2010/6/23

美しい人たち  教育・学校・教師


 さて、いよいよ明後日の朝です。明日は早く寝て、3時半には目を覚ましましょう。

 とは言い条、しかし私はそれほど熱心なサッカー・ファンでもありません。ぼんぼん点の入るバスケットボールやバレーボールと異なり、90分走り続けて1点か2点というストレスの多い競技のせいか、選手はすぐに髪を染めたりピアスの穴を開けたりします。おまけに観客の方もストレス耐性に乏しいらしく、イギリスのフーリガンをはじめとして、始末の悪い連中が少なくありません。

 1969年には試合結果を遺恨としたホンジュラスとエルサルバドルが数千人の死者を出す戦争を起こした(“サッカー戦争”または“100時間戦争”)ほどですから、やくざなスポーツというしかないでしょう。私の好む世界ではありません。

 しかしこの乱暴で粗野なスポーツに対して、私はある特別の思いがあります。それはサッカーが乱暴で粗野だからこそ、光る物語です。

 1998年のフランス大会でのことです。大量の日本人サポーターがフランスに渡ったものの、現地で渡されるはずのチケットが実際には存在せず、何千人もが路頭に迷うという事態が起こりました。競技場に入れない日本人は当局の指示に従ったまま町々を転々とし、指定された場所の大型モニターを見ながらの応援となったのです。おまけに試合も全敗ですので、最低です。

 しかしそんな状況にあっても、日本人サポーターは対戦相手へのエール、試合前後の国際交流、会場の清掃と、マナーの面で際立った姿を見せることを忘れませんでした。
 もともとJリーグ発足の当時から競技場にゴミ袋を持ち込み、試合後は清掃をして帰るのが習慣になっていましたから、フランスでも同じことができたのでしょう。これが、サッカー観戦は大暴れする場と心得ているヨーロッパの人々からみると、異様な光景だったのです。翌日の新聞には、日本人の態度を絶賛する記事が新聞各紙に載りました。その新聞の見出しのひとつはこうです。

「日本人、チケットはないが、エチケットならある」

 2008年の北京オリンピックのサッカーでは、こんどは選手たちの次のような姿が見られました。最近インターネットで拾った記事によるとこうです。

 2008年の北京五輪、日本対オランダ戦。スタジアムはまるでオランダのホームのようだった。中国人観客は日本に容赦ないブーイングを浴びせた。ところがどうだろう。試合後、日本代表の選手たちはたった1回の拍手も声援も送ることがなかった中国人観客の前に整列し、深々と一礼した。一部の中国人観客の粗野な態度が目に付いただけに、日本代表の素晴らしい態度が鮮明となった。さらに日本の各界が全力で北京五輪を支えたことは中国国民の胸をうった。

 日本人として強く誇りに思うと同時に、こうした伝統は絶対に残していかなければと思わされる出来事です。をしてその伝統を守る子を育てるのは、私たちです。

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2010/6/22

時代は変わる  教育・学校・教師


 「Always 3丁目の夕日」を映画館で見ている最中です。舞台は昭和33年ですが、ようやくテレビを買うまでに豊かになった自動車修理屋の主人が、感極まって言う、「戦争が終わって13年」という台詞に椅子から転げ落ちるほどのショックを受けました。私が生まれたのは、まだ戦争の傷の残る時代だったのだという驚きです。

 時間というものはそれに乗っている当事者にとっては長いものですが、振り返ってみるとほんとうに短いものです。今、若い、若いといわれる先生たちも「日韓共催ワールドカップをリアル・タイムで見た」というと驚かれる時代が来ます。すぐに来ます。

 さて、そういった振り返りの目で見ると、最近の学校問題だと思われていた不登校の歴史も、ずいぶん長くなりました。私が最初の不登校児(当時は登校拒否児といった)に会ったのは1978年のことです。新聞やテレビで騒がれ始めた不登校児と現実に出会った驚きに確かな記憶がありますから、不登校がマスコミの俎上に上がったのはそれより2〜3年前、つまり1975年くらいのことだったと思います。この1975年という年は記憶に値する年です。

 1975年、初めて高校進学率が90%を越えます。希望すればほぼ全員が進学できるようになったのです。同じ75年、カラーテレビと電気掃除機の普及率が90%を越えます。5年前の70年に90%を越えていた電気洗濯機・電気冷蔵庫と合わせて、基本的な電化製品がほぼすべての家庭に行き渡ったことになります。

 戦後経済は2段の階段を下ったことで知られていますが、1974年のオイルショックを克服した75年の経済成長率3・8%はその後15年に渡って横ばいのままです。それまで10%前後で推移していたことを考えるとたいへんな低成長時代になったのです(ところが91年にまた一段下がって平均0・8%の超低成長の時代が続きます。いわゆる平成不況です)。

 70〜75年は豊かさのピークにあったときです。それを越えたところから不登校が出てきたのはいかにも象徴的です。そしてそれから35年がたちました。

 ところで1975年から逆に35年遡るとどうなるかというと、もう太平洋戦争直前まで行ってしまいます。それどころか15年遡っただけでも、私たちの知るのとはまったく別な世界があります。たとえば昭和26年(1951年)発行の「山びこ学校」を読むと、貧しさのために学校にも通わせてもらえず、過重労働にさらされる何人もの子どもの姿が出てきます。学校に行けるのが幸せで仕方なかったのです。

 私の先輩の一人はこの翌年の生まれですが、彼が小学生だった昭和30年代(1955〜65年)のころですら、出身の山形村では土葬が行われていて、墓場を歩くと時おり地下で腐った棺桶のふたが崩れ落とし穴のようにはまったといいます。食卓はまだ板の間で、箱膳で食事をしていました。戦前と同じような暮らしをしていたのです。

 それから10年ほどで経済の頂点を極め、世の中の風景が今とあまり変わりないものとなり、子どもたちが働かない時代がきました。学校に行きたくて仕方ない時代が終わって行きたくない子どもたちが出現します。

 年寄りたちの言う「昔の教育はよかった」「昔の先生はこうではなかった」の『昔』は1975年までの30年程度のことです。「今の教育は」「今の先生は」の『今』は、ここ35年間のことです。そう考えると昔を懐かしむのではなく、そろそろ『今』の教育のあり方を本気で考え、生み出さなければならないことがわかってくるのです。


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2010/6/21



 本日は夏至です。

 二十四節気(春分・夏至・秋分・冬至・立春・立夏・立秋・立冬・小暑・大暑・処暑・小寒・大寒・雨水・白露・寒露・霜降・小雪・大雪・ 啓蟄・清明・小満・ 穀雨・芒種 )のひとつで、1年の中で最も昼間の長い日です。

 その日が6月にあるというのは案外気がつかないところです。真夏の太陽の印象から何となく8月初頭くらいが日が長いような気のしていること、梅雨の最中で曇っていることが多いこと、春分や秋分のお墓参り、冬至のカボチャやゆず湯といった行事・習慣のないこと、そのあたりに原因がありそうです。

 今日の太陽は最も北寄りの東から上り、最も北寄りの西に沈みます。しかし陽の昇る時刻が最も早いわけでも、日の沈む時刻が最も遅いのでもなく、日本の場合、日の出が一番早いのは夏至の一週間ほど前、日没が一番遅いのは夏至の一週間後ということになっています。

 夏至のこの日、白夜の範囲が最大となり北緯66・6°まで下がります。また南半球では極夜の範囲が最大となり南緯66・6°まで広がるのです。

 白夜というのは想像しにくいものですが、簡単に言うと、北極点では地平線近くを太陽が1日かけて右回りに360°回る感じになっているはずです。北緯66.6度付近でも似たような風景ですが、太陽は北の地平線近くから右回りに上がり始め、12時に真南で最も高くなり、24時に真北で沈みそうになって・・・しかし沈まない、そんな感じだと思います。
 そのあたりでは夏至が過ぎると、真北でいったん太陽が沈むようになり、秋分のころには、ほぼ真東から上がった太陽が真西付近に沈み、やがて日の出の位置も日の沈む位置も南に寄って行って、冬至近くになると太陽はちょこっと顔を出してすぐに消えてしまう、そして冬至の日はまったく出ない(極夜)。そんなふうになるのでしょう。

 行ったことがないのでわかりませんが。

 白夜の生活、極夜の生活というのも想像しにくいところです。しかし基本的には時計を見ながらの生活になるようです。一日中太陽が沈まなくても22時くらいになると厚いカーテンを閉めて「おやすみなさい」。朝は6時ごろにカーテンを開けて「あら、朝だわ」てなこと言っているのかもしれません。

 そう言えば極夜のシーズンの保育園で、日焼け用ライトの下を元気よく裸で歩き回る(ただしハイハイで)赤ちゃんの写真を見たことがあります。こんなことも日本では考えられません。冬の北極圏では車のエンジンもかからないので一晩中ヒーターで暖めています。帰宅してから車から引き出したプラグをコンセントに差し込む姿は、何十年も前から電気自動車を使っているような感じです。ちょっと見てみたいですね。

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2010/6/18

文化の香りのある学校  教育・学校・教師


 もはや地域で最も文化的な場所が学校ということはなくなりましたが、かつてはそうでした。

 学校は一種の文化センターで、学校に行けばオルガンがある、ピアノがある、懐中時計を懐に入れた校長先生がいると、文化の香りが色濃く広がっていたはずです。「二十四の瞳」の中で“小石”先生がスカート姿で颯爽と自転車をこぐ姿は、まさに文化そのものだったのです。

 文化の中心ですので一流の画家や書家も惜しみなく作品を寄贈しました。村で購入した書画の置き場所として学校が選ばれることも少なくありません。したがって歴史ある学校には必ずといっていいほど一流の作品があり、私もいくつかの学校で1点750万円の油絵やら40万円の書といったものをたくさん見てきました(「児童生徒はいいから、まずこの絵を救え」とからかわれたこともあります)。

 しかし不思議なことに、ない学校にはないといった傾向もあります。本校はその「ない学校」のひとつです。明治以来ずっと貧しい村だったのでしょうね。

 学校が宝物としている書画は、すべて比較的歴史の浅いものばかりです。しかしそれはそれで貧しいなりの学校を守ってきた村の様子が分かりますのでいっこうにかまいません。それとは別に、私たちが文化の香りを香らせればいいだけですから。

 私はこの学校を、文化の香りのする学校にしたいのです。

 複製でもいから名画の飾られている学校、
 良い曲の流れる学校、
 さりげなく詩歌が飾られていたり、
 科学や工芸の知識が自然に入ってくる学校、そんなものを思い描いています。

 イメージで言えば、ホグワーツ魔法学校です。



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2010/6/17

子どもを信じる  教育・学校・教師


 先日、ここにこんなことを書きました。

 子どもが刑事事件を起こして警察に呼ばれ、「親としてしっかり見ていたのですか?」と問われ、「子どもを信じていました」と言ったら笑いものでしょう。しかし多くの(教育の)専門家は「子どもを信じろ」と言います。それならどう信じたらよいのか。これについて語る専門家はほとんどいません。

 子どもを信じるといっても「ウチの子は万引きをしないだろう」とか「いじめの加害者にはならないだろう」とか「人の悪口は言わないだろう」とか信じることは愚かです。根拠がありませんから(普通は)。
以前、「先生、僕たちを信じないんですか」と聞かれて、「お前たちを信じていたら仕事にならん」と喝破した先生がおられましたが(生徒が呆れて報告に来ました)、私はそうは言いません。私だったらこういう言い方になります。

「ほんとうに信じていいんだね。今日からキミを信じることにしよう。キミは今日から私に逆らったりしない、毎日3時間から4時間の家庭学習に励み、勉強の成績も部活の成績もうなぎ上りにあげていく、そしてやがて一流高校から東大に進み・・・」と、全部言い終わらないうちにたいていは「先生〜! ボクを信じなくてもけっこうです」ということになります。
要するに「信じる」の意味が違うのです。

 子どもについてほんとうに信じられるのはひとつだけです。それは「どんな子どもでもすべて誉められたいと思っている、すごいやつだと言われたいと思っている」ということです。
 ある人はこれを「三つの『たい』―『誉められたい』『認められたい』『役に立ちたい』」といった説明をします。大村はま先生の、「子どもは高いものを求める」も行き着くところは同じでしょう。

 すべての子どもは誉められたいと思っている。これだけは信じられます。ですから中学校の場合、勉強かスポーツ、あるいは生徒会か何かで活躍できる子は、困難を抱える可能性がグンと低くなります。みんなから誉められる生活を捨てて何かをする必要がないからです。しかしどれをとってもぱっとせず誉められることのない子は、勉強やスポーツ、生徒会とは無関係な場で誉められるしかなくなります。

「お前の服、スゲー、カッコいなあ」「オメェ、そんなものまで盗んでくるのかよ、スゲーなあ」「お前、センコーにあんなこと言えるなんて、スゲーよ」

 子どもを信じるということは、子どもの中にある「良くなりたい、すごいと言われたい、誉められたいといった強い願い」を信じることであって、それ以外ではありません。

 どんな場合にもそうした願いが残っていることを信じ、それに働きかけろ、という意味です。



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2010/6/16

そのままでいいんだよ  教育・学校・教師


「子どもには『そのままのキミでいいんだよ』というメッセージが与えられなければならない」といった言い方があります。特に不登校指導の現場で多用される言葉ですが、非常に分かりにくく厄介です。
 学校は教育を本旨とし、行動変容や成長を目的とするところですから、この言葉を当てはめようとするとなかなかうまくいきません。子どもが「そのままでいい」などと思っている教員は一人もいないからです。しかしもっと厄介なのは家庭です。

 学校(特に担任)と児童生徒のつき合いはせいぜいが2〜3年、それに対して親兄弟と本人のつき合いはほとんど永遠です。息子や娘が30歳になっても40歳になっても「このまま」ではとてもかなわないと普通の親なら思います。それを「子どもには『そのままのキミでいいんだよ』というメッセージが与えられなければならない」と言われても困るのです。

 しかしこの「そのままのキミでいいんだよ」、すっと以前に聞いたことがあるような気がしませんか。

 そうです。大学の児童心理学か何かの講座で学んだ「エリクソンの発達課題」です。その最初の部分で彼は「基本的信頼感」という概念を提唱しています。それは

「母親の適切な対応により、赤ん坊のさまざまな欲求や不快感(オムツがぬれた・お腹が空いた・熱っぽい・あっちへ行きたい・これがしたい)が解消されると、子どもは『どうやらこの世界は信頼できそうだぞ』と感じるようになる。

 そして母親や周辺の人々に根拠のない信頼(絶対的信頼感)を寄せ、そんなふうに十分に大切にされる自分もまた信頼に足るという絶対的信頼感をもつようになる。

 これが基本的信頼感で、乳幼児期にこれを獲得した子は問題が少ないが、これに失敗すると『この世界は自分の手には負えない』『信頼できない世界だ』となり不信感が根づく。こうなると自分も他者も信じられなくなり、生きていくことは非常に困難になる」

といった説明がなされていたかと思います。

 そう考えてみると、何らかの困難を抱える子どもたちの少なくとも一部は、そうした「基本的信頼感」の獲得に失敗した子、あるいは何かの理由によって失ったか極端に弱めてしまっている子、ということになります。ここに問題解決のヒントがあります。

『そのままのキミでいいんだよ』
 この言葉の対象となるのは乳幼児ではありません。そのままでいいはずがないことは自分が一番知っています。だとしたらこの言葉をそのまま使うのではなく、意を汲んで態度として接していけばいいだけのことです。
要はこうです。

「世界はキミが思っているほど残酷でも、大変でもない。世界はキミを拒否しないし、キミがここにいたってちっとも迷惑でも嫌でもない。キミは学校にとっても友だちにとっても、私(先生)にとっても必要であり、キミが何であれ、世界はキミと繋がっていこうという気持ちを持っている。キミだって、自分自身が思っているより、ずっとうまくやれるはずだ」

 不登校の児童生徒がいると、放課後の体育館や教室で、やたらいつまでも遊んでいる先生がいます。その人たちがしていることは、こうしたメッセージを伝えることです。

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