2010/11/30

ひねくれ者が人類を救うかもしれない  教育・学校・教師


 人類は病原菌によって絶滅することはないと聞いたことがあります。たとえばアフリカ南部のスワジランド、ボツワナなど、HIVの感染者が35%を越える国のしかも最もハイリスクな職業に従事している女性の中に、HIVにまったく感染しない人がいるというのです。生まれながらHIVに対する何らかの耐性を持った人たちです。

 私たち人間はそれぞれ違った顔や体型を持って地球上にいます。外見だけでなく中身(内臓とか筋肉、血液の成分比率など)も千差万別です。では可能性として、どれくらいの数の異なった人間が生まれるのかというと、統計学的な可能性としては地球上の全砂粒より多いのだといわれています。そのうちのごく少数が今日まで実際に生まれ、死んで行ったのです。この多様性が人類の生存を保障します。どんなに悪質な病原菌やウィルスが現れても、人類はその多様性の中で誰かが生き残るのです。

 人間の行動においても同じことが言えます。みんなが同じ行動を取るとダメなのです。

 映画『ポセイドン・アドベンチャー』ではジーン・ハックマンの演じる牧師が、ホールは危険だと強く訴えても誰もその場を離れようとせず、彼に従って移動した少数だけが救助されます。ところが『デイ・アフター・トゥモロー』では逆に移動しなかった人たちが助かります。

 動けば勝ちなのか動いたら負けなのかは、なかなか分からないところです。しかしそうなると成員の中の「誰かが生き残る」ことを目標とするなら、行動は幾パターンかに分散させるしかありません。たとえば安土桃山時代の真田家のように、父親と次男(真田幸村)を豊臣側に長男を徳川側につけて生き残りを図るというようなことも当然起こってくるのです。

 クラスを見回すと、担任の指示によく馴染み従う子とそうでない子がいます。世間ではよい子・素直な子は担任に愛され、悪い子(?)・素直でない子は嫌われると思っていますがそんなことはありません。どちらも可愛いというか、少なくとも好き嫌いで仕事は勤まりませんから、どちらがどうということもないでしょう。

 ただし頭の痛い子とか、苦労させられる子とかいうのはいます。そして「この子たちがもう少し素直だったら楽なのになあ」と思うことも再三ですが、全員が良い子で素直であったら、それはそれで「多様性が失われている状態」であるとも言えます。ほんとうにその子たちが素直でいてくれたら楽なのですが、そういう子たちがいなくなるときは人類の滅亡も近いときなのかもしれません。

 半分、自分で自分を慰めているような面もありますが、しばしば私は「うん、もしかしたらひねくれ者が人類を救うのかもしれない。だからあの子たちにもがんばってもらうしかない」そんなふうに思って、もう一度彼らのもとに近づいて行こうとするときがあります。多様であることがそれ自体がよい、と思わないわけには行かないからです。



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2010/11/29

以心伝心  教育・学校・教師


 昔勤めていた学校はやたらと鳥のいる学校で、チャボに名古屋コーチン・ウコッケイ、アヒルにカナリヤ、クジャクまで飼っていました。しかしウコッケイなどは素人目にもヨボヨボで、尾羽打ち枯らしといった気の毒な姿でタマゴも産めません。それを当時の校長先生が「本当はタマゴを産んでくれれば子どもも張り合いで一生懸命面倒を見るのになあ」とだいぶ惜しがっておられました。

 ニワトリというのは縄張り意識が強く新たに入れると壮絶な殺し合いが始まってしまうので、追加ということができないのだそうです。そこで校長先生が「もう年なんだから、そろそろ死んでくれてもいいのですが・・・」と言ってたまたまそばにいた私に目をやり、にやっと笑って、「殺(や)っちゃってくれますか?」と言います。

 もちろん冗談です。その直前に東京かどこかで増えすぎたウサギに困った校長と教頭が、生きたまま埋めてしまったという記事が新聞に載っていて、そのことが念頭にあっての話です。

 ところがこの「殺っちゃいますか?」はウコッケイにも聞こえたらしく、翌週から突然タマゴを産み始めたのです。もう相当にお婆ちゃん鶏なのですが。

 これとよく似たことは私の家でもあって、もう20年も前に植えた柿がさっぱり実をつけず、母が面倒がって「切っちゃおうかね」ということになり、それでも20年も家にあったものをただ切るわけには行かないから、秋になって葉が落ちたら神主さんにお祓いをしてもらってから切ることにしようと話していたら、その年の柿はとんでもない豊作だったのです。

 これが人間だとまた違った展開になります。動物や植物は声に出さないと通じないようですが、人間は心に思っただけでも通じてしまうのです。

 たとえば、この子、何か変だ、気持ちが妙な方に向いている、非行にでも走らなければいいが、と思って相談室に呼んで話を聞こうとするちょうどその日、その日に限って妙に調子がいい。調子がいいので一日延ばしに延ばしているうち突然、何か大きな問題を起こして警察に呼ばれたりする。そんなことがあります。
 学校を休みがちな子について、翌週も来しぶるようなら保護者を呼んで本格的に相談しなくてはと思っていると、次の週はやたら元気良く、一週間休みもせずに来ていたりする。それで収まればいいのですが良いのはその週だけで、次の週からまた来しぶるようになる、それでまた対応が2週間遅れる、といった調子です。不思議ですね。

 童話の「さるかに合戦」ではカニが「早く芽を出せ柿の種、出さぬとハサミでちょん切るぞ」と歌う場面があります。やはり動植物には声に出して脅しをかける必要があります。そして人間には内心を気取られないよう、細心の注意を払う必要があるのかもしれません。


*ところで、最初にヨボヨボのウコッケイの話をしましたが、ニワトリの寿命というのがどのくらいのものかご存知ですか? 先の“鳥の学校”で動物飼育教室を開いた際、児童のひとりが獣医さんに質問したところ、答えはこうでした。
「さあ、それがなかなか分からんのですよ、何しろこれまで天寿を全うしたニワトリなんて、学校以外にほとんどいないのですから」
 なるほどと思いました。





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2010/11/26



 そう言えば昨年の今頃は新型インフルエンザで日本中が戦々恐々としていて、来るべき疫災に向けて身構えている時期でした。

 私の前任校は早くも9月の初めには患者第一号が出て10月には猛威に襲われ、学級閉鎖・学年閉鎖と授業のやりくりに翻弄された毎日でした。なにしろ市内で最初の感染校でしたので、何もかも杓子定規に行うしかなく、あまりにも簡単に学級閉鎖にして同じクラスが2度3度と学級閉鎖になるという無駄な経験もさせられました。

 我が家でも息子が定期テストの前夜に発症。病院帰りに、熱に浮かされてかテストを受けずに済むためか、妙に舞い上がって多弁になった息子を何か割り切れない気持ちで眺めたことを思い出します(ただし治った後、息子は毎日放課後に残され、2週間に渡って1教科ずつテストを受ける苦しみを味わうことになりました)。

 さて、世界中に猛威をふるったブタ由来インフルエンザですが、日本における重症例・死亡例が極めて少なかったことは後になって明らかにされました。理由として挙げられたのは、第一に発症から医師にかかるまでの極端な時間の短さです。ほとんどの患者が発熱と同時に医師のもとを訪れたのです。

 もちろんそこには24時間対応できる十分な医療体制とインフルエンザ程度の医療費が生活を圧迫しない豊かさ、そして日本人の高い衛生意識があったことは間違いありません。知・徳・体と言いながら健康教育を熱心にしてきた日本の教育の成果という面もあるでしょう。
 しかしその衛生意識の高さが、深刻な紙マスクの不足というかたちで表れたのは、一部の人たちには“行き過ぎ”と映ったのでしょう、そこからマスク不要論が横行しテレビでも「日本人の愚かさ」みたいな形で繰り返し言われました。

 不織布マスクの気孔はウィルスのサイズより大きくウィルスは簡単に通過してしまうから無意味だというのです。もちろんそれは正しい科学的知見です。しかしウィルスは単体で空中にあるわけではありませんし、一個でも身体に入れば発症するというものでもありません。それは咳をした人の口から飛び出した唾液とともにこちらに届きます。そして唾液は不織布マスクが確実に捉えるのです。その効果は低く見積もっても30%と言われています。

 一方手洗いうがいによる対ウィルス効果は50%と見積もられています。手洗いだけだと50%、マスクを併用するとその効果は65%ということになりますが、手洗いだけの50%と併用した場合の65%の間には大きな差があると私は思います。それも決定的といえるほどの差です。しかしそうした計算上の効用だけでなく、インフルエンザにかかっていない人までマスクをすることにはもっと大きな意味があります。

 マスク不要論者の最期の論は「マスクは健康な人がやっても意味はないが、インフルエンザ患者がウィルスを撒き散らさないことには効果がある。したがってかかった人だけがすればいい」というものです。しかしその上で「かかった人だけ」にマスクをさせる方法は明らかにしません。これ、相当難しいことではありませんか?

 だってそういった社会が実現すると(たとえばアメリカがそうですが)、マスクをしているのは全員「インフルエンザにかかっているにも関わらず外を出歩く不埒な人」ということが明らかになってしまいます。誰が好き好んでそんな看板を背負いますか。

 また家を出てから「あれ、咳が出るな、風邪かな」と感じるような初期のインフルエンザ患者は、とりあえず手元にマスクがありません。忙しい通勤時刻にそれでもマスクを探して購入し装着してくれるなんて、そこまですべての日本人が他人のことを考えて生きているわけではないのです。

 感染者および感染の疑いのある人全員にマスクをさせる方法はひとつしかありません。それは健康な人も含め、すべての人がマスクをしたがる今の日本を守ることです。

 評論家は日本人をバカにしていれば飯の食える人たちです。だからそこまで気が回らないのです。


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2010/11/25

心理の壁  教育・学校・教師


 スポーツというのは不思議なもので、たとえば走り高跳びで1m20cmがどうしても跳べないというような場合、それでも諦めずに毎日跳んでいるといつかクリアできる、そして1度跳んでしまうと次からはなぜあの1m20cmがあれほど難しかったのか首をかしげるくらいに簡単に跳べるようになる、そして今度は次の1m25cmが鉄壁のように前に立ちはだかる、というようなことがよく起こります。鉄棒もしかり、跳び箱もしかりです。

 先日のテレビで見たのは陸上競技の1マイルレースのことです。

 1マイルレースでは1923年にフィンランドのヌルミが 4分10秒3の記録を樹立、それが31年間も破られなかったのです(このときのヌルミの記録も37年ぶりの更新でした)。人間はおそらく4分を切ることはないだろうということで、その「4分」は「brick wall(れんがの壁)」と言われていました。ところが1954年5月にイギリスのロジャー・バニスター3分59秒4で走ると、翌月にはライバルのジョン・ランディ(オーストラリア)が3分58秒とあっさり記録を更新し、なんとその年だけで23人もが「brick wall」を突破してしまったのです。「4分を切ることが人間に可能だ」とバニスターが証明した時、一気にその可能性に向けて選手がなだれ込んできたのです。

 それに似たことが政治の世界にもあります。たとえば1945年6月に原子爆弾の製造に携わった7人の科学者が提出したフランク・レポートは、日本に対して無警告で原子爆弾を投下することに反対していますが、理由の一つは「アメリカが原爆製造に成功した」と知ったら第二次大戦後の世界ではあっという間に核開発競争が始まり、コントロールが効かなくなるという予測からでした。原爆製造が「可能性」であるうちは核開発競争は始まらないが、実際に製造されたとなると一斉になだれ込むだろうと考えたのです。そして一案として、アメリカが核保有国であること自体を秘密にしてしまおうとも考えたようです。

 またこれとは別に思いだすのが、1973年前後に日本の各地で起こった「コインロッカー・ベイビー」の問題です。大都市の駅のコインロッカーに生まれたばかりの赤ん坊を遺棄するという極めて残忍でユニークな犯罪はあっという間に全国に広がり、この年だけで43件も起こっています。その後、警察による巡視が徹底され防犯カメラの設置などによりこの「コインロッカー・ベイビー」はなくなりましたが、それから40年近くたった現在、コインロッカーに子どもが捨てられたとい話はほとんど(と言うかまったく)聞きません。遺棄を防ぐ手立てが徹底したのではありません。「子どもをコインロッカーに捨てる」という発想が共有されなくなって「心理の壁」となり遮っているのです。

 なぜ最近これほど児童虐待が増えたのかと考えるときも、この「心理の壁」はヒントを与えてくれます。虐待によって子どもが殺されたという話を聞いた時、何人かの人の心の中で、「子どもは愛さなければならない、子どもは死ぬまで殴ったり食事を与えなかったり裸で寒空にさらしたりしてはいけない」といった、考えるまでもない「心理の壁」が、突破されるのです。「ああ、そんな欲望を持つのは自分だけではない、自分だけが悪逆非道のわけではない」という安心感が、タガをひとつずつはずしていく、そんな気がするのです。

 不登校や引きこもりも、大昔、そうした心性をもった子どもや大人がいなかったのではなく、「学校や会社にはいくのが当たり前」といった「心理の壁」が立ちはだかっていただけなのかもしれません。

 一昨日も札幌で中2の女子が自殺したという報道がありました。「心理の壁」突破という意味で、私はとても心配しています。



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