2010/1/29

成長の階段  教育・学校・教師


 ずいぶんと昔の話ですが、下の子が言葉が遅く、一時期は本気で心配したことがありました。こりゃダメかもしれないとほんとうに思い始めたころ突然に言葉が流れ始め、今度は止めるのが容易ではないほど納まらなくなってしまいました。ちょうど満水になったダムが決壊して、収拾がつかないような感じです。

 走り高跳びや鉄棒の指導をしている思うのですが、例えば「1m30cmを跳ぶ」とか「逆上がりができるようになる」といった目標を立て、がんばって練習をさせてもよほど能力のない子でない限りいきなりできたりはしません。運動の苦手な子などは、信じられないくらいダメなことがあります。ところが、不思議なことは、それでもがんばって練習し続け一度できると、今度は「できない自分」に戻ることがほとんどないのです。あれほど難しかった1m30cmや逆上がりは、どうしてあんなに難しかったのだろうと首を傾げるくらい簡単にクリアできるようになり、新たな目標の設定が必要となります。

 赤ん坊が歩けるようになることも、自転車に乗れるようになることもみんな同じです。語学だってある日突然「アレ? 自分、聞き取れてるじゃん」といった具合に、一気に成長の階段を登りきるようなのです。

 私が先輩から教わった最も重要な話のひとつが「子どもの成長は右上がりの直線ではなくて、不揃いな階段なのだよ」ということです。

 成長が停滞し、いくら努力しても延びない時期があって、しかしがんばっているとある日突然スコーンと抜ける感じで大きくステップアップする。そして再び停滞が始まるのですが、その時期の長さは誰にも分からない、そんな感じです(印象としては停滞と努力の時間が長ければ長いほど、上がるステージはさらに高くなるように思います)。

 学校の教科でいえば、国語などはかなり長い時間辛抱しないと成績は伸びませんし、しかし一度ステップアップすると、普通に努力している限り、階段を下りるということもありません(私のような年寄りでなければ)。

 それは子どもを励まし、その「子どもを励まし」ている自分を励ますときに、いつも思い出すことです。

 肝心なのは、延びない時期にがんばること!



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2010/1/28



 子どもの常識では測れない、著しく不自然に見える罪と罰の対応があります。例えば防犯ポスターを破っても大したことないが、選挙中の候補者ポスターを破ったらただではすまないといったような場合です。そこには子どもの知らない別のルールがあるのです。

 さて、人を殺しても死刑にならない例はいくらでもあります。交通事故で人を死なせても(普通)は死刑になりませんし、はっきりとした殺人でも死刑にならない場合はあります。しかし逆に、人間がひとりも死なせなくても最高刑が死刑という犯罪もたくさんあるのです。

「外国と通じて日本国を武力攻撃させた(刑法第81条:外患誘致)」
「外国が日本国に対し武力攻撃したときに、侵略国に軍事上の援助を与えた(刑法82条 外患援助)」な
どというのは理解できます(同時に日常意識していなければならないようなものでもありません)。

 しかし放火や爆発物の使用は、それだけで死刑になる場合がありますこれらは「現住建造物等放火=現在人がいる建造物・列車・船・鉱坑を放火して燃やした(刑法108条 現住建造物等放火)」「爆発物使用=治安を乱したり、人の身体や財産を傷つける目的で爆発物を使った、もしくは人を使ってやらせた(刑法117条1項前 激発物破裂)」と、明確に規定されているのです。したがって子どもの火遊びでもハンパでは済まされないのです。

 もうひとつ。

 水利の問題も早くから子どもに教えておかなければならないことです。水はかつて私たちの祖先が命を賭けて守ったものです。現在でも江戸時代の恨みを引きずり、いまだに川を挟んで市の境が確定しない町も県内にはあります(地図ではその部分だけ境界線が描かれていない)。

 したがって遊び半分でも用水の水路を変えたり、水を止めたりしてはいけないのです。最悪の場合、地域の人間関係に重大なヒビを入れたりします。

 選挙ポスターと火遊びと水利、置石・非常ボタンへのイタズラなどの列車妨害。一見大したことのなさそうな話ですが、これらはすべて「やったらただではすまない重大犯罪だということ」あらかじめ知らせておかなければ子どもがかわいそうなことになります。


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2010/1/27

ともにやっていこう  教育・学校・教師


 かつて同僚に恐ろしく優れた人がいました。授業も完璧、教室は整然と片付き、その中で子どもたちは実に生き生きと授業をしていました。団結力の強い、どこから見ても非の打ちどころのないようなクラスの日の打ちどころない担任です。ところが、このクラスから二人も三人も不登校の子が出るのです。

「私が何でもきちんとやりすぎるのがいけない、もう少し手を抜いてやらなければいけない、それは分かっているんですよ。でも、性分で手を抜くことがどうしてもできない・・・」

 そういって彼は嘆きます。しかし私の気持ちは複雑でした。

 私は、そこそこの成績の、だらしないクラスのだらしない担任でした。しかし不登校は出さない担任でもあります。その意味では、逆に彼の話を裏付けるようにも見えます。しかしそれでいいのかという思いもあるのです。

 私は、年下の彼を尊敬していましたし憧れてさえいました。その彼が授業や学級の質を落として、それで不登校の子がいっせいに学校に来るとしたら、それがメデタシメデタシの話だろうかということです。

 不登校は絶対に出してはいけません。それは最悪場合、一生涯の引きこもりにつながり、魂の死を意味するからです。しかしすべての子どもたちが、最良のクラスで最高の授業を受ける権利があるのもまた当然です。

 彼と一緒にいた10年ほど前には気がつかなかったことですが、きちんとして完璧なクラスの雰囲気について行けず、学校に来るのが苦痛な子をそれでも引きとめ、他の子と同じように伸ばしてやる方法はいくらでもあるはずです。きっとあります。

 私はともに、それをやっていきたいと思います。


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2010/1/26

右か? 左か?  知識


 昨日「左遷の日」だと言って、「アレ? なんで左なんだ」と右や左のことを考えているうちに良く分からなくなったのでもう一度整理します。

「左遷」は文字通り「左に遷(うつ)す」つまり右から左に移動することをいいます。古来、右手は高貴な手、左は不浄の手とされ、インドなど手で食事を取る国では絶対に左手で食物をもつことはありません。金を受け取るときは逆に右手を用いることはないと聞いています。したがって、右が高位、左が下位でいいようなものですが、記憶によれば右大臣より左大臣の方が偉かったような気がする・・・それで分からなくなったのです。

 調べた結果は以下の通り。

「右に出るものがいない」という言葉があるように、右が高位なのは原則、それは間違いないようです。「右に同じ」というのも、右にいる高位の人を慮り、敢えて反対しない様子を表します。と、ここまでは非常に筋が通っています。それにもかかわらず、左大臣・右大臣では左大臣の方が高位なのです。

 これは実は、左右大臣が天皇と対面していることを前提として考えないと分からないのです。つまり対面している天皇から見て、左側にいるのが高位(左大臣)、右側にいるのが低位(右大臣)ということになって、そこで帳尻が合うのです。

 しかし話はそこで終わりません。

 左大臣は向かって左、右大臣は向かって右、そう覚えて3月3日に内裏雛を見ると、なんとそこには向かって左に座る右大臣、右に座る左大臣、という不思議な光景が見られるのです(右の大臣の方が高齢に見えますから間違いありません)。これはどうしたことか。

 想像力を膨らませましょう。

 今から1000年くらい前の3月3日桃の節句の日、宮中にはたくさんの人がお祝いに駆けつけています。大内裏の正面、向かって左に天皇、向かって右に皇后が座ります。天皇・皇后側に立つと右に天皇、左に皇后ですからこれは正しい座り方です(ちなみに、結婚式の新郎新婦もこの形になります)。

 その天皇皇后に向かって(対面して)、第一列に三人官女が座り、第2列に五人囃子が座ってそれぞれ深々とお辞儀をします。三列目には左に右大臣、右に左大臣という通常の並びで左右大臣が座り、天皇に向かって深々と頭を下げています。

 そのとき庭に写真屋さんが現れてこういうのです。
「さあみなさん、記念写真を取りま〜す。天皇皇后お二方以外は、全員こちらを向いてくださ〜い」

 そして全員が180°振り向いてカメラに向かいます。
 ね、そうすると雛壇飾りとまったく同じ光景がそこに現れます。

 たぶんそういうことです。



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