2011/1/31

やっぱり信じられる  教育・学校・教師


 長く人生を生きてきて結局分かったことのひとつは、どうやら神様はほんとうにいるらしいということ、そして神様は人の出生には直接に関わらない、つまりその人がどんな家に生まれるか、どんな容姿や才能・能力を身につけて生まれるかには関与しないらしいということです。
 なぜなら神は人が生まれると同時にその人の前に現れ、以後長い長い交渉が始まるのであって、人が生まれる前に何らかの交渉や約束があるようには見えないのです。

 ある人が特別に優れた容姿や能力を持って生まれ出たとしても、生まれる前の何らかの原因によるではありません。別な人が何らかの障害や病気をもって生まれてきたとしても、それも理由があってのことではありません。ただ偶然によって、そのようになっただけのことです。生まれる前にその人は存在しなかったわけですから、神様と交渉しようがなかったのです。

 ただし、どこの家に生まれるか(金持ちか貧乏か、教育熱心な家かそうでないか、穏やかな家庭か荒々しい家庭か)や見目麗しいか醜いか、知的にレベルが高いか低いか、あるいは深刻な病気や障害をもっているかすこぶる健康か、といったことは人生に大きな影響を与えます。したがってその意味で、人は何らかの「運命」を背負って生まれてくるという言い方もできます。そのもって生まれた「運命」を前提として、その上でそれぞれがどう生きるか、それが神様との交渉だと思うのです。そしてその上で、

 よりよく生きようと努力する者には必ず恩寵がある、というのが私の結論です。ずるく立ち回ったり人を陥れようとする者には必ず天誅が下されるというのも私の確信です。

 今日までたくさんの子どもとその家族を見てきましたが、そうした天網をかいくぐって良い思いをしている人や家族など、ひとつもありません。短期的には利益を得たように見える人々も、やがていつか必ず罰せられる、そう考えないと理解できない没落や崩壊を、私はたくさん見てきました。

 学校は特定の宗教に奉じるような教育はできないことになっていますが、私が子どもたちに伝え身につけさせえたいと思うことのひとつはそうした宗教的態度です。仏閣で手を合わせ神社で拍手を打ち、その帰りにキリスト教会で十字架を切るような、宗教宗派の分類からすればとんでもないようなやり方であっても、必ず正義が勝つ、神様がそれをしないわけはないと理解できるような子どもを、私は育てていきたいと思います。




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2011/1/28

来てますよ、来てますよ・・・  


 昔、大型タンクからポリタンクに灯油を移す際、うっかり現場を離れてかなりの量の油を土に流したことがあります。そこで以後、どんなに寒くても現場を離れないように心がけています。ところが、

 先日、同じように灯油を移している最中、ふと畑の一角に気がついて、そこに植えてあるタマネギとサヤエンドウの様子を見に行ってしまったのです。そして灯油のことを忘れ、部屋に戻り、だいぶ時間がたってから突然思い出して飛び上がりました。時間からすれば全量を流していても不思議のない時間でした。しかしほんとうに凍りついたのはその後なのです。

 慌てて勝手口から飛び出して大型タンクのところに向かうと、なんとそこにはポリタンクはなく、もしやと思って収納庫を見ると二個ともきちんと満杯になって置かれていました。もう一度慌てて室内に入り、妻に聞くと、
「私はやってない」
 何のことはない、私が忘れていたのは大型タンクのバルブを閉めることではなく、きちんと閉めて2個目のポリタンクも満杯にして収納庫に納めたというその後の行動全部だったのです。

「明日の記憶」という映画の中でアルツハイマーになりかけた渡辺謙が検査を受ける場面がありました。机の上に置かれたハサミやペンなど五つほどの品物を記憶させ、そのあとハンカチで覆い隠して中のものを言わせるというものです。自然の流れとして観ている私も一緒に検査を受けるような感じになったのですが、しかし渡辺謙さんと一緒で、そのテストをパスできませんでした。ショックでした。それが2年前のことです。

 昨年春のX線撮影で肺に異常がありそうだと言うことでCTを撮ったら、肺は問題ないが「心臓の血管が石灰化しています」とのこと。そう言えばここ数年心電図の異常が連絡されていました。
 しかしよく分からないので、石灰化ってどういう意味ですかと訊くと
「要するに血管が骨になりかけてるのです」。
どんなことに注意したら言いのでしょうと問うと、
「加齢のためですからやることはありません」。
治療とかは必要ないのですかと訊ねたら、
「胸が苦しくなって息ができなくなったら病院に来てください」。
・・・・・はあ。

 秋口から急に太り始めました。原因不明。
 しかしもともと体重の増減は激しい方で、増やすも減らすもコントロールしやすい体質だったので安心していたのですが、今回ばかりは様子が違います。目標6kg減のうち2kgまでは軽くクリアしたのにそこから動かない。減ったと思うとまた増える。要するに汚れたフライパンを洗ったら昨日今日の汚れはすぐに取れたのに、以前のものはこびりついて容易に取れないという感じです。心臓が怖いので運動で減らすこともできない。

 年を食うというのはそういうことで、去年より今年の方が確実に悪く、だから来年はもっと悪いだろうという事態を受け入れなければなりません。

 私は若い人が羨ましいいと思ったことは一度もありませんし、今から若い時代に戻るなんてとてもやりきれないと現在でも思っていますが、老齢もまた受け入れがたいものがあります。

 ただ以前も申し上げたとおり「昨日よりは今日の方が伸びているから明日はもっと伸びている」と単純に信じられる子どもたちが、その価値に気づいて大切にしてくれたらいいなあと、それは本気で思います。



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2011/1/27

告解(ゆるしの秘蹟)  教育・学校・教師


 昔、妻の勤めていた学校で、3年生が学級園に植えたサツマイモの苗を誰かがすべて抜き取ってしまうという事件がありました。そのとき全校で調べてくれという3年の担任に対して、妻が「まず自分のクラスについて調べなさい。それでまったく疑いがないということになったら全校に計りましょう」と至極真っ当な話をしたところ、「あんなに一生懸命に苗を植えた子たちがそんなことをするはずがない、先生は犯人探しをしろというのですか」と、今流で言えば“逆ギレ”されたといいます。

 そこで「誰がやったかはっきりさせ、きちんと罪を償わせなければならない」という話をしたところ、「そんなことはできない、子どもを疑うことはできない」(他のクラスの子どもなら疑っていいのか?)という話になり、結局教頭先生にまで出てきてもらって、「全校に事件を知らせ、各担任から『秋の収穫を楽しみに一生懸命苗を植えた人の気持ちを考え、これからは絶対にこういうことがないようにしよう』と心に浸みる話をする」というところに話が落ち着いたそうです。

「私、納得できないんだけど」と妻が言います。私も「納得できない」と答えておきました。

 自分のクラスを脇に置いて全校を調べてくれというのは論外でしょう。その上で「犯人探しをしろと言うのですか」と訊かれたら、私だったら「犯人探しをしろということです」と答えます。
 なぜならクラス全体・学校全体への話で「心に浸みる話」など、少なくとも私にはできないからです。犯人はいけしゃあしゃあと毎日を送ることになります。しかしもしそんな「心に浸みる話」ができて本人が深く反省したとしたら、その方が問題は深刻です。それは深く反省し後悔し、傷ついたその子の心は誰にも癒されないからです。

 カトリック教会には「告解」という概念があります。
 キリストによって定められた特別な儀式(サクラメント=秘蹟)のひとつで、現在は「 ゆるしの秘跡」と言うのだそうです。ときどきアメリカの映画に出てきますが二つに仕切った箱のような部屋で、小窓を挟んで神父と告白者が対峙するあれです。懺悔とも言います。

 基本的には告解する者が一方的に罪を告白し、神父は最後に「では悔い改めの祈りをしましょう」と言うに留めるようです。つまり告白することによって赦されるという考え方なのです。私は欧米の思考は基本的に嫌いなのですがこれは例外的に良い仕組みだと思っています。

 子どもも反省し後悔したらどこかで赦され、(事件そのものを)水に流してもらわなくてはなりません。反省し後悔しているのに誰にも赦されていないという状況は、その罪を一生背負っていけというのと同じです。

 犯人を必ず探し出し反省させるというのは、ひとつには懲罰であり再犯抑止の有効な方法ですが、同時に、子どもを赦し、事件を忘れ、屈託なく生きさせるための重要な方法なのです。



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2011/1/26



 50年前の○○市営バスターミナルは木造のひしゃげたような建物で、むき出しの土間だった駐車場には深く轍が食い込み、バスは発着のたびに左右に大きく揺れ、まるでそのまま倒れてしまうのではないかと思うほどでした。建物の中に待合室には、これも崩れたような木のベンチが並び、昼でも暗い室内にはあちこちに裸電球がぶら下がっているのでした。

 そこだけがやけに明るい売店の近くの席で、私は買ってもらったばかりの本を読みながら発車の時刻を待っていました。一人で乗車できるような年齢ではありませんでしたから、きっと親は近くにいたはずですが今となっては思い出しようもありません。気持ちとしては、一人ぼっちでそこにいる感じでした。

 眼の隅に何か違和感があってふっと眼を上げたのは、本もだいぶ読み進めたときでした。見ると一人の男の子が自動販売機の前で涙を流しているのです。自動販売機と言っても昔のことですから驚くほど単純で、大型の冷蔵庫ほどもある白い箱に10円玉を二つ入れると紙コップにオレンジ・ジュースが注がれるという、ただそれだけのものです。不思議なことにその“冷蔵庫”の上には直径が50cmほどのプラスチック・ボールついていて、その中をオレンジ・ジュースが噴水になって回転しているのです。

 涙というのはこんなに出るんだと呆れるほどにこぼしながら、少年はパンパンに膨らんだガマ口から、次々と1円玉を販売機につぎ込んでいます。たぶん1円玉専用のがま口なのです。そのことに気づいて、私は絶望的な気持ちになりました。というのは1円玉をいくらつぎ込んでも、絶対にジュースが出てこないことを知っていたからです。その自動販売機は10円玉しか受け付けす、他はすべて機械の中に吸い込まれて決して出て来ないのです。それなのにその子は果てしもなく1円玉をつぎ込んでいきます。

「自己懲罰的」という言葉は大人になって覚えましたが、意味するところは当時も知っていました。少年は持っている1円玉をすべて使い果たすまで、投げ込むことをやめないだろうことは明らかでした。しかし私は1円玉をいくら入れてもダメだということを、彼に言えなかったのです。
 私より2〜3歳上の彼に、小学校低学年の私が知識をひけらかすのは僭越だと考えたのです。その人のプライドを傷つけてはいけないと幼心に思ったのです。

 私はほんとうに悲しい思いをしながら、彼が1円玉を使い果たし、黙って泣きながらその場を後にするのを呆然と見送りました。

 しかしずいぶん経ってから、私は別のことを考え始めました。それはあのとき声をかけられなかったのは、ほんとうに彼のプライドを守りたかったからなのだろうかということです。ほんとうはそうではなく、単に見知らぬ人に言葉をかける勇気がなかっただけではないのか、そんなふうに思うようになったのです。

 それが私の心の傷です。

 その後私が常に困っている人のために働くようになったわけではありません。今から思えば信じられないほど愚かなことも悪いこともたくさんしてきました。後悔することも反省することも少なくはないのですが、しかし私の心の中でいつも疼くのは、今から50年近くも前のバス・ターミナルの情景です。
 人としてしなければならないことをしないと生涯後悔する、そのことをいつも呼びかけるのはその時の光景なのです。



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2011/1/25

四神  知識


 偶然ですが、昨日、「待ちぼうけ」について書いたら、今日1月25日は北原白秋の誕生日でした(明治18年[1885])。私はこの人についてほとんど知らないのですが、調べてみると「ゆりかごのうた」「砂山」「からたちの花」「この道」「ペチカ」「あわて床屋」「待ちぼうけ」「城ヶ島の雨」「ちゃっきり節」といった私たちには馴染みの歌の作詞者として名が出ています。やさしい詩を書く人ですが、生活の方はかなりいい加減な人だったみたいです。

 さてこの北原白秋ですが、私は「白秋」という興味があります。どんな思いでこの号をつけたのか、もし分かるようなら調べたいのです。というのは「白秋」がかつて高松塚古墳で有名になった四神(しじん)と関わりがあるからなのです。

 四神というのは天の四方を守る四つの獣神(青龍・朱雀・白虎・玄武)です。この四神は四方、四季、四つの色彩に対応し、それぞれ川・沼(池)・大道・山に姿を変えて伏しているといいます。

  青龍・・・東・春・青・川        
  朱雀・・・南・夏・赤(朱)・沼(池)
  白虎・・・西・秋・白・大道       
  玄武・・・北・冬・黒・山

 また、人生を四季に例えて「青春(若い時期)」、「朱夏(壮年期)」、「白秋(熟年期)」、「玄冬(老年)」と分けるのもこれに由来します。北原白秋はそこから号を採りました(ただしなぜ10代の北原青年が「白秋」を名乗ったのか、そこは聞いてみたいところです)。

 この四神信仰は生活の隅々まで行き届いていたようで、平安京は東に鴨川、南に小椋池(今はない)、西に山陰道、北に船岡山という四神がしっかりと守っているような土地に造られています。これを四神相応(しじんそうおう)といいます。平安京の最南端の門を朱雀門というのもそのためです。

 江戸の町も四神相応を90度回して、北に利根川、東に江戸湾、南に東海道、西に富士山という場所に置かれたと説明されています。また神事の場でもある相撲の土俵も、上を見上げると四つの色を配した大房が垂れており、勝負の決まった場所を示すのに「白房下」とか「赤房下」とかいった言い方で説明します。

 確認はできていないのですが、江戸時代の捕り物では最後に罪人を捕縛するのに、春だったら青い縄を使って罪人を東向きに座らせ縛ったといいます。また江戸末期の会津藩では武家の男子を年齢別に「17歳以下」「18歳から35歳まで」「36歳から49歳まで」「50歳以上」の4隊に分け、それぞれ「白虎隊」「朱雀隊」「青龍隊」「玄武隊」と名づけました。白虎隊の悲劇は私たちの良く知るところです。

 この四神信仰の話はけっこう私の得意技で、平安京の成り立ちのところでは必ずあつかって生徒を驚かせていたのですが、1990年ごろから何か様子が変わってきてしまいました。四神に関して私の知らない知識を振り回す子どもたちがたくさん出てきたのです。

 実はこの四神キャラ、多くの人々に魅力的だったようで、コンピュータゲームの中に繰り返し現れるようになったらしいのです。さらに『五星戦隊ダイレンジャー』のようにそのままテレビ番組になるに至って、私のマニヤックな知識も軽薄なアニメ・ゲーム・オタクみたいな感じになってしまい、以後、この話をするのはやめてしまいました。


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2011/1/24

待ちぼうけ  教育・学校・教師


待ちぼうけ
      詞 北原白秋

待ちぼうけ、待ちぼうけ          待ちぼうけ、待ちぼうけ
ある日せっせこ、野良稼ぎ         今日は今日はで待ちぼうけ
そこに兔が飛んで出て           明日は明日はで森のそと
ころりころげた 木のねっこ        兔待ち待ち、木のねっこ

待ちぼうけ、待ちぼうけ          待ちぼうけ、待ちぼうけ
しめた。これから寝て待とうか       もとは涼しい黍畑
待てば獲物が驅けてくる          いまは荒野(あれの)の箒草(はうきぐさ)
兔ぶつかれ、木のねっこ          寒い北風木のねっこ

待ちぼうけ、待ちぼうけ
昨日鍬取り、畑仕事
今日は頬づゑ、日向ぼこ
うまい切り株、木のねっこ


この歌をすべて歌える人はそうは多くはないでしょう。そしてこの歌の元となった話を知る人はさらに少ないように思います。私もつい最近知りました。

 これは中国の思想書『韓非子』(紀元前250年ごろ?)の中にある「守株待兔」(しゅしゅたいと)という話がもとになっているのだそうです。
それによると、

 昔、宋の国に、ひとりの農民がいた。ある日耕作をしていると彼の田んぼの隅の木の切り株に一羽のウサギがぶつかって首の骨を折って死んでしまった。農民はそれを家に持ち帰り鍋にして食べたが、これに味を占めた男は次の日から鍬を捨て、またウサギが来てぶつかるのではないかと待ち続けるようになった。しかしそのようなことは二度となく、田畑は荒れ、農民は国の笑い者になった

 そこから「守株待兔」は、「うまくいった昔の政治をそのまま用いることなく、時代に合わせて変えるべきだ」という意味で使われるのだそうです。

 私には、この話をもっと早く知っておけば使える場面がたくさんあったのにと惜しむ気持ちがあります。それは不登校の指導に関してです。

 韓非子の農民はただ待っていたからいけないのです。もし切り株に向けてウサギを追い込むような仕掛けをつくっておけば国の笑い者になることなどなかったはずです。

 同様に「不登校の子に対しては、本人を信頼し、その子のエネルギーの貯まるのを待つ」というやり方も、何の手も打たずに待つから私は我慢がならないのです。何の仕掛けもないのに天から幸運が舞い込んでくると思うほど私も楽天家ではありません。

 待つには待つだけの根拠がなくてはなりません。
 私がいつも感じていたのはそういうことでした。



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