2011/7/28

校内研修  教育・学校・教師


 前期校内研修が明日で終わり、来週からは市や県の研修及び会議が入ってきます。

 思えば私が教員になったころは夏休みの1日目からずっと休みで、私などはほとんど毎日部活を入れて好きなだけ子どもを鍛えていたものです。もちろん部の顧問をしていられない(主として年配の)先生方は、ずっと毎日が日曜日でした。
 そんな中から一夏中チョウを追いかけてチョウで論文を書く先生もあれば、ただひたすら本を読んでいた人もいます。さらにただ遊び呆けているような先生もいましたが、それも教師の特権で、特権があるから苦しい毎日に耐えられたという面もあります。

 諸外国を見ても学力世界一のフィンランドなどでは丸2ヶ月近く、教師はいっさい学校に出ない休みとなりますから、研究に観光にと心おきなく時間を使えます。

 そうした特権が全くなくなり、過酷な時間外労働と低賃金が残ってしまいました。しかも教員は今や、人様から馬鹿にされる仕事です。
 そうしてこんな時代になってしまったのか。

 都会では新規採用の教員が一年足らずでバンバン辞めていきますが、無理ないところでしょう。
 生きがい以外に何のメリットもない職場ですから、もたない人も出てきます。
・・・とボヤいておいて、

 私は一足先に明日から校外研修が入りますので「デイ・バイ・デイ」は本日をもってお休み、次は8月19日の後期校内研修初日から始めます。

 長い(と言うほどでもない)夏休み、なんとか身体を休めてください。



*ブログでお付き合いして下さっている皆様へ。

 自分の学校の先生に語りかける「デイ・バイ・デイ」はしばらくお休みですが、ブログの方では気が向けば何かを書くかもしれません。

 例年そんなふうにしています。
 では、では。


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2011/7/27

プロの技術  教育・学校・教師


 何で読んだのか覚えていないのですが、こんな物語に記憶があります。

 まだ人心の荒れていた戦国時代、ある戦いでひとりの武将が捕らえられた。敵方の大将の前に引きずり出された彼はカッと目を見開き、こう叫ぶ、
「この恨み絶対に忘れん。七度(たび)殺されても七度生き返って、お前の家を呪い祟ってやる」
 すると大将は涼しい顔で、
「俺は信じぬ。お主にはそのような力、とてもありそうに見えん。できると言うなら、ホラ、これから俺が首を刎(は)ねるから、刎ねられた首のままあの石灯籠に食らいついてみろ」
 武将は目を赤々と燃やし、さらに大将を睨みつけ石灯籠を見た。すると大将はすっと近づき、笑いながら、
「お主にはできん」
そう言って、たちまち首を刎ねてしまった。その瞬間、首は血を吹きながら一気に宙を走り、そのまま大口を開けるとしっかと石灯籠に噛みついたのだ。
見ていたものは恐れおののき、その場を逃れようとした。すると大将はまたかっかと笑いながら、
「大丈夫だ、祟ることなんかできん。こいつは首を刎ねられる瞬間、ただひたすら石灯籠に食らいつくことばかりを念じていた。そんなヤツに、祟る力なんか残っておらんよ」

 
 ついでに思い出したことがあります。

 娘が3歳になったときスイミングスクールに入れました。その初回は女性コーチが娘を抱っこして、マン・ツー・マンで水慣らしをしてくださいました。初めての子はみなそうだったのかもしれません。

 見ているとそのまま大プールに入り、しばらく何かを話しながら、お風呂にでも入れるように水の中を動いていました。そしてトントンと軽くジャンプしたのですが、何をするのかと思う間もなく、いきなり一緒に水の中に潜ってしまったのです。私は飛び上がらんばかりに驚きました。そんな乱暴な水慣らしがあっていいはずがありません。

 ところが娘はコーチに抱かれたままピョンと飛び出すと、左手で顔をペロンと拭いて右手を高々と上げて、ピースをしたのです。怯えた様子も勝ち誇った様子もありません。それで私は何が起こったか、すぐに理解しました。

 水に沈む前、コーチはきっとこんなふうに言ったのです。
「これから水に潜ってみるからね、出てきたら手をうんと、うんと高く上げてピースをするのよ」
 娘はただひたすら一心に「手をうんと、うんと高く上げてピースする」ことを念じて潜ったのです。潜る恐怖も頭まで水に漬かる不快も、まったく忘れてピースにかけたのです。

 私はこういうプロらしい仕事が大好きです。


*最近、車の中では「ライオン・キング」のCD(英語版)ばかり聞いています。劇団四季で見たときはさっぱりいいと思わなかったのに、CDで聞くと格別です(きっと子ども向けのストーリーが嫌いなのでしょう)。
 編曲といい、歌唱といい、アマチュアには絶対できない、プロの仕事が感じられるからです。
 

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2011/7/26



 中国で高速鉄道が大きな事故を起こしました。寄せ集めとは言え世界の最高の技術を集めた鉄道で背後からの追突事故が起こるというのも驚きましたが、その現場に即刻外国メディアが入り中継できたというのにも驚きました。
 北京(?)でマイクを向けられた市民が公然と政府を非難するのにも驚いて、確かに中国も変わってきたなあ思った矢先、事故車の運転席を破壊して埋めてしまったというニュースが入りこれにもびっくりさせられました。
 良くも悪しくも中国は今、変化の途上にあるのだなと思いました。



 脱原発についてさまざまな議論があります。ただ私にはよく分からないのですが、菅首相は「明日からすべての原発を止めてしまう」という意味での「脱原発」を言っているのでしょうか。だれもその時期について問わないことが不思議です。
「明日にも全機停止して廃炉に向かわせる」と言えば、脱原発にもろ手を挙げて賛成している社民党だって震え上がるでしょう。産業の空洞化は一気に進み、中小企業が片っぱし潰れるのは目に見えているからです。その責任は取りきれるものではありません。逆に「22世紀までには脱原発を果たす」ということであれば海江田さんだって無碍に反対はしないでしょう。80年近くもあるのですから。
 なのにだれも時期について問い、明らかにしようとしないのはなんとも不思議です。



 一昨日の新聞である学者が「放射能はどんなに小さな値でも身体に悪影響がある」と言っていました。あれ、ラドン温泉は?とも思いましたが、考えないようにしました。放射能の健康被害については、正反対の科学的事実が山ほどあることを知っているからです(以前、お話しました)。
 私が今、悩ましく思っているのは自然エネルギーのことです。原発などなくても、自然エネルギーだけで十分にやっていけるのだという“専門家”がたくさんいます。他方、絶対無理だという“専門家”も山ほどいます。お互い数字を出し合って突き詰めればいいようなものですがそうはしません。私はかつて熱狂的な科学の信奉者でしたが、最近は科学なんてずいぶんといい加減なものだと思うようになっています。



 昨日、言葉がないと言うことは概念がないということだ、という話をしました。その続きです。日本語の「懐かしい」に該当する英語がないという話を聞いたことがあります。何んとなく分かります。
 アニメーションは“動画”、コンピュータは中国語から借りてきて“電脳”でまったく困りません。しかしどう日本語をいじっても漢字を組み合わせても絶対に日本語にならない言葉もあります。その一つがカウンセリングです。
 説明的に言えば「不適応感をもつ人に対して、対話を通じて行動変容を起こそうとする技法」ということになるかと思うのですが、そもそも日本文化の中には「対話を通じて行動変容」というものはありません。だからどう書き直しても日本語にならないのです。
 西欧におけるカウンセリングの源流は、おそらく「懺悔」でしょう。「聖職者に告解することで許される=生き方に変化が生まれる」という文化があってはじめて育ってきたものに違いありません。

 では日本人はどうしてきたか。

 人生に悩んだり苦しんだりした日本人は、みな「修行」に出たのです。滝に打たれたり座禅を組んだり、必死に掃除をしたりお遍路に回ったり、つまり身体を苛めながら身体を通して生き方を変えようとしました。今でも使える考え方かと思います。


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2011/7/25

売るべき価値  教育・学校・教師


 先日、あるテレビ番組で日本に来られた外国の方に「好きな日本語は?」とインタビューする場面がありました。その中で若いフランス人の女性が「用事」と答えたので、思わず顔を上げました。面白い言葉を選んだものです。

 インタビューアーが詳しく説明を求めると、「誘われて困るときに『ちょっと用事がある』と言えばそれで済んでしまう。フランス語にはそういう言葉はないので全部説明しなければならないから面倒」とのことでした。
それを聞いてインタビューアーが、
「ああそうだ。嫌な上司に食事に誘われたときなんかね、『ちょっと用事がある』・・・」
 すると彼女は、
「ええ、それから『また今度』。“今度”はいつでもいい、なくてもいい」
そう言って笑うのです。なるほどと思いました。

 言葉がないというのは概念がないということです。

 明治時代は日本にそうしたものが大量に入ってきましたから市場だの出版だの、あるいは理性だの愛だの百貨店だの、必死に日本語化しましたが、やがて諦めて外国語をそのまま使うようになりました(コンピュータだのテレビだの)。
逆もあって日本からは真珠の重さを測る単位の“モンメ(匁)”をはじめ、ニンジャ、ジュウシュツ、ハラキリ、トーフ、シイタケ、スシ、サシミ、ワサビ、オリガミ、コーバン(交番)、カラオケなどが出て行きました。最近ではカローシ(過労死)、ダンゴ(談合)、カンバン(トヨタ自動車の始めた看板方式)、「アニメ」「マンガ」等が代表です。

 しかし「概念がない」という意味では、「ゼン(禅)」と「カワイイ」、「モッタイナイ(もったいない)」が嚆矢でしょう。

 フランス人が“ゼン”と言ったらそこには、「単色」「瞑想的」「静寂性」といった禅宗や禅のもつすべての雰囲気が含まれます。禅とまったく関係なくてもかまいません。
 「カワイイ」は“pretty”と同じものではなく、“オタク文化”の中で表現される一連の評価の視点です。赤ちゃんがカワイイとか猫がカワイイとかいった場合と同じではありません。

 そして言うまでもなく、「モッタイナイ」はノーベル賞受賞者のマータイさんが世界に広めようとした環境保護の基礎概念です。「もったいない」という思い・感覚が日本にしかなかったというのは、私たち日本人にとっても新鮮でした。

 私はかつて、日本人だけが特殊で優れているという考え方に強く抵抗してきました。しかし3・11の経験を通して、優劣は別として、われわれは相当にユニークな民族であるらしいという気持ちにはなっています。そして今後日本が輸出すべきは、あまたの工業製品ではなく、私たちの持つ文化そのものではないかと思うようになったのです。

 マータイさんの「MOTTAINAI」に習って言えば、今後真っ先に輸出すべきものは「絆」「みっともない」そして(できればかけたくないという意味での)「ご迷惑」です。たぶんこれらが出ていきます


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2011/7/22

一学期終業式  教育・学校・教師

 長かった一学期が終わります。

 この一学期は私にとっては格別のものでした。これまで私は教育を児童生徒の自己実現の道具のように考えていました。その子の持てる力を十二分に引き出し、満足のできる心豊かな人生を送らせるための道具、それが教育なのだと思っていたのです。しかし3月11日以来、私は考えを改めました。私は世の中のために役に立つ子どもを育てたいと思うようになったのです。

 そもそも教育基本法には、
第一章 教育の目的及び理念
(教育の目的)
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

とあり、教育を個人のものと考えている様子はありません。そうではなく、教育は国家や社会に有用な「国民の育成」を目指すものだとあるのです。教育が個人のものなら、ここまで莫大な予算をつぎ込むこともないのです。

 なでしこジャパンの優勝のとき、岩清水梓選手が広げた日の丸にはこう書かれてありました。


クリックすると元のサイズで表示します『東北のみなさん
忘れたことはありません。
いつも自分にできることを考えています。
今回「良い結果を届ける」その一心でした。
メダルを持ってみなさんのところに会いに行きます。
待っていて下さい。
応援ありがとうございました。
共に歩もう! 東北魂!!』


 私が育てたいのはこうした熱烈な想いを持った子、郷土そしてこの国を恋人のように愛せる子です。
 ケネディはその就任演説で、
「祖国があなたに 何をしてくれるかを尋ねてはなりません。あなたが祖国のために何をできるか考えて欲しい」
と言いました。それは一見、国家主義に通じると思える言葉かもしれません。しかし本当の愛国者は、政府によって国家が悪しき道を進み始めたら全身で阻止する者です。そうした意味も含めて、私は世の中の役に立つ子を育てたいと願うのです。

 そのために何をしたか。
 今学期はそうした想いを温めているだけでした。しかし二学期は、
 二学期には、私なりの答えを出したいと思っています。

 一学期間、ありがとうございました。


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2011/7/21

絶対許さない  教育・学校・教師


 イジメ問題を扱った新聞記事などを読んでいると、ときどき「教師には『イジメは絶対に許さない』といった毅然とした態度で臨むことが期待される」といった文に出会うことがあります。
 これが分からない。

 一人が別の一人をボコボコに殴っている横で、教師が腕を組んで偉そうに「私は、イジメを絶対に許さんぞ!」と叫んでも、普通はなにも起こらないはずです。もしかして同じことを何度も言っているうちに「ウゼーな!先公!」とか言って殴りかかってくるかもしれませんが、「イジメを許さん」と言って素直にやめるような子は(テレビドラマ以外では)普通はいません。マスコミは「毅然として臨む」にどういうイメージを持っているのでしょう?

 私はかつて、会う先生ごとに「もし、先生が『これをやったら絶対に許さない』と宣言をしたことを、子どもがやってしまった場合、その子はどういう目に会うことになります?」と聞いて回ったことがあります。
 これは30年前だったらまったくの愚問です。なぜなら30年前に先生が「絶対に許さない」と言われたことをやった子どもは、5秒以内にボコボコにされていたからです。少なくとも平手でぶん殴られるのが普通でした(40年前の私がそういう目に会っていたから絶対に確かです)。ところが体罰厳禁、大声を張り上げるのも教師のたしなみとしていかがなものかという時代になると、『毅然として許さない』の意味が分からなくなってしまったのです。

 調査の結果は意外なものでした。

「もし、先生が『これをやったら絶対に許さない』と宣言をしたことを、子どもがやってしまった場合、その子はどういう目に会うことになります?」
――私が絶対に許さないと言ったことを、子どもがやったことはない。

 確かに、それが毅然とした教師の元でもっとも起こりそうなことです。しかしなぜ、子どもたちは教師の言葉を乗り越えようとしないのか、その秘密はおそらくその先生の教室を一日中観察していないと分からないことなのでしょう。

――そもそもそういう言い方はしない。
 確かに、落としどころの分からないままそんな言い方をしたら損ですよね。

――小一時間は怒鳴りまくられるかな?
 それ、あまり良くないってことになっていると思いますが・・・。

 結局分からないので、自分は自分にあった方法で対処するしかありませんでした。

 私の場合、私が「絶対に許さない」と言ったことをやった子どもは、一週間くらい休み時間を失います。私はけっこう粘着質なのです。同じことを何度も訊ねたり、ときどきドヤシあげたりまたなだめたり、そういうことはいくらでもできましたから(最近、歳を食ったらこらえ性がなくなりましたが)。

 ところで皆さん、
先生が『これをやったら絶対に許さない!』と宣言をしたことを、子どもがやってしまった場合、その子はどういう目に会うことになります?


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