2011/11/30

明日から12月  歴史・歳時・記念日


 明日から12月、日本では「師走」という言い方もしばしば使います。元は僧侶が仏事で走り回る様を言ったようですが、師を「先生」と解釈し、日ごろ落ち着いている先生でも走り回るほど忙しいという説もあります。これについてはよく子どもたちに話したりしますね。

 英語のDecemberは、「10番目の月」の意味。繰り返し言っていますが、古代ローマ暦で1年はMarch(3月)からスタートしたのでそこから数えて10番目という意味です。(古代ローマ暦ではFebruary《2月》が最終月ですのでそこで1年の帳尻を合わせました。普通の年に2月が28日しかないのも、閏年に2月を29日にするのもそのためです。閏秒は6月か12月の末日に調整します。)

 12月の記念日としてはまず8日。太平洋戦争開戦の記念日であるとともにビートルズのジョン・レノンの殺された日でもあります。
 12月9日は夏目漱石の命日である「漱石忌」、10日は「世界人権デー」。12月17日は「ライト兄弟の日」(世界で最初に飛行機が飛んだ)記念日です。21日は冬至で、一年で一番昼の時間の短い日です。12月23日は天皇誕生日、24日がクリスマス・イブ、25日はクリスマス、そして31日が大晦日(おおみそか)。今年もこの日で終わってしまいます。


 日本は江戸時代まで月の満ち欠けを中心とした太陰暦が使われていました。月の満ち欠けの周期(これを朔望月《さくぼうげつ》と言いますが)は、月の複雑な動きによっておよそ29.27日から29.83日(平均して29.530589日)となっています。そこで太陰暦では一ヶ月を29日または30日とし、この大小の月を交互に配置してカレンダーをつくりました。

 しかしこれだと1年の日数は353日〜355日で、太陽暦の365日より10日ほど少なくなってしまいます。そのままにしておくとどんどん生活実感と合わなくなるので、3年に1度ほど、1年を13ヶ月として余計な月一か月分入れます。これを閏月(うるうづき)といい、閏月のあるとしを閏年と言いました。

 太陰暦はとても便利で、夜、月を見るだけで大体の日にちが分かります。月が見えなければ一日(ついたち)、三日月だったら三日ごろ、満月は15日で、また月のない日がきたらそれは30日か翌月一日になります。月が見えないのに「新月」というのは月暦が改まったからです。

 一月の最終日の30日は「みそか」と読まれました。三十路(みそじ)というときの「みそ」です(私は子どものころ、味噌日だと思い込んでいたのでいつも不思議でした)。ですから一年の最終日は「大みそか」です(今は31日のことですが)。現在は「大晦日」と書きます。しかし本来は「大三十日」と書いたほうが分かりやすい考え方ですね。

 旧暦では年を越すと一斉に一歳年を取ります。新しい年齢になります。そこから大晦日をお年取りといったりします。

 12月はしばしばベートーベンの「第九交響曲」が演奏されますが、別に12月と「第九」に因縁があるのではなく、オーケストラが年越しの資金集めをしなくてはならず、その際「第九」がもっとも人を集めやすいから選ばれたといわれています。


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2011/11/29

墓と仏壇と家A  教育・学校・教師


 先週の金曜日に仏壇と位牌と墓の引継ぎの話を書いたら、翌日の朝刊に「政府『女性宮家』の検討表明」などという記事が出ました。

「現在の皇室典範では、女性皇族は天皇、皇族以外と結婚すると皇籍を離れる。現在、三十歳未満の皇族九人のうち、男性は皇位継承資格者である秋篠宮さまの長男悠仁さまのみ。女性宮家の創設など女性皇族が皇籍にとどまる方策を考えなければ皇族の数は減り、将来の皇位継承にも支障を来すというのが宮内庁の問題提起だ」(東京新聞)
ということです。

 で、(畏れ多いことですが)ふと思ったら私の家もほぼ同じで、現在30歳未満の一族3人(こちらの方が寂しいな)のうち、男性はウチの息子ひとりなのです。息子が仏壇を引き継ぐころ、その中には私の祖父母と両親、伯父夫婦と私の弟夫婦、それから(よく分からないのですが)祖父母の上の人が2〜3人、合わせてざっと10人くらいの位牌が入っていることになります(つい最近まで仏壇そのものがなかった家なのに)。

 で、息子が独身のまま終わるとか、名を継ぐ子どもが生まれなかったりするとその位牌と墓が全部宙に浮いてしまうわけです。私や妻の分はともかく、両親や祖父母の分まで捨てられるとなるとこれは申し訳ない。

 若い頃は・・・どころか先週までまったく考えていなかった(正確に言えば考えないようにしていた)ことが、やや重くのしかかっています。そんなことまで考えて結婚したり家族計画を立てたりする人はそうはいないでしょ。しかしこの年になると、たしかに困る。特に信心深いわけではないが、あまり背徳的なことはしたくない、そうは思います。

 その話を母にしたら、「あらそう言えば」といった調子で、「私の父や母の位牌はどうなるのかしら・・・」
 そこで指を折って数えてみると、「30歳未満の一族」はたった2人。ともに男性なのでよいのですが、位牌は6つくらい、全部背負ってもらうことになります。母のすぐ上の姉のところの位牌は、引き継ぐ人がいません。弟の配偶者の実家の位牌も引き継ぐ人がいない。

 こうなるともうあっちもこっちも先細りで、そもそも墓を引き継ぐ位牌を引き継ぐという概念自体を変えなくては無理です。それが結論でした。

 しかしここのところ、諸外国ではどうなっているのでしょう?


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2011/11/28

ゴヤ 光と影  芸術


 上野の国立西洋美術館に「プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影」という展覧会を見に行ってきました。ここ数年、わざわざ行くというのではないのですが毎年何らかの事情があって大型の展覧会を見に行く機会に恵まれています。

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 個人の名のついた大型展覧会の良さは、必ずその画家の絵が分かるようになるという点です。「モナリザ」でも「最後の審判」でも「ゲルニカ」でも、その一点を見て善し悪しを判断したり感銘を受けたりするのはなかなかできるものではありません。目の肥えた人の仕事です。その点個人展では画家の変化や成長の様子が見え、作品の意図がどんどん見えてくるのです。

 ゴヤは私の好きな画家ではありませんが、好きではない画家の展覧会こそ見に行くべきです。好きでないのは理解できなかったり感銘できないからなのですから。

 さて、ゴヤは1800年を境に17世紀と18世紀を生きたスペインの画家です。この時代、画家はどのように収入を得ていたかというと、基本的には王や皇帝・貴族の注文に従って部屋に飾る絵画を制作していたのです。大邸宅に飾る絵ですからどうしても大型化しますし、肖像画や宗教画、神話にヒントを得た絵が多くなります。

 また日中は自然光、夜はろうそくの明かりの下で見る絵になりますから、明るすぎる絵はどうしても不調和になりがちです。後に印象派の人々が爆発的に明るい絵を描きたがったのは、そうした“暗い絵”の時代が長かったからです。

 ゴヤはそうした時代にあって、非常に早い段階で画家としての地位を固め、40歳で国王カルロス3世付き画家となり3年後には新王カルロス4世の宮廷画家となっています。その意味ではたいへん恵まれた画家でした。
 ただし貴族の争いの激しい時代で、かつ1808年にはナポレオンのフランスに占領され08年から14年にかけてスペイン独立戦争が行われるなど、数々の激動の中で地位を守るために苦労した様子がうかがえます。いくたびか政争に巻き込まれながらも、何度も詫びを入れたり巧みに人を動かして切り抜けたりしています。その意味では小心翼々とした人物を思わせます。

 しかしその一方で、とても大胆で不可解な絵も描いています。その代表が有名な『裸のマハ』です。マハというのは「小粋なマドリード娘(男の子の場合はマホ)」という意味で、イメージとしたら日本の大正時代のモボ・モガみたいなものです。いわば町のチンピラ娘を裸にして描いたわけですから、大広間の壁に飾ることもできません。なぜ、何のためにこの絵を描いたのか。これはゴヤの生前も問題となり、注文主がだれか査問にあっています。後に描かれた『着衣のマハ』とともに、この絵は1901年までプラド美術館の地下に隠されたままでした。

 
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 ゴヤの不可思議は、四大版画集と呼ばれる版画集にも表れています。今回の展覧会にはそうした作品が数多く出品されていましたが、『ロス・カプリチョス(気まぐれ)』は俗悪な庶民や聖職者・上流階級の人々を風刺したもので、異端裁判を恐れたゴヤ自身によって、わずか数日で販売中止にしてしまいました。また『戦争の悲惨』はスペイン独立戦争の残虐を繰り返し描いたもので、グロテスクな場面が延々と続きます。

 いずれも首席宮廷画家としてのお上品な油絵とは全く趣の異なるものです。

「ゴヤ 光と影」とても面白い展覧会でした。


*ゴヤの傑作として名高い「巨人」すでに2009年にゴヤの作品でないことが正式に確定していたそうです。今回初めて知りました。
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2011/11/25

墓と仏壇と家  知識


 父は次男なので私の家には仏壇というものがありません。したがって今回父が亡くなり仏壇を購入することとなったのですが、そのとき初めて知った(というか、気がついたというか、考えざるをえなくなった)ことがあるので世間知という観点から記しておきます。

 それは跡継ぎのいない仏壇は誰かに引き取ってもらわなければならない、お参りする人のいなくなった墓は遺骨を移すか寺に引き取ってもらわなければならない、ということです。

 問題は私の家ではありません。私の伯父(父の兄:故人)の家のことです。
伯父は10年以上前になくなり、その家には伯母が一人で住んでいます。子どもは娘がひとりで、比較的近くにはいるものの他家に嫁いでいます。もちろん姓も夫のものを名乗っています。

 伯父の家には仏壇があって、そこには私の祖父母と伯父の位牌があります。また菩提寺にはその三人の入った墓があります。伯母は今も健在ですがこの方が亡くなったとき、仏壇や位牌、墓はどうなっていくのか。このあたりは父が亡くなるまで、まったく考えていなかったことです。

 選択肢は大雑把に三つだそうです。
 
 ひとつは他家に嫁いだ娘が「私が守る」と宣言し(これを「祭祀承維者になる」というのだそうです)、仏壇を(それが無理なら位牌だけでも)嫁ぎ先に持って行き、墓も娘が守るという方法。ただし娘は良いとしてもその娘が死んだあとのことは改めて問題になります。

 二番目は、嫁ぎ先で婚家と実家の両方の名を記した両家墓という墓を建てて合祀することです。ただこの場合も婚家の跡継ぎが代々継いでいくと、いつか墓石に刻まれた別家の名が鬱陶しくなってきます。

 三番目の方法が、遺骨を永代供養にし、墓は潰して寺に返してしまう方法です。永代供養にはかなりのお金がかかるそうですがいたしかたありません。仏壇も廃棄しますが、位牌はそういうわけにいきませんから縁者に引き取ってもらいます。

 そこで話が私に戻ります。
 伯父の一人娘(私の従妹)が先にあげた三つのうち、どの選択をするかは不明です。しかし一番・二番の方法を取るといつか切羽詰ってしまうわけですから、三番目が最善の方法でしょう。その場合は、祖父母の位牌もあるわけですから、私が預かってもいいように思っています。是非そうしましょう。それが今回学んだことです。

 ただし、この問題は私の妻の実家にもあてはまっていて、妻の実家は娘三人が全員他家に出ていますから状況は同じです。仏壇の中には取りあえず義父がいるだけですが、将来その位牌や墓はどうして行くのか。
 こうした問題は少子化の今日ではあちこちで起こっているはずです。

「家」だの「家系」だの「跡継ぎ」だの、そういったことはまったく気にしていませんでしたし、言葉の上で「嫁をもらった」だの「亭主」だの「主人」だのを使っていても意識の上ではまったく男女同権(というかむしろ女尊男卑)に暮らしてきたのに、ここにきて突然、具体的な問題で、「家」だの「跡継ぎ」だのに掴まってしまっています。厄介なことです。

 ちなみに、上のほうで意図的に書かなかった第四の方法もあります。それは永代供養もせずに墓を放置するというやり方です。この場合、墓の管理料が払われなくなったところから督促状が出されるようになり、それに答えないと一定期間ののち、墓は無縁墓地として潰され、墓石は墓地の横に放置されるようです。
 これはいい加減にあつかうというより、自然に朽ちさせるという考えに基づいているみたいです。しかし先祖の墓を意図的に無縁墓地にするのは人倫にもとります。自分が元気なうちに、そうならないよう何とか知恵を出し合うべきでしょう。


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2011/11/24

都道府県差  教育・学校・教師



 妙な題名ですが、要するに学校の具体的なあり方の、都道府県による違いといったものについてです。

 一口に学校教育と言っても、都道府県によってずいぶん差があるらしいと気がついたのは、初めて県外の授業研究会に出席した時のことです。とにかくバカでかい研究会で体育館に500人以上の参観者が集まったためさっぱり授業が見えず、早々に諦めてしまった私は呑気に校内めぐりをしていました。主として教室をあちこち覗き、掲示物や作品の質を眺めていたのですが、日課表に目をとめてそのままその目がテンになってしまいました。

 なんとその学校では、週に3回、月・水・金にしか掃除がないのです。火曜日・木曜日のその時間帯はドリル練習の時間になっていました。今から15年も前のことです。

 そう言えば一昨年あたり、横浜市の学校ではトイレ掃除を業者にやらせ、児童生徒はやったことがないという話が新聞に載って、世間の人々を驚かせもしました。

 さらに大昔のことです。私は教育実習を東京の中学校で行いましたが、7時50分に学校につくと実習生以外誰も来ていない、というのにまず驚かされました。電車の都合で毎日その時間の登校になるのですが学校に着いて5分後、つまり7時55分に自転車でやってきた用務員さんが門扉のカギを開けてくれます。そしてここからがすごいのですが、その25分後(8時20分)には600人余りの生徒と30人ほどの職員が全員そろってしまうのです(わずかな遅刻はあると思うのですが)。ものすごい勢いで人が集まってくるということです。

 また、そのころの東京は「昼休みに私たちは休んでいない」(給食指導などをしているので)ということで、労働者としての権利の昼休みを放課後につけてしまっていたので(これを東京方式と言いましたが、今はやっていません)、職員の退勤時間が午後4時でした。そしてその4時になるとまたもや驚くべきことが始まります。
 それは4時10分の段階で校内に残っているのは校長先生と教頭先生(今は副校長)、そして部活指導の4人の先生とあと1〜2名、そして私たち実習生だけなのです。600人規模の中学校なのに部活が四つしかなく、ほとんどの生徒と先生は4時きっかりに家に帰ってしまい、学校は閑散とします。

 昔、中国地方出身者の教員と話した時、「オレは大学に入って初めて2年連続で同じクラスだった」というのに驚かされました。小学校1年生の時から高校3年生まで12年間、毎年クラス替えがあってすべて担任が違っていたそうです。

 先々週、○○教育研究部会というのに行ってきました。全国から160人ほどの先生が集まってきました。
 その席で、ある県の先生が「小学校から中学校に異動してきた先生が苦しい」と言い、別の県の先生が「いや逆だって苦しい」というのを聞いて東京都の先生が「え? 小中交流人事ってそんなに盛んなのですか?」とびっくりしていました。「小中交流人事」と言われてこちらもびっくりです。別に「交流」という意味での校種変更ではないのですから。

 すると横合いから関西圏の女性の先生がチャチャを入れて、「私の経歴、幼稚園と小学校が半々です」などとおっしゃる。これにもたまげました。

 この会には今後も年4回ずつ出席するみたいです。次回は山ほどのアンケート項目を抱えて、片端から取材して回ろうと思っています。


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2011/11/22

明日は勤労感謝の日  歴史・歳時・記念日


 あわただしく日を送っている中にひょこんと祭日が入っていたりすると、私たちも嬉しくてついついそのまま子どもを送り出してしまいますが、よく考えてみたら祭日の意味も教えずに休ませるのはもったいないですね。
 せっかくの休日、何かひとつくらいは考えさせたいものです。

 勤労感謝の日は祝日法(「国民の祝日に関する法律」)に
「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」
とあります。

 元は新嘗祭(にいなめさい・しんじょうさい)という宮中行事の日で、天皇が五穀の豊穣を神に感謝する日でした。宮中のもっとも重要な祭祀の日ですから、明治時代から休日だったのです。それが第二次世界大戦後のGHQの占領政策によって天皇行事・国事行為から切り離され、「勤労感謝の日」として新たに置かれたのです。

「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」といっても少しピンときませんが、子どもたちには、働いて生活を支えてくれる親たちに感謝する日として話してやってもいいでしょう。

 いずれにしろ「休みだ、ワーイ、遊びに行こう」で終わらせないようにはしたいですね。



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