2010/10/29

百姓の裔@  教育・学校・教師


 日本人の姓(苗字)はどれくらいあるのか。これに関する正確な数は分かりませんが、平成9年(1997年)発行の「日本苗字大辞典」本には291129件載っているのだそうです。およそ30万件。それに対して姓の本家中国の場合は4100件ととんでもなく少ない数になります。儒教の国は家系を重要視しますので姓が無闇に増えるということはなかったのです(それに対して日本は、全国民に苗字がつけられた明治初期、そうとうに怪しい姓まで勝手につけられたみたいです)。

 中国の場合、一口に「姓は4100」と言いましたが実は12億の人口の87%はわずか129件の姓に集約されますから、ものすごい数の同姓が存在することになります。その数は(私の計算ですから多少違っているかもしれませんが)最も多い「李」さんが8880万人、2番目の「王」さんで8640万人、第3位の「張」さんは8160万人と推定されます(以下、劉・陳・楊・黄・趙・周・呉・徐・孫が多い姓)。上位2件だけで1億7000万人と日本の人口を軽く越えてしまいますから、日本に当てはめると全国に二つしか姓がないような感じです。

 現代の調査によって初めてここまで詳しく分かりましたが、古代中国の人たちは直感的に「国民の姓はおよそ百」と考えたようです。なかなかいい数字です。そしてそこから「国民」のことを「百の姓を持つ者=百姓」と呼ぶようになり、当時の「国民」のほぼすべてが農民であることからいつしか「百姓」と「農民」は同一視されるようになったのです。
 日本では一時期差別語として使われた「百姓」ですが、元を質せばただの「国民」です。侮蔑の意味をこめて「百姓!」と叫んでいた人たちがそれを知ったら、どんな顔をするでしょう。ちょっと愉快ですね。

 さて、私の家系は父方が藤原氏、母方が平氏ということになっていますが、日本人の大部分は「源平藤橘(げんぺいとうきつ:源氏・平氏・藤原氏・橘氏)」を名乗っているそうですからもちろん家系そのものがウソなのでしょう。子どものころはそれでも貴族か武士の子孫と思いこんでいてけっこう気分がよかったのですが、考えてみたら貴族といえば収奪者ですし武士といえばつまるところ殺人集団です。いずれにしろ、ろくなものではありません。長じて自分の家系はどうやら農民らしいとわかって少しほっとしました。農民といっても5代くらい前の祖先が庄屋をやっていたことがわかっていますので、戦国時代まで遡ればたぶん地域ボス、もしくは野党の頭目といったところです。あるいは半農の野武士が土着して農業を専門にやるようになり、江戸時代の大半をすごしたと思われます。

 それからだいぶたってから、今度は多少の傷はあるものの(何しろ地域ボスか野党の頭目ですから)農民の子孫であることに高い誇りを持つようになりました。
 それについてはまた別の機会に書きます。



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2010/10/28



 その子は小学校5年生で担任したとき、すでにかなり厄介な感じでした。基本的にはそこそこ能力のあるまじめで素直な女の子なのですが、とにかくキレ易い。非常にエキセントリックで感情の起伏が激しく、そうかと思うと突然プツンと切れて教室を飛び出す、部屋の片隅でしゃがみこんで固まってしまう。

 年じゅう爪を噛んでいるのですがその噛みかたが妙で、手前に向けた両手を寄せ、指を軽く曲げてトウモロコシを食べるみたいに左右に振りながら噛むのです。ですから10本の指の爪はいつもボロボロでした。

 中学生の優秀な兄と仕事熱心だがあまり家にはいない父親、神経質で厳しい母親。当時一種の心理学マニアだった私はそこから困難な家庭の典型的な構図を思い浮かべていました。この子の問題は家族関係を変えなければ解消しないと。

 しかし担任してからの1年半は意外なほどそこそこうまくやれました。私は子どもの緊張をほぐすのは割りと得手なのです。そして6年生の1学期が終わり夏休みがあけて、そろそろこの子の将来が見えてきたと思った矢先、10月の中ごろからそれこそ急坂を転げ落ちるように状況が悪くなって元の木阿弥に戻ってしまったのです。6年生も半分以上終わったと言うのに5年生の初めに戻ってしまった。そこからしばらくは私なりに努力もしましたが、もう誰の目にも素人の手に負える段階ではないことは明らかでした。

 12月の懇談会で保護者と話し、苦労してカウンセラーを探し(というのは、私の知っている2〜3の機関はすべて男性のカウンセラーで、なんとなくこの児童には向かないとう強い思いがあったからです)2月に入って相談にかけました(予約がいっぱいでなかなか入れなかったのです)。

 その結果3月になって、子どもは学習障害(LD)だという判定を受けて帰ってきました。とにかく耳から入った数字が保持できない、たとえば「4、8、7」と覚えさせ、「逆から言ってごらん」と指示しても悲しいほどできないとのことでした。その「悲しいほどできない」という言葉に私は胸を衝かれました。心当たりがあったからです。

 そう言えば算数の答え合わせのとき、私が解答を読み上げている最中に突然「せんせ〜、もう一度言って〜」と、妙に甘えたりからかったりするような声で中断させることが再三でした。私はそのふざけた調子に苛立って、たぶん「しっかり聞いてろ」とか「いい加減にしろ」とかいった感じで対応していたに違いありません。その間、おそらくこの子はとてつもなく悲しい思いをしながら、聞き取れない自分を冗談のようにしてごまかしていたのです。この子の困難は家族が原因なのではなく、私が原因だったのです。

(これはそのときのカウンセラーの指導の中で分かったことですが、心の問題の検査は「重篤なものや客観的に判断できるもの」から進め、最後に「家族関係や社会関係の問題」として考えるという段階を追っています。この子の場合はLDの判定が出たところで検査は終了し、他はすべてLDの二次障害と考えるところから治療を始めるのです。もちろん私の見立ての通り家族関係にも問題があり二重の困難を抱えているという可能性がないわけではありませんが、LDとその二次障害という明確な問題に十分な配慮がなされない限り、他に問題があるかどうか見えてこないからです)

 私には時間がありませんでした。もう卒業式が目の前だったのです。結局、中学校を訪ねて(私としては)十分な申し送りをしてそれでおしまいにしてしまった、それ私の後悔です。
 算数の答え合わせの対応なんて簡単でした。口で言うだけでなく、答えを黒板に書いてやればよかっただけのことです。この子は目からの情報は確実に入るのですから。

 担任知識がないばかりに送った何という無駄な2年間だったのか、その思いは長く引きずることになりました。


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タグ: 後悔

2010/10/27

敬称の話  教育・学校・教師


 おそらく2年ほど前ぐらいこと思うのですが、病院で患者を指していう言い方が突然、「患者さん」から「患者さま」に変わりました。そのことを毎年2月に行っている人間ドックで酷い違和感とともに知りました。しかも椅子に座っている私に対して、看護士は何かを説明したり質問したりするのに膝をついて姿勢を低くするのです。なにかコスプレ喫茶にでも行っているような妙な気分でした。看護師という気高い仕事が、卑屈な仕事に見えた瞬間です。

 私が教員になった30年ほど以前、教師は生徒を呼び捨てにするのが普通でした。女の先生にもそういう人は少なくありませんでした。それがいつしか男子には「くん」女子には「さん」をつけて呼ぶようになり、今や全員が「さん」で呼ばれるようになっています。正直に言いますが、大の大人が小さな子どもに「さん」をつけて呼ぶのに、私は今でも違和感があります。

 相手をどう呼び自分をどう表現するかということは人間関係そのものを規定します。たとえば私たちが講演会の講師をお呼びする時、それが有名な作家先生であろうと近所のおっちゃんであろうと、教えを請おうとする以上はすべて「先生」をつけて呼びます。「先生」と呼ぶことを通じて、「師として相手」「弟子としての自分」の位置を明らかにしようとするのです。

 父親を「お父さん」と呼ばせるか「パパ」と呼ばせるか、はたまた「父ちゃん」と呼ばせるかどうでもいいことのようですがこれがけっこう親子関係を規定します。「父ちゃん」はステテコ姿でビールを飲んでも構いませんが「パパ」はちょっとまずいかもしれません。ちょっととまずいかもしれないという心の揺れが、親子の関係に反映します。

 生徒が教師を「先生」と呼び教師が生徒を「〜さん」と呼ぶ、そこには互いに対する温かな尊敬があります。上下関係のない人と人との繋がりがあります。しかしそれでいいとは、私には思えないのです。

「教師も生徒も人間として平等だ」という言い方があります。たしかに生物学的には「同じ人間」だとしても、学校という場において彼我が同じであるはずがないのです。私は以前「知の霊媒師」という話をしましたが、「一個人として私は尊敬してくれなくてもけっこうだが、教師として教壇に立つ私は尊敬してもらわなければならない、なぜならそのときの私は霊媒師のようなものであって、私を通して見える私の背後にあるものは確実に尊敬できるからだ」というのが私の立場です。児童生徒と教師を同じ人間としてみる見方からは、そうした尊敬は生まれてきません。

 いまさら児童生徒を呼び捨てにできる時代が戻ってくるはずはありませんし、その時代を懐かしんでいるわけでもありません。ただし私はこの傾向がさらに進み、病院がそうなったように(面と向かってではないにしろ)児童生徒や保護者のことを「児童生徒さま」「保護者さま」と呼ぶ時代が来るのではないかと恐れています。そのとき混沌としていた上下関係は再構築され、お子さま優位、保護者優位で定着する、つまり私たちが教えさせていただく時代が来るわけです。

 問題なのはそうなった時の私たちの惨めさ卑屈さではなく、そうした逆転した人間関係から人は真に学べず、したがって子どもに力がつかないということです。

 日本語には敬称・尊称・謙称といった魔性の強い言葉があります。こうした魔力をおろそかにすると、きっと恐ろしいことになります。



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2010/10/26

名の秘匿  教育・学校・教師


 教員でなかったらもっと楽だったろうにと思ったことにひとつに、自分の子への命名があります。何しろ何かの名前を思いついたとたんに同じ名の元教え子の顔がちらつき、「あんなふうになったらかなわん」とか「あの子の名前をもらったら名前負けしそう」とか、余計なことがチラつくのです。

 私の娘は「○太郎という名前の子は(竜太郎を除いて)絶対にグレない」と信じています。私は「陽子という子はすべて春の日差しのように柔らかく明るい」という信仰をもっていますし、「節子・悦子といった歯切れのよい発音の子は、さわやかだ」という思い込みがあります。義姉は「何しろ赤ちゃんのときから繰り返し耳に入ってくる言葉だから、強すぎる音の名前の子はキツイ子に育ち、柔らかな発音の子は優しくなる」と信じて疑いません。

 しかしそんなことを言うとたちどころに○太郎という非行少年や性格の暗い陽子さんの情報が大量に寄せられるのは間違いありません。ですから以上はきっと個人的な思い込みなのですが、それにしても名前には何らかの魔力があると言う思いはぬぐえないのです。

 岡野玲子の『陰陽師』の第一巻に、次のような話があるそうです(私は読んでいないので、ある本からの孫引きです)。

 羅生門に巣くう鬼から琵琶の名器玄象(げんじょう)を取り返しに行った安倍晴明(せいめい)と源博雅(ひろまさ)は、鬼に名前を尋ねられる。博雅は尋ねに応じて素直に「源博雅だ」と名乗るが、晴明は「正成(まさしげ)」という偽名で答える。翌日、羅生門に鬼退治に赴いた一行に向かって鬼は「動くな博雅」「動くな正成」と告げる。博雅はそのまま凝固してしまうが、晴明はするすると近づいて鬼を斬り殺す。
「おぬしは不用意に本名をあかしてホイホイ返事をするから呪にかかるのだよ、博雅」
と清明は笑う。
というのです。

 これに似たエピソードが劇場アニメ「千と千尋の神隠し」の中にもあります。ハクの助言によって湯屋に職を求めようとする主人公の荻野千尋は、湯婆婆に渡す契約書にわざと違った字を書くのです。私はビデオで確認しましたが、千尋は「荻」の字の最後の部分を「火」ではなく「犬」と書いています。この機転によって千尋は決定的に人格を奪われるのを防ぐのです。

 名を明かしてはいけないという風習は、おそらく奈良時代以前に溯ります。有名な藤原光明子(光明皇后)は名こそ知られていますが自身の文章の署名は「藤三嬢(とうさんじょう 藤原の三人目の娘)としか書いていません。
 平安時代になると清少納言、紫式部という二人の才媛が出現しますが、清少納言というのはおそらく「清原家の小納言(の娘)」という意味で、紫式部の方は「紫にまつわる物語(源氏物語の主人公たちは“桐壺”“藤壺”“紫の上”といったふうに紫色の花に関わる名前の女性が多くいる)を書いた式部(父親の藤原為時は一時式部大丞の職にあった)の娘」という意味です。そう言えば「更級日記」や「蜻蛉日記」の作者はそれぞれ菅原孝標の女(むすめ)、藤原道綱の母と呼ばれています。いずれにしろ貴族の女性は名を明かないのであり、知っているのは基本的に家族だけでした。また結婚の初夜の明け、新妻のすべきことのひとつは夫に名を明かすことで、それによって生殺与奪の権を明け渡し家族の一員になるわけです。

 では平安時代の男性はとなると、これは公的な場面が多いのでなかなか名の秘匿というわけには行きません。そこでたびたび改名したりお互いを信濃守(しなののかみ)などの役職で呼び合うことでその分を補っていたのかもしれません。

「名はそれほど大切なものだからみだりの外に出してはいけません」ということ、現代にもそんな場合はたくさんあるように思うのですがいかがでしょう。

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2010/10/25



 今日、10月25日はパブロ・ピカソの誕生日です(1881年)。

 史上稀に見る多作の芸術家で、生涯におよそ13500点の油絵と素描、10万点の版画、34000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作したといわれています。

 ピカソの作品は分かりにくいと言われていますが、生涯を通じて制作した作品を順を追ってみていくと、分からないながらも何となくいい感じになっていきます。私はそれを、一昨年の国立新美術館・サントリー美術館「『巨匠ピカソ』展」で感じました。

 芸術作品というのはとにかく本物を見なくてはだめで、特に個人展を編年で見るとたいていの作品の良さは身をもって感じられます。ピカソの場合も長い作家生活の流れの中から「青の時代」や「ばら色の時代」そしてキュービズムへの必然性が見えてくるのです。

クリックすると元のサイズで表示します さて、ピカソはさまざまなエピソードを残した人ですが、とても女性に持てた男で生涯かたわらから女性の影が消えたことはありません。そして全生涯を通じて彼を振った女性は一人だけだといわれています(ただしこの女性との間には二人の子をもうけていますから最初から振られたわけでもありません)。フランソワーズ・ジローという名の女流画家で今年の春に東京で個人展が行われたはずです。
(右の写真は、若き日のピカソ。モテるのも分かりますね)

ピカソの言葉で私が好きなのは、
「誰でも子供のときは芸術家であるが、問題は大人になっても芸術家でいられるかどうかである」
「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかった」
というものです。この言葉から、ピカソの目指したものの一端が分かろうというものです。

「明日描く絵が一番すばらしい」
もピカソの言葉ですが、こんなところから生涯11万点を越える作品群は生まれてきたのかもしれません。

 ところで、実は私は特にピカソが好きなわけでも、ピカソに詳しいわけでもないのです。ただピカソの本名が異常に長いことを知っていて、その知識をひけらかしたくて、ピカソの誕生日である今日、書いているだけなのです。

 その名前とは、「パブロ、ディエーゴ、ホセ、フランシスコ・デ・パウラ、ホアン・ネポムセーノ、マリーア・デ・ロス・レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ」
「寿限無 寿限無」みたいで、ちょっとすごいでしょ。

 ついでに、
 私は長いこと世界で最も長い都市名はスリランカの首都、スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ(私はこれをそらで言えます)だと思っていましたが、ある日これを圧倒するとんでもなく長い都市の名があることを知りました。それはタイの首都バンコクです。

 このバンコク、正式な名称を「クルンテープマハーナコーン ボーウォーンラッタナコーシン マヒンタラーユッタヤーマハーディロック ポップノッパラット ラーチャターニーブリーロム ウドムラーチャニウェート マハーサターン アモーンピマーン アワターンサティット サッカタッティヤウィッサヌカムプラシット」といいます。
 意味は「イン神がウィッサヌカム神に命じてお作りになった、神が権化としてお住みになる、多くの大宮殿を持ち、九宝のように楽しい王の都、最高・偉大な地、イン神の戦争のない平和な、イン神の卓越した宝石のような、偉大な天使の都」だそうで、これもすごいですね。





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2010/10/22

まず寝なさい。そして食べなさい  教育・学校・教師


 200万部ものミリオンセラーとなった「だからあなたも、生きぬいて」(講談社、2000)の著者大平光代さんは16歳でヤクザの妻となり、離婚後29歳で弁護士、38歳で大阪市助役、44歳で龍谷大学客員教授に就任というとんでもないツワモノです。
 背中一面に刺青があるそうですがそうした人生経験はさておき、司法試験に一発で合格するような頭のよい人に「私もがんばった、だからあなたも生きぬいて」と言われても何か、かえって士気は下がる一方です。しかしそれにしても、すさまじい人生譚とし、読むに値する本とは思います。

 さて、ところでこの人の転機となったのは離婚後クラブホステスをしていた時代に父親の友人と再会し、その人の強い勧めによって立ち直ろうとしたところからだとされています。その魔法の「勧め」が何であったかは、実は「だからあなたも、生きぬいて」を読んでもよく分からないのです。具体的な説明が不十分なこともありますが、何か特別な言葉が使われたという気がしてこないのです。そこでふと思ったのは、実はその「父の友人」は、そんなに大した話をしたわけではないのではないかということです。私も長く生きてきましたから、相手が子どもならまだしも、もう十分に大人になってしまった人間の生き方を180度変えてしまうような特別な言葉、普通の人には思いつかない視点というものは、そうはないと知っています。「目からウロコ」という言葉はあるにしても、大人を変えるのは容易ではありません。だとしたら次に考えられるのは、言葉の受け手である大平光代さんの立場です。

 思うに「父親の友人」が強く語った言葉の多くは、すでに別の人によって繰り返し彼女の耳に入れられていたのではないでしょうか。12歳のとき、16歳のとき、あるいは20歳のとき、それぞれ同じような言葉は大平光代の耳に注ぎ込まれていた、しかし彼女の側にそれを受け入れ、爆発的なエネルギーを発揮させるような心の準備や環境の整備がなかったということです。「熟し柿は落ちる」という言葉がありますが、発火するためには十分な温度上昇がなければなりません。十分温度が上がっているところに、「父の友人」が火をつけたのです。

 私たちは日ごろからたくさんの価値ある言葉を児童生徒に浴びせかけます。しかし浴びせた言葉の量ほどには子どもは伸びません。それはたぶん子どもの側に十分な準備や成熟がないためです。もちろんそうした準備や成熟を促すのも私たちの仕事ですが、教育は私たちだけでしているものではなく家庭や地域、テレビやインターネットによって促されます。私たちの知らないところで、子どもが発火点に達している可能性も大いにあるのです。そうなると最もだいじなことは、子どもがそこまで達していることを見抜くことと、その瞬間に間髪を置かず一番重要な言葉や支援を与える能力と言うことになります。

「ここ一番のとき」と「ここ一番の言葉」というものがあります。それはもしかしたらその子にとって人生に一回しかない大切な瞬間かもしれません。その瞬間に私たちがなすべきことをなせるかは、常日頃の勉強とともに、その瞬間に全エネルギーを注ぎ込める体力があるかどうかにかかっていると言えます。

 教師は学ばねばならないのと同時に健康でなくてはなりません。十分寝てよく食べることも教師の重要な仕事だと思うのはそのためです。


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