2010/6/17

子どもを信じる  教育・学校・教師


 先日、ここにこんなことを書きました。

 子どもが刑事事件を起こして警察に呼ばれ、「親としてしっかり見ていたのですか?」と問われ、「子どもを信じていました」と言ったら笑いものでしょう。しかし多くの(教育の)専門家は「子どもを信じろ」と言います。それならどう信じたらよいのか。これについて語る専門家はほとんどいません。

 子どもを信じるといっても「ウチの子は万引きをしないだろう」とか「いじめの加害者にはならないだろう」とか「人の悪口は言わないだろう」とか信じることは愚かです。根拠がありませんから(普通は)。
以前、「先生、僕たちを信じないんですか」と聞かれて、「お前たちを信じていたら仕事にならん」と喝破した先生がおられましたが(生徒が呆れて報告に来ました)、私はそうは言いません。私だったらこういう言い方になります。

「ほんとうに信じていいんだね。今日からキミを信じることにしよう。キミは今日から私に逆らったりしない、毎日3時間から4時間の家庭学習に励み、勉強の成績も部活の成績もうなぎ上りにあげていく、そしてやがて一流高校から東大に進み・・・」と、全部言い終わらないうちにたいていは「先生〜! ボクを信じなくてもけっこうです」ということになります。
要するに「信じる」の意味が違うのです。

 子どもについてほんとうに信じられるのはひとつだけです。それは「どんな子どもでもすべて誉められたいと思っている、すごいやつだと言われたいと思っている」ということです。
 ある人はこれを「三つの『たい』―『誉められたい』『認められたい』『役に立ちたい』」といった説明をします。大村はま先生の、「子どもは高いものを求める」も行き着くところは同じでしょう。

 すべての子どもは誉められたいと思っている。これだけは信じられます。ですから中学校の場合、勉強かスポーツ、あるいは生徒会か何かで活躍できる子は、困難を抱える可能性がグンと低くなります。みんなから誉められる生活を捨てて何かをする必要がないからです。しかしどれをとってもぱっとせず誉められることのない子は、勉強やスポーツ、生徒会とは無関係な場で誉められるしかなくなります。

「お前の服、スゲー、カッコいなあ」「オメェ、そんなものまで盗んでくるのかよ、スゲーなあ」「お前、センコーにあんなこと言えるなんて、スゲーよ」

 子どもを信じるということは、子どもの中にある「良くなりたい、すごいと言われたい、誉められたいといった強い願い」を信じることであって、それ以外ではありません。

 どんな場合にもそうした願いが残っていることを信じ、それに働きかけろ、という意味です。



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