2010/7/30
がんばろう 教育・学校・教師
さて、全員揃っての勤務も今日までです。
来週からはそれぞれ研修に出たり、会議に出たり・・・なかなか休めませんね。
次に揃うのは20日(金)です。
夏風邪などに気をつけて頑張りましょう。
では、では・・・。
*ブログの方も、原則20日までお休みです。2学期、またよろしくお願いします。

2010/7/29
語のグローバル化 言葉
日本は中国の漢字によってたいへんな恩恵を受けています。漢字がなければひらがなもカタカナもなかったわけで、日本で何らかの文字が発明されるまでに、相当な量の文化が失われてしまったはずです。中国には感謝しなければならないところです。
ところで、中国と日本とでは意味の異なる漢字、たとえば「愛人」(中国では配偶者)、「手紙」(中国ではトイレット・ペーパー)、「暗算」(中国ではだまし討ち)などは有名ですが、日本にしかない擬似漢語というものもかなりあります。
その多くは明治期、英語やドイツ語を日本語に移し変える祭に発明されたもので、「石鹸」「毛布」「駅」「巡査」「契約」「自由」「権利」「義務」「恋愛」などはみなそのころに作られた言葉です。
文化の移入を急ぐととりあえず名詞の移動が関門になるので置き換えられたものも名詞がほとんどなのですが、実に大量の擬似漢語が生み出されています。
(もちろん和語に置き換えても良かったのですが、和語の名詞は「歩き」とか「働き」とかいったふうにどこかに動詞のにおいを強く持っていて、使い勝手がよくないのです。ステーション=「とどまりどころ」では何となく変ですよね)
さて、文化は常に高いほうから低い方へ流れます。古代において大量の漢語が日本に流れ込んだのは、中国の方が文化の上で圧倒的に高かったからに他なりません。明治維新から今日に至るまで、日本語に大量の英語が流れ込むのも同じ理由です。
そうなると近代文明という意味で、一時的にしろ日本が中国を圧倒したここ100年余り、日本文化が圧倒的に中国に流れ込んだとしても不思議がありません。ことに漢字を共有する両国ですから、一度動き始めると流れは相当に強かったはずです。
そんなことを考えていたら最近、インターネットのニュースでこんな記事を見つけました。
中国新聞網の掲示板に「現代中国語では多くの日本語が使用されているが、漢字は日本語のコピーなのだろうか?」とする投稿があり、話題となっている。
投稿では、中国語にとって外来語にあたる日本の漢字は、現代の中国文化にとって大きな影響を与えているとし、「すでに聞き慣れてしまい、広く使用されている言葉のなかには、日本語を導入したものが多い」と主張した。
続けて、投稿では「解読」、「新鋭」、「職場」、「新人類」、「視点」、「親子」、「達人」、「放送」、「完敗」、「完勝」、「上位」など、数多くの「外来語」を紹介した。また、日本語の「超カワイイ」、「超すごい」など「超〜」という言い回しや、「真の〜」といった言い回しも、すでに中国語として普及していることを紹介した。
「漢字は日本語のコピーなのだろうか?」はもちろん皮肉ですが、そうした皮肉を言いたくなるほどに苛立っています。日本でも「大量に流れ込む外国語のために、純粋な日本語が乱れている」という主張が繰り返しなされますが、どこの国でも事情は似たようなものです。
「チョー カワイイ」はフランスでもそのまま通用します。それはシュークリームがそのまま日本で通用するのと等価なのです。
放っておいても言葉はどんどん低い方へ流れてしまいます。

2010/7/28
虐待のこと 教育・学校・教師
昨日のニュースに兵庫県尼崎市の小学4年生が9時間に渡って両親から殴られ、意識不明の重態だという記事がありました。
その前には横浜市港北区の1歳2ヶ月の女児が木箱に詰められて窒息死しています。木箱に入れられたのです。
さらに少し以前には同じ横浜で小5の男児に2週間のけがをさせた父親が逮捕されていますが、逮捕のきっかけは男児がコンビニでおにぎりとパンの万引きをし、トイレで食べているところを店員に発見されたことによるものでした。5日間も食事をさせてもらっていなかったのです。それだけではなく約1カ月前から全身を木刀で殴られたり手の甲に灸をすえられ、今年度は学校に数日しか通っていなかったそうです。
昨年4月に、大阪市西淀川区でベランダに出されたまま両親に殺された9歳の女の子について、母親は内縁の夫の仕業としてこんなことを証言しています。
「A(被害者女児)の頭をまな板でたたき、まな板が割れたことがあった」
「殴られてあざだらけの顔で寝ているところを『殺された人みたい』と言って写真を撮っていた」
その子の最後の姿は、当の父親によってこう表現されています。
「横たわったまま右手を動かし『ひまわりを探している』と言っていた」
「(死亡直前の)午後3時前に『まだここで寝んの』と聞くと『ここで寝る。おやすみなさい』と言った。その後、身動き一つしなくなった」
虐待に関する日本の状況が、ここまで深刻になってきていることを思い知らされたのは、2004年1月に発覚した岸和田事件と呼ばれる虐待事件からです。このときの被害者は中学3年生の男子でしたが、発見された段階で身長155センチ体重24キロと餓死寸前にまで追い込まれており、意識不明の状態でした(両親は死んだものと思い込んで病院に通報し、虐待が明らかになります)。
発覚後長く意識不明の状態が続き、これはもうだめかもしれないと思っていたのですが、最近のニュースで意識を回復していることを知りました。ただし脳萎縮が進んでおり、著しい知能低下と体の障害が残ったそうです。
私は虐待する保護者の気持ちの、100万分の1さえも理解することができません。犬の子だって猫の子だって、あるいはオタマジャクシのような小さなものでさえ、いたぶって弄ぶことには抵抗があります。ましてや人間の子、自分の子です。しかし、理解できないからといって、教師である以上、放り出すこともできません。
これまでイジメやら不登校やら非行やら、あるいは授業を荒らす子どもたちの存在やらモンスターペアレントやら、学校はさまざまな問題を突きつけられ、苦労して対応策を生み出し、あるいはうまく対応してきました。そしてこの次に未知のこととして突きつけられるのは、間違いなく虐待の問題です。
虐待が疑われる際には、私たちには通報の義務がありますが。学校としてばかりではなく、個人としても責任が問われます。しかし一方、保護者との関係を決定的に悪くしてしまうと子どもの教育の何ひとつできないという弱味も、私たちには存在します。疑わしいからといって右から左へ自動的に通報するなどということはできないのです。
そうした学校の立場を確認した上で、さて、明日にも突きつけられるかもしれない「虐待」の事例に対して、どのような心構えとスキルを携えていればいいのか。
夏休みから今年後半の私のテーマのひとつは、それです。

2010/7/27
ご苦労様でした。 教育・学校・教師
1学期ご苦労様でした。
日数から言えば2学期が一番長いですが、心理的には1学期の方がずっと長く感じられます。何しろ怒涛の4月が終わってゴールデンウィークを使い果たすと、あとは海の日までまったく間断なく授業と行事が続くからです。それに比べたら、都合よく国民の休日の入る2学期の方がよほど楽です。
この長い1学期を、私はこの学校に慣れることと、この学校で新たにやろうとすることを考えること、この二つに使い果たしたように思います。
考えてみるとこの学校に来るまでは何か問題があって、それに対する防衛防御というかたちでしかものを考えてきませんでした。不登校、荒れる学級、非行、モンスターペアレント・・・。ごく普通の子、ごく普通の学校でそれをより良くするといった方向ではものを考えてこなかったのです。
この学校に来ての最初の戸惑いはそこにありました。
ただ、言うまでもなく問題のない子なんていませんし、どんな子でも伸びたいと思っているに違いありません。
私は2学期は本格的にそういうことを考える学期にしたいと思います。
何の縁があってこの学校に来たのかは分かりません。しかし私も含めて、すべて世の中の人は何らかの理由があってそこに存在するのです。この学校で、この地域で、何かを残す人になろうではありませんか。
明日からも何かと忙しいですが、がんばりましょう。
