2010/4/30

昔話の世界  教育・学校・教師


 有名な童話や昔話を知らない子どもが増えている、という記事が4月24日付の産経新聞に出ています(ネット上で拾いました)
それによると、

「桃太郎が鬼退治のときに腰につけた物について、2年の調査では3歳児の76%、5、6歳児の91%が「きびだんご」と正解。しかし、20年後の今回はそれぞれ22%、51%と低下。誤答にはパン、ケーキ、シチューといった洋食も挙がった。
桃太郎と一緒に鬼退治に行った「犬、猿、雉(きじ)」の理解は、20年間で3歳児は49%から22%、5、6歳児で89%から50%にそれぞれ下がった。おばあさんやキツツキなどのほか、アニメキャラクターの「アンパンマン」と“珍答”もあったという。

のだそうです。

 しかし私も小さなころは「今の子どもは何も知らない。立川文庫とか読んでいないから猿飛佐助も霧隠才蔵も知らない、大久保彦左衛門も知らない」とか言われましたが、その後、猿飛佐助や霧隠才蔵をまったく知らなくても人生に何の苦労もないことが分かりました。ですから桃太郎や浦島太郎を知らなくてもそれで困ることもそうはないはずです。実質的な意味はそうです。

 けれどそう言いながらも何となく釈然としないのはなぜでしょう。「そうは言っても桃太郎や浦島太郎くらいは知っていてほしい」と感じる気持ちは何なのでしょう。

 それはもしかしたら、桃太郎や浦島太郎が世代を越えて共有できるからかもしれません。桃太郎や浦島太郎は自分自身が子どものころ聞かされたものですし、私の父や母も子どものころ聞かされたはずの話だからです。祖父も祖母もその上の世代も、それぞれ赤ん坊の時代があって同じ話を聞かされたはず、そう信じられる物語がそうたくさんはあるはずがありません。

 さてところで、「桃太郎」に出てくる三匹の動物、サル・キジ・イヌはなぜキビ団子ひとつに命をかけるハメになったのでしょう。そう考えると謎は深まります。さらに、浦島太郎はあれほど開けてはいけないと言われた玉手箱を開けてしまったのだろう。それに「あっという間におじいさん」になってしまったのに、メデタシ、メデタシというのはなぜだろう。そもそも乙姫様は開けることもできない箱なんかをなぜプレゼントしたのだろう。「はなさかじいさん」のイヌはどこから来たのか? もともとの飼い犬が突然「宝物発掘の能力」を得ておじいさんに知らせたのかな? と、謎はいくらでも浮かんできます。そこが昔話の良いところです。

 そんなところから子どもと話してみるのも楽しいかもしれません。


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2010/4/28

教師は愛している  教育・学校・教師


 ある本の中で、評論家の尾木直樹が、「遠足にウチの子のお弁当を作ってくれ」と頼まれた担任の話を書いています。
 無体な保護者の要求に思わず
「それで作ったんですか?」
と尋ねるとその女性教師は
「ええ、作りました」
と答えます。さらに驚いて「何で作ったりしたんですか」と畳みかけると
「だって、その子、遠足に行けなくなってしまう・・・」。
 その時になって初めて、尾木はその担任がクラスの子を愛していると知るのです。

 尾木というのは教職経験のあることを売りにしている評論家ですが、教師が子どもを愛しているという事実を、その日まで知らなかったのかもしれません。

 先日、ある会合で酔ってロビーに出たところで運悪く、知り合いの市会議員をやっている男に捕まってしまい、そこでしばらく話をしました。そこで議員が盛んに不思議がるのは、
「先生たちはどうして親たちのあんな理不尽な要求を、まじめに聞くのですか」
ということでした。
 市会議員ですから、そうした情報は私たち以上に耳に入ってくるのです。こんな場合、世間の大方は教育委員会が怖いから言うことを聞くのだろうと思ったりしますが、そこは市会議員、教育委員会がそんなものではないことは百も承知です。だから不思議がるのです。

 そこで私はこんなふうに答えておきました。

『よく親たちは、「(学校に)子どもを人質にとられているから言いたいことも言えない」と言ったりしますが、担任も親に「子どもを人質にとられている」と感じているのです。

 教師は、子どもは親と学校が芯から手を携え、協力して育てていかなければ絶対にうまく育たないと確信しています。だから保護者とは絶対にケンカしたくないのです。親と決裂すると、その子に関するどんな教育も成り立たなくなります。どんな協力も得られなくなります。親とケンカしたことの不利益は、教師や学校が負うのではなく、その子が全身で背負わなければならないのです。だから担任はそうとうなところまで我慢します。理不尽を理不尽と跳ね除けることができないのです』

 議員は「そんなものですか」と、理解したようなしないような顔で去って行きました。

 教師が貴重な休日を、部活や各種競技会のために片っ端つぶしてしまうことも、夜遅くまで熱心に教材研究を続けているこことも、保護者からの電話が鳴れば何時間でも熱心に相談に耳を傾けることも、それらが仕事だからでも、金のためでも、ましてや出世のためでもなく、ただ、ただその児童生徒を伸ばしたいという愛情から出ているのだということ、それは世の中の人には呆れるほど理解できないことのようです。

 学校と世間の溝を埋めるのは、なかなか容易ではないのかもしれません。


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2010/4/27

靴を揃えること@  教育・学校・教師


 清沢先生の学年通信に、下足箱に入っている他学年の児童の靴を、黙って揃えてあげる6年生の話が出ていました。

 下足を揃えているところに当の持ち主が現れ、せっかく揃えた下足を手にすると、今度は上履きを乱暴に投げ込んで行ってしまった、それをもう一度、先の6年生が揃えてあげたという話です。得にはならないかもしれないが「徳」にはなる、そんなふうに締めくくっておられます。いい話ですね。そして、こうした場面に出くわすチャンスはなかなかありませんが、運よく出会えたときは清沢先生のようにきちんと評価してあげなければいけないなと、改めて思いました。

 さて、靴を揃えることについて、私にはある種のこだわりがあり前任校に赴任した際は朝晩2回、全校の500足を揃えて回ったことがあります。それは個人的な思いで始めたことですが、すぐに気がついたのは「これはかなりオイシイ仕事だ」ということです。と言うのは、行くたびに仕事が楽になっていったからです。

 最初は500足のほとんどに触れていたのに、1ヶ月もしないうちに触る靴の数が半分以下になり、3ヶ月もすると9割がたきちんと揃って後は多少手直しするだけで良くなりました。半年もすると、揃えなければならない靴は20足以下になります。

 大した努力もしないのに大きな成果が得られ、その上、私の靴揃えに気づいた先生たちからは私が誉められるわけですから、これでおいしくない訳がありません。

 しかしその間、何が起こっていたのでしょう。

 もちろん基本は「人は、きれいなところはきれいなまま維持したがる」という性質によります。汚いところをきれいにしろと言うのは難しいですが、きれいなところを維持するのは案外簡単なのです(これについては、空き缶などの不法投棄が繰り返される場所に花を植えたら投棄がなくなったといった話として知られています)。自分の靴がきちんと揃っていると、いつの間に自然とそろえるようになるのです。

 しかしそれで100%というわけには行きません。何十人かにひとりくらいの割合で、そうしたことが絶対できない子が確実にいるのです。クラス全体が揃うためには別の要素が必要で、その要素のあるクラスはほとんど100%、きちん靴が揃えられてきます。それは「黙って友だちの分も直してあげる、無名の同級生がいるかどうか」ということです。これについてはまた改めてお話したいと思います。


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2010/4/26

なぜ本を読むことが必要なのか  教育・学校・教師


 読書週間が始まりました。

 ところでなぜ私たちは本を読まなければならないのでしょうか。

 本を読む効用はさまざまにあります。読んでいなければ社会が分からないとか、光源氏と聞いて「ああ20年くらい前のアイドル・グループね」とか言っていたらバカにされるとか、他人の会話についていけないとか、心が貧しくなるとか、あるいはいつも読んでいなければ漢字を忘れえるとか、重要なことから瑣末なことまでたくさんあるはずです。それぞれ、人によっては思いが異なることでしょう。
しかしここでは子どもが本を読まなければならない理由を。三つに絞って考えたいと思います。

 まず一つ目は、「言葉は思考そのもの」だということです。
私たちは通常、日本語でものを考えています。それは普段意識されませんが、バイリンガルの人たちはしばしば自分が「日本語で考えている」「外国語で考えている」ということを意識するようです。ALTのショーンさんの頭の中は基本的に英語が駆け巡っていて、時折、日本語が混ざって走っているのかもしれません(西澤先生はその逆でしょう)。つまり人は母国語を思考の基本に据えているのです。

 したがって日本語で考えている以上、日本語が豊かでないと考えも豊かでないということになります。たとえば、「ほの暗い」と「ほの明るい」の差は非常に微妙でしかも決定的です。その差を理解できる人だけが、薄く明るい状況について語ることができます。言葉を知っていてそれを駆使できることは、それ自体が「頭が良い」ということなのです。

 第2は、間接体験ということです。
 人は、本当のことは体験からしか学べません。しかし人間ひとりが生涯に体験できることなどかなり限界があります。またいくら体験が大切だからといっても、体験できないことや体験してはいけないこともたくさんあります。たとえば宇宙飛行は今のところ体験不能ですし、薬物体験や交通事故体験は試してみることも許されません。したがってどうしても間接体験(もしくは代理体験)が必要になります。
映画や講演もありますが、読書は最も効率の良い間接体験の方法なのです。それを利用しないテはありません。

 第3に、読書には旬(しゅん)があるということです。
 私は自分の子どもにかなりの期間読み聞かせをしていましたが、子どもにせがまれて読みはするものの、まったく面白くないという本がいくつかありました。ピーター・ラビット・シリーズはその代表です。どうも子どもでないと分からないらしいのです。
同様に「十五少年漂流記」は自分が子ども時代に夢中になって読んだはずなのに、これもさっぱり面白くない(数学者の藤原正彦さんは、「クオレ」について同じことを言っています)。つまり、その年齢でなければ楽しめない、理解できない本がたくさんある、ということです。

 藤原正彦さんはご自身が見た、子ども向け文学全集のキャッチコピーを再三引用します。それは次のようなものです。
「早く読まないと、大人になっちゃう」
 この感じ、分かりますよね。

 本は、今、読まなければならないのです。




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