ私たちの子孫は「日本」という楽園を終われることになります。

 東日本大震災で見せた見事な統制や支えあい、いやそれ以前から評価の高かった町の清潔さや寸分狂わない交通システム、常に誠実であろうとする態度や「おもてなし」といった文化は、学校が膨大な特別活動(学級活動や学校行事)によって支えてきたものです。

 学校に留年制度を導入するということはそうした道徳教育の母体を崩すということです。
もちろん“学級”は捨ててもいい、「道徳」は別の組織が請け負う、フィンランドや諸外国がそうであるように、学校は“学力”だけに責任を持てばいい、そういった覚悟があれば別です。しかし学校から根こそぎ「道徳」のシステム(学級)を奪っておいて、あとから「ところで道徳教育はどうなっているの」と追及されてはかないません。

 別件みたいですが、かつて「学校の自由選択制」が全国に広まったとき、これが地域社会を壊すものだという点に誰も触れなかったことを私は不思議に思いました。

「地域」はこれまで一貫して“隣組”と“学校”が支えてきました。「ご近所」の煩わしさをできるだけ逃れようとしてきた人も、学校のPTAや地区行事を通して強制的に「地域」に組み入れられ、人間関係をつくらされてきたのです。そうして活動するうちに、「地域」の良さも分かってきます。

 それが選択制によって「子どもはどこの学校に行ってもいい」ということになると、少なくとも地域の子ども行事には参加しなくて済みます。親は地域のしがらみから完全に自由になり、子どもの行事そのもののも次第に消えていきます。そんなことは最初から分かっていたことです。

 今ごろになってあちこちの地域から「学校の自由選択制を見直してほしいと」か「安易に区域外通学を認めないでほしい」とかいった要望が頻出し、「選択制」は岐路に立たされているといいますが、最初から地域社会の破壊を承知で始めたことです。いまさらやりなおしてみても取り返しはつかないでしょう。

「義務教育で本当に必要なのは、きちんと目標レベルに達するまで面倒を見ること」という橋下市長の論はごもっともです。しかしそれは40人の子どもを一人の教師が見るという現行の制度だから難しいのであって、児童・生徒を20人に減らせば、あるいはひとクラスを複数の教員で見て必要に応じて外に取り出し個別学習をすればそれだけで済むことです。つまり金の問題であって、留年制といった危険な賭けをせずとも果たせるのです。

 学校という組織は非常に有機的な存在で、人間の身体と同じように、どこかをいじれば別のどこかに必ず深刻な影響を及ぼします。その副作用まで十分に見極めないと、本当は手を出してはいけないことがたくさんあります。


                                  *もう一回続けます。


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2012/2/24

義務教育の留年制について@  教育・学校・教師



 橋下徹大阪市長が義務教育の留年制について検討するように指示を出したそうです。

 橋下徹という人は喧嘩上手で、十通そうとするときに二十吹っかけて十引くというやり方をよくします。こちらとしては二十を半分にしてもらったわけですから何んとなくホッとしてしまいますが、橋下側から見れば完全勝利のようなものです。もちろん“そうしたやり方をよくする”と分かっているなら最初から十を念頭に勝負すればいいようなものですが、本気で十八くらいまで通せる力を持っているので始末の悪いところがあります。

 さて、義務教育での留年についてですが、
「義務教育で本当に必要なのは、きちんと目標レベルに達するまで面倒を見ること」
「留年は子供のため」

という橋下市長の言い分は正論で、おそらく私たちの中にも賛同者はでてくるはずです。何んといっても学問には系統性と階層性があります。1年生の内容をある程度理解していないと次の段階が非常に苦しい。中1の英語がほとんど分かっていないのに2年生になったらよく理解できるようになったというようなことはめったにありません。そこから、「留年は子供のため」という論理が出てくるわけですが、現実的運用として果たしてうまく機能するでしょうか。

 勉強の苦手な子どもは万遍なく成績が悪いわけではありません。算数が苦手な子もいれば国語ができない子もいます。体育がまったくダメな子もいれば運動だけ飛び抜けて優秀な子もいます。したがって“留年”を前提とすると、苦手な一教科のために得意な別教科も再履修することになります(留年制度のあるフィンランドの場合は、8科目中2科目で及第点を取れないと進級できません。したがって不必要な教科も学習しなおしているはずです)。

 例えば小学校2年生で体育の苦手な子は、そこで留年すると得意なかけ算九九まで最初からやることになってしまう・・・。

「いや、そんなことはないだろう。ダメな体育だけやり直せばいい」
当然そういう理屈は出てくるわけで、そこから次にくるのが“義務教育の単位制”です。これだと体育だけ下の学年でやり直せばいいことになります。

 Aちゃんは体育と理科が下の学年、Bちゃんは算数と社会科が二つ下の学年・・・というふうにやるわけです。そして上の学年からもXさんが国語と社会の時間に降りてきて、Yさんは体育と算数だけ参加しに来るということになります。

 問題は、そうなると現在のような“学級”が維持できなくなるということです。

“学級”はひじょうに閉鎖的な空間で、好むと好まざるとによらずそこの人間関係に縛られます。優秀な子もいればそうでない子もいる、好きな子もいれば嫌な奴もいる。そうした様々な人間の中で多様な活動を行いながら、日本の子どもたちは人間関係を学んできます。

 しかし単位制にした場合、そうした人間関係の学びがほとんどできなくなってくるのです。

(フィンランドの場合、学校の仕事は教科教育をすることで、人間関係の学び《=道徳》は求められません。したがって学校の行事も90%以上は自由参加です。“学級”が必要とされることもないのです)


                                  (月曜日に続きます)


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2012/2/23

ナマケモノ  教育・学校・教師


 適者生存という言葉はスペンサーが言い出してダーウィン科学的に説明したといわれています。しかし世界には「なんでこんなモンが生きながらえたのか」と首を傾げるような動物はいくらでもいます。

 例えばパンダ。何しろあの巨体を維持するのにササしか食べないというワガママぶり、しかも色はやたら目立つツートーン・カラー、赤ん坊はほとんど未熟児状態のひ弱さです。どうやって21世紀まで生き延びることができたのか。

 さらに不思議な生き物はナマケモノ。生涯のほとんどを樹にぶら下がって過ごし食事や睡眠から交尾・出産までも樹にぶら下がったままで行う、主食は葉や新芽など、動物園でじっと見ていてもほとんど動かず、たまに食べ物に手を伸ばすにしても恐ろしく緩慢、しかもエサは飼育係がわざわざ手の届く範囲につるしたものです。それでなぜ他の動物に襲われないのか。

 そこで調べてみると意外なことが分かりました。とにかく動かないのが特技で、昼間は両腕の中に頭を入れて丸くなって眠るので遠目には樹の一部に見え、おかげでジャガーなどの肉食獣の目にふれない、年を取ったナマケモノの中にはご丁寧にも背中にコケを蓄えたものまで出てそれでいっそう目につかなくなる。つまり動かないことが、野生を生き延びる有効な手段なのです。

 私がこの動物に興味を持ったのは、「熱帯雨林やサバナに、鈍感な生き物はいるのだろうか?」という疑問を持ったことに始まります。なぜそんな疑問を持ったのかというと、私自身かなり鈍感なところがあって「元野生動物の血を引く私が、なぜかくも鈍感に育ったのか」と不思議に思ったからです(というよりはそう指摘された)。

 ただしナマケモノについて調べていくとさらに驚くべき事実が分かってきます。この動物、危急存亡の際には驚くべき速さで行動できるのです。例えば週一回程度の排便・排尿のときは(危険極まりない瞬間です)、一気に樹を下って地上で用を済ませ、またそそくさと登って“固まる”のです。さらに熱帯雨林につきものの洪水で命を落とさぬよう、泳ぐ方もすばらしく堪能だといいます(しかしその動きを支える筋肉を、ナマケモノはどこで鍛えたのでしょう)。つまりナマケモノは動きが鈍いのではなく、じっと動かないことで生存が保障されるので、がんばって(かな?)そうしているのです。決して怠けているわけでも鈍感なわけでもありません。

 広大な野生の地で鈍感でいられる動物は、おそらくひとつだけです。ライオンのオスは大草原に寝そべって腹を見せ、日中から高いびきで寝るといいますからたぶん彼だけが鈍感でいられるのでしょう。それはそうです。どんなに隙を見せても、雄ライオンは襲われる心配はまずないからです。

 かくして私の謎も解けます。私が鈍感なのは私が強者だからです(と家族には言っておきましょう)。

 あまりにも神経質でデリカシーを売り物にする人がいると、“おまえ、野生に近いよね”と言ってからかったりすることがあります。


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2012/2/22

市井教育論  教育・学校・教師


 世の中の人たちはどこで教育を学ぶのだろう?
 これは間違いなく新聞やテレビといったマスメディアを通じてです。

 だいぶ前のことですが、以前の学校の保護者から、「日本の先生は、授業の時間は世界一少ないのに、雑用とかがたくさんあって本当に大変なんですよね」と言われてびっくりしたことがあります。そこで思い出したのはその数ヶ月前、どこかの新聞に、
「日本の教科指導にかける時間は先進国中最も少ないが、雑用が多いために拘束時間が跳び抜けて長い」
といった記事が出ていたことです。そのことを下地に、学校に同情を寄せた、そういうお話です。

 しかし記事はその程度であり、そこから得られる情報もその程度です。
“雑用”と呼ばれる仕事の中身が、テスト作成や採点、社会見学の計画やPTA活動、児童・生徒会の計画といった学校に不可欠な仕事だということは、その人もその記事を書いた記者もしりません。ただ何となく、いろいろさせられていると思っているだけです。その上で教科指導の時間の少なさを嘆きます(*)。

*この「教科指導の時間の少なさ」というのは未だに理解できません。どう考えても授業時数は世界トップランクのはずです。もしかしたら数学・国語・外国語といった世界に共通する教科だけを比較したもので、家庭科や音楽・美術などが必修の日本は不利なのかもしれません。


 私はかつて学習心理学の論文を大量に調べたことがありますが、研究の基礎となる考え方がことごとくマスコミに汚染されていることに唖然とさせられました。例えば「子どもたちは厳しい競争に晒されているために・・・」とか「日本型の詰め込み教育のために・・・」とかいった具合です。基礎が狂っているから当然研究は間違った結論を導きます。しかしそれにも関わらず周囲がすべて同じ方向に染まっているから、間違っていることに気づきません。

 安倍晋三内閣のつくった「教育再生会議」はそうした間違いの上につくられた会議で、したがってそこから導き出された「教育改革」のほとんどが誤りでした。「教育再生」というからには日本の教育がすでに死んだことを前提としてカンフル注射を打ったつもりなのでしょうが、健康な体にカンフルを打てば身体は傷みます。現在の教育の混迷の原因のひとつは、確実に健康な日本の教育を不用意にいじった「教育改革」のためであって、何もしなければむしろうまく行っていたはずだと私は思っています。

 そうしたことを前提として、今の私たちに何ができるか。
 マスコミの生み出す間違った市井教育論に対して学校のやっていることを明らかにし、常に訴えていくこと、説明していくこと、それしかないと思うのです。


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