2010/6/7

道徳の美学  教育・学校・教師


 道徳は、一般には「他人に迷惑をかけない」ことを中心に語られます。実際、多くの保護者に聞けば「人に迷惑をかけない子に育て欲しい」という言葉は繰り返し出てきます。またちょっと曲がった方向に行ってしまった子どもたちの「別にめーわくかけてるわけじゃねーダロ!」という言葉は、彼らがいかに「迷惑をかけない」教育を受けてきたかという証でもあります。しかし道徳というのはそういうものなのでしょうか。

 そう思って周囲を見回すと、たとえば「ひじをついてご飯を食べてはいけません」とか、「パジャマで外を歩くものではありません」とかいった道徳は、「他人に迷惑をかけること」とはまったく関係ないことが分かってきます。学校内で「挙手は指先までしっかり伸ばして」とか「列をきちんと整えましょう」とか、「靴を揃えましょう」とかいうのも、すべて「迷惑」とは関わりないことです。これらすべては「迷惑」ではなく「美しさ」と関わりがあるのです。

 ひじをついて食事をしないのもパジャマで外を歩かないのも、列や靴をきちんと整えるのも、それらはすべて「それが美しい」からであり、「人は美しく生き、美しく行動しなければならない」からなのです。

 そして、ここからが難しくなります。なぜなら「それが美しい」ことと「人は美しく生き、美しく行動しなければならない」ことを、論理的に証明することができないからです。それは「なぜ芸術がすばらしく、なぜ私たちが芸術を必要としているか」を説明できないのと同じくらい難しいことです。

 ピカソの絵がどれくらいすばらしいかを、言葉で説明できる人はいません。なぜなら「ゲルニカ」の感動を言葉で伝え、聞いた人の心を同じように揺るがすことができるとしたら、「ゲルニカ」が描かれる必要はないからです。言葉でできることを絵にする必要はないのです。
同じことは音楽にも書にも言えます。それらはすべて体験を通して知る外はなく、たくさんの絵を見、音楽を聞き、書を味わい、勉強しなければ分からないことなのです。そしてまた、美学としての道徳も同じです。たくさんの美しい行いを見、体験し、自分も行うことによっていつかその価値が分かり、やがてそのようにしなければ気がすまなくなる、それが美学としての道徳です。

 美しい食事マナーを美しいと感じ、それを必要とするためには食事のマナーに熟達しなければなりません(私は茶道を嗜みませんが、美しく飲食することに極みが茶道という芸術ではないかと思っています)。「列を整える」とか「挙手は指先までしっかり伸ばす」といったことも皆そうです。ゴミを路上に残さないのは「ゴミが落ちていると通行のじゃまになる」とか「臭い出ると人に迷惑だ」といった卑小な話ではなく、自分のすべきことを他人に押し付けたり、労を惜しんだりする行為が美しくないからなのです。

「学校における全教育課程を通じての道徳」というとき、この美学の観点を忘れてはなりません。

 友だちとのトラブルで我を通し続けるのは美しくやり方ではありません(もちろん今回は我を通して次回は譲るといったバランスの美しさを追求するやり方はあります)。自分が気に入らないからといってすぐに暴力に訴えたり拗ねたりするのも醜い行為です。宿題をやってこなくて人前で叱られるのなんて、美の観点からすれば最低です。

 どこまで有効なやり方かはわかりませんが、ひところ私は「それ美しくないだろ」を口癖にしていたことがあります。



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