2009/11/30

悪魔を育てる  教育・学校・教師


 ネオンテトラという熱帯魚を40匹ほど飼っていた時期があります。その飼育し始めのある日、水槽の内側にきれいな透明のタマゴが数十個もついていることに気がつきました。うれしくてうれしくて、さっそく孵化用の箱を買って水槽に入れ、毎日うっとりと眺めていたのです。

 ところが何日かすると、そのタマゴが箱の内側を移動し始めたのです。さらに数日すると内側が茶色く盛り上がってきて、2週間もしないうちに小さな巻貝となって一斉に這うようになりました。水槽本体でも採取しそこねたタマゴが一斉に孵化して、私の美しいアクア・パークはゴミ溜めのようになってしまいました。どうやら買ってきた水草についていた貝が産卵したらしいのです。

 以前「托卵」の話をしましたが、ホトトギスに托卵にされたウグイスの心境も私と同じかもしれません。また、アメリカのオカルト映画ではしばしばそれと知らず、悪魔の子を産み育てさせられるという話が出てきます。わが子が犯罪者となってしまった親の心境も、それに似たものかもしれません。

 育てるべき資質と摘み取るべき資質を、見誤ったり見落としたりすると、おそらくそういうことになるという話です。



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2009/11/27

その子の手札を見直す  教育・学校・教師


 以前お話した「受けてみたフィンランドの教育」という本の中に、フィンランド人は計算ができない、という話がありました。とにかく算数数学は授業もテストも電卓持込なので、計算をする必要がないのです。それも高校数学もできるようなスーパー電卓で、あまりにも扱いが厄介なので著者は手計算でテストを凌ぐのがやっとだったといいます。

 暗算というものがまるでダメなので、スーパーへ行っても支払の見通しということができません。

「おそらく、レジで計算してもらうまで、自分がいくらの買い物をしているのか分かっていないだろう」
 ましてや、985円の買い物に1035円出して50円玉のおつりをもらおう、などという高等なことはできませんから、財布の中はあっという間に小銭でいっぱいになってしまいます。

 学力世界一、読解力ダントツの背景にはこうした事情があります。同時にあれもこれもというわけには行かないのです。もちろんだからといってフィンランドの教育がダメだということにはならないのであって、暗算で見通しがつくことと高い読解力があることとではどちらがいいのか、というのは別の議論です。

 さて、教室の中にはさまざまにいびつな能力を持った子が満ち溢れています。「あれ」があれば「これ」がない、といった子どもたちです。中にはあれもこれもないように見える子もいます。しかしそんな子でも、実際にどれほど欠けているのか改めて検証して見ることも必要かもしれません。

 その子の持っている能力や欠けているものを洗いざらいテーブルの上に並べて、いったい何がいいのか、何が困るのか、どうしたらいいのか、何ができるのか、最初から検討しなおすのです。白い紙にただ書き並べて見るだけでも違います。きっと何か見えてきます。

 もちろん性格や能力には有機的なつながりがありますから、うっかりあっちをいじったらこっちがダメになったということも起こりがちです。安易に手をつけるのは危険ですが、それにしても見直しの機会を持たないとあらぬところへ子どもを連れて行ってしまうかもしれません。

 いよいよ通知票のシーズン。子どもを見直すにはいい機会かと思います。

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2009/11/26

懲りない性格  教育・学校・教師


 昔ご一緒させていただいた校長先生のひとりに、初孫をもって嬉しくてしょうがなく、しょっちゅう孫の話をしているような人がいました。

 その人の話の中で、階段を登るようになったのはいいが降りてこられないので必ず2階で泣く、大泣きするので行って降ろしてやると、いつの間にかまた登って泣いている、というのがありました。

「まあ、よく懲りないことで・・・」と言いかけて、校長先生は思い直したように「もっとも、懲りられても困るのだが・・・」とおっしゃいます。

 考えてみればと赤ん坊はしょっちゅうそんな調子で、生まれて初めて寝返りを打ったはいいが、うつ伏せ寝なんて慣れていないので苦しくて大泣きする、戻してやると喜んでキャッキャとやっているのだがすぐにまた寝返りを打っては大泣きする、そんなことの繰り返しです。

 伝い歩きの初期はこれも何度も尻から落ちて嫌な思いをするのですが、絶対にやめない。

 ようやく手放しで歩けるようになった時期はヨタヨタと半分走るような歩き方で、思ったのとは違う方向へ行ってしまうのにそれでも止めない。速度も安定性もハイハイの方が圧勝なのに、一度歩くことを覚えた赤ん坊は二度とハイハイに戻ろうとはしません。

 もしかしたら人間は、最初からこの「懲りない性格」とともに進歩して来たのかもしれません。一度できるようになったことは絶対に手放さないという強い性格があってこそ、進歩は着実なものになって行く、そんなふうに思うのです。

 何度言っても同じことを繰り返して叱られるおバカ息子、それも「懲りない性格」が悪しき表れをしているだけなのかもしれないのです。



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2009/11/25

ジャパン・クール!  教育・学校・教師


 私が最近読んだのは
マックス霧島 著「ハリウッドではみんな日本人のマネをしている」(講談社:2009)
と、
櫻井孝昌 著「世界カワイイ革命〜なぜ彼女たちは『日本人になりたい』と叫ぶのか」(PHP研究所:2009)
の二冊です。

 簡単に言うと、世界は今、空前の日本ブームで、ハリウッドやパリ、マドリッド・ローマといった町々に日本文化が満ちている、といった内容です。
 そうした文化面で評価あるいは文化そのもののあり方は、クールジャパン(CoolJapan)またはジャパンクール(Japan Cool)と呼ばれ、世界を席巻しているようなのです。

 その第一は、マンガ・アニメ・ゲームを中心としたアキバ文化。

 第二に、ロリータ、ゴスロリ、かつて女子高制服に似た私服「なんちゃって制服」(というのだそうです)を中心とした原宿ファッション。

 第三は、美しさと健康面で圧倒する日本食文化。 

 第四に、日本古来文化のうち、特に精神性や癒しを重視した側面―禅・武道・盆栽など(そうした雰囲気は「禅」という言葉で総称されます)

 五番目は以前からあったハイブリット・カーを初めとするハイテク文化。

 六番目に日本的組織論など、生活全体の様式、


「いま日本では何が流行ってるの?」「こんな時、日本人ならどうする?」 そんな言葉をハリウッドの映画人から投げかけられるのは、僕にとってもはや日常茶飯事だ。(中略)いまやアメリカの各業界では「日本を真似ろ」「日本に追いつけ、追い越せ」がキーワードになっているといって も大げさではないくらいの状況だ
などという部分を読んでいると、ウキウキしてきます。

「日本が世界からどれほど愛されているか、日本人は知らない」

 人は年を取ると民族主義者になると言われていますが、ガチガチのナショナリストとしては非常に気分の良い読書体験でした。


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2009/11/24

組み合わせの効能  教育・学校・教師


 先週の共同通信のニュースに
『「ウイルスカット99%」は過大 インフル用マスク』
 というのがありました。

 それによると
「国民生活センターによると、15商品のうち、ウイルスの捕集効率95%以上は3商品だけだった。6商品は80〜95%、2商品が60〜80%で、50%以下も4商品あった」
 とのことです。

 つい先日まで、テレビなどでは「マスクはインフルエンザにまったく役に立たない、ウィルスはマスクの不織布の目を軽くすり抜けてしまう」などといっていましたから、「何だ、結構捕まえられるんじゃないか」というのが素直な感想です。

 さて、一般に、手洗いで感染を防げる確率は65%だといわれています。したがってマスクのウィルス捕獲率を80%と仮定すると、手洗いとマスクで93%の感染防止効果がある、ことになります。これだけあればかなり安心できます。

 さらに「うがいにも意味がない」といった主張もありますが、仮にその予防効果が20%程度だったにしても、マスクと手洗いを組み合わせた場合の効果を、さらに1.4%引き上げます。

 いずれにしろ、よいといわれることは全部しておかなければ損、ということです。

 大人はかかりにくいと思われてきた新型インフルエンザ、ここにきて私たちの大人にも魔の手を伸ばしてきそうです。注意の上にさらに注意を重ねましょう。

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2009/11/20

美しさを学ぶ  教育・学校・教師


 リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトストラはかく語りき』は『2001年宇宙の旅のテーマ』という題名で有名ですが、これはシュトラウスがニーチェの哲学的著作『ツァラトストラはかく語りき』を呼んだときの感動を表現したものだと言われています。

 ところで、ニーチェの感動を表すシュトラウスの曲に感動してしまったら、もうニーチェを読む必要はないのでしょうか。

 もちろん、否です。ひとつの芸術のすばらしさを、別の芸術が代弁することはできません。

 同様に、ピカソの絵のすばらしさを文章で表現することはできません。ピカソのすばらしさはピカソを見ることでしか得られないのです。


 道徳教育というのは、人の生き方や立ち振る舞いの美しさに、子どもをふれさせることから始まります。その体験を通して、自分もかくありたいと願いを持ち、実際にそちらに向かって歩き出させることを企図しています。

 困っている人や弱い人を助けるのは、それが美しいから行うのです。人知れず善行を積んだり、影日向なく働くのも、そうした生き方が美しく心地よいから行わなければならない、行いたくなる、そういうものなのです。

 しかし、ニーチェに感動したりシュトラウスに酔いしれたり、ピカソの絵の前で呆然と立ち尽くすために非常に多くの経験を積まなければならないように、美しい行いが自然とできるようになるには、非常に多くの道徳的体験が必要となります。

 もちろんそういう機会が多ければ多いほど良いのですが、直接体験だけではどうしても不足しがちです。週一回の道徳の時間は、そうした不足を補うためにあります。それが道徳の時間の意味なのだと私は考えます。




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