2011/9/15

板書の話  教育・学校・教師


 黒板にチョークで文字や図を書くこと、または書いた内容を「板書(ばんしょ)」と言います。

 研究授業に参加する時、私たちはたいてい教師の発問や児童・生徒の発言を細大漏らさず丁寧に記録しようとします。講演会に行っても、聴衆の一部(特に教員)は一心不乱に講演記録を取ったりしています。あれは何をしているのでしょう。
 答えは簡単です。あとで検証するためです。

 しかしそれだったらポイントだけを絞って記録すればよさそうなものを、なぜそうしないのか。
 これも簡単です。話をきいている最中にポイントをつかんで記録を残すには、よほどの修練か天才が必要だからです。

 私にはそうした能力がありませんからとりあえず全部書こうとする。しかし実際にその場で「細大漏らさず」逐語録をつくるなど到底できませんから、記録は必然的にある程度要点的なものになる。その要点的な記録を眺めることによって、授業の本質的な流れや講演の筋が鮮やかに見えてくる、というわけです。

 そこで私たち教員がなぜああも熱心にノートを取るのかが分かって来るのですが、ところで、授業中必死にノートを取っている児童生徒達も、同じような動機で記録を認めているのでしょうか。

 私にはどうもそうではないような気がするのです。子ども(特に中高生)が必死にノートを取るのは、結局安心するためではないのかと。彼らのノートは基本的に黒板のまる写しで、その黒板は性質上、授業が終わるとすべて消されてしまいます。1時間授業をやったのに何も残らない、その恐怖が子どもたちをノートに走らせるのではないかと、そんなふうに思うのです。

 同様の恐怖感は、教師の側にもおそらくあります。全員とは言いませんが、かなりの教員が「今日、この1時間の授業が全部頭に入ってくれればいいが必ずしもそうはならない、だとしたらせめて紙の上に残し、あとで参照してもらおう」、そういった恐怖感からノートを取らせようとします。そうなると板書はどうしても、必要な知識のてんこ盛りになってしまいます。
 また、そうした黒板をつくる場合は知識の確認がいちいち必要となりますから、授業はどうしても一問一答式のものになってしまいます。我慢強い子にはそれでもいいのですが、そうでない子にとっては何とも味気ない授業になってしまいます。

 ところが、私たちは別の必要から黒板を使うことがあります。それは授業の流れを黒板に残し、児童生徒が初めの方に立ち返って議論の筋を確認したり、意識のそれてしまった子が再びもどるときの手掛かりにしようとするときの板書です。
 こうした場合、黒板にはあとで否定される考えややがて排除される意見がびっしり書き込まれています。したがって授業を振り返るにはいいのですが、受験勉強を念頭に置いた場合、不要な情報がノートに溢れかえっていることになります。とても参照できるようなものではありません。
 ではどうしたらよいのでしょう。

 私の場合はこうです。
 板書は、基本的には授業の流れを記録するようにします。このとき黒板は白いチョークを中心として使い、生徒にはノートを取らせません。それにも関わらず黒板を映したがる子がいますので、授業が一通り終わったところで筆記が追いつけないくらい早く消してしまうのです。前もってそう宣言し、実際に行います。

 その上で、ノートの記録用に授業の要点を整理した板書を新たに作り直すのです。この時チョークは黄色を中心に使います。これはノートに写していいのだよという合図です。

 もっとうまい工夫はあると思いますが、私の場合はそうでした。

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