2009/10/6

オンリーワン アズ ナンバーワン  教育・学校・教師


 SMAPの「世界に一つだけの花」は、熱烈なファンもいる代わりに、批判的な人も多い曲です。

「No.1にならなくても いい」はいいにしても、何の努力も才能もなしに「もともと特別な Only one」と認めても良いものかというのが、後者の人々の主張です。私もそう考えます。

 特に不登校問題が複雑になってから、私たちはあらゆるところで「子どもには『今のままでいいんだよ』『今のままの君で、十分に愛されているんだよ』というサインを送りなさい」と指導されています。それが子どもの居場所を生み出し、再び生きるエネルギーを与えるのだと言うのです。

 それは一面正しいのですが、その子がその子であるというだけの理由で大切にされるのは、現実にはせいぜいが家族の中だけです。

 通信教育のユーキャンのコマーシャルで、玉木宏が就職面接に行き「元ボクサーねえ、他に何かないの? 役に立つもの持ってないの?」と笑われる場面がありましたが、少なくとも企業が必要なのは能力であって、存在ではありません。

 学校社会でも「九九がまったくできなくてもいい」「漢字が丸っきり読めなくてもいい」、キミはそのままのキミで十分に大切にされるんだよ、というわけには行きません。ひねくれものでも、わがままでもいい、「もともと特別な Only one」なのだから大切にしようとは、どうしても言えないのです。この矛盾はどう解けば良いのでしょう?

 これについて、私は最近、ある重要なヒントをえました。それは三田紀房の漫画『ドラゴン桜』の中にあるという、次の台詞です。

「オンリーワンというのはその分野におけるナンバーワンだ」

 人間はやはりナンバーワンでなくてはなりません。そうでなければいきいきと生きて行くことはできないのです。

 勉強ナンバーワンでも、算数だけのナンバーワンでもかまいません。お掃除ナンバーワンだって鉄棒ナンバーワンだって、あるいは挨拶ナンバーワン、笑顔ナンバーワン、何でもけっこうですが、「その分野でナンバーワン」であることによって「オンリーワン」であることが認められる、そうでないと、自分で自分を大切にすることすらできません。

 何かのナンバーワンであってそのためにオンリーワンとして大切にされること、そう考えて初めて、ふたつの関係ははっきりしてくるように思うのです。



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2009/10/5

罪は暴き切らなくてはいけない  教育・学校・教師


「確かにウチの子も悪いが、先生の注意の仕方には問題がある」と言って最終的に教師に謝らせ、結局「ウチの子」の事件についてはウヤムヤにしてしまう保護者のやり口を、私は「相殺法」と呼んでいます。
 教師の指導の方法が気に入らない(特に「強すぎる」)と言って非難してくる親というものはここ数年のことではないでしょうか。

 どうやら保護者は、怒鳴ったり怒ったりしなくても子どもが素直に謝り反省する魔法のような方法を教師なら持っているはずだ、と思い込んでいるふしがあります。ですから教師が怒鳴ったり汚い口をきいたりすると、「他に方法があったはずだ」とか「信頼関係さえあれば、子どもは素直に従ったはずだ」といった言い方になります。しかし、実際にそんな便利な方法はめったにありませんし、あるにしても「普通の教師」がだれでもできることとも思いません。

 私自身は今日まで「指導が厳しすぎて不適切」ということで保護者から責められたことはありません。しかしそう言われたら次のような言い方で返答しようと思っています。

 子どもが悪いことをした時、私は怒鳴っても脅しても、なだめてもすかしても(昔なら暴力をふるってでも)絶対に白状させ、謝らせなければならない、少なくともその直前まで追い込まなければならないという思いがあります。そうしなければその子が可愛そうだと思うのです。

 犯罪がばれずに済んでしまったとき、それでまんまと逃げおおせたと喜ぶような子は、また同じことを繰り返し、罪を大きくしますからその意味で可愛そうです。

 一度で懲りてもう絶対にやるまいと思っている子も、ばれなかったことで叱られることも許されることもありませんから可愛そうです。告白もない代わりに許しもない、誠実な子であればあるほど、してしまったことの記憶は長く引きずらなくてはなりません。

(私自身、犯罪ではありませんが、勇気がなかったばかりにすべき親切をしなかった小学校2年生の記憶を、長く引きずりました)

 悪いことをしたら洗いざらい告白し、罰を受け、許しを与えられ、その上ですべて忘れる、そうした手続きが必要です。

 だから私は容赦しません。

 そういうことです。


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2009/10/2

あきすとぜねこ  言葉


 昨日のことですが、どういう脈絡か、突然小田先生が「あれ?『あきすとぜねこ』って何だったっけ?」とか言い出しました。


 私には一瞬「空き巣とゼネコン」と聞こえたのですが、「空き巣とゼネコンどちらが『悪』か」といった話ではなさそうですし、アリストテレスは哲学者だし、ネブカドネザルはメソポタミヤの王様だし・・・とか思っているうちに、やはり「あきすとぜねこ」には記憶のないような気がしてきました。

 そこで調べてみるとこれは一種の恋占いで、むかしけっこう流行った遊びのらしいのです。

 自分と好きな人の名前をローマ字で書いてから、共通する文字を消しあっていく。そうしてそれぞれ残った文字を数えるのです。

 それがひとつなら「(あ)愛している」、2文字なら「(き)嫌い」、以下「(す)好き」「(と)友だち」「(ぜ)絶交」「(ね)熱中」「(こ)恋している」となり、自分の気持ち(自分の名前から残った文字数)と相手の気持ち(相手の名前からの文字数)が明らかになるというものです。
 何とも他愛なく可愛らしい遊びです。

 私自身は、世代がずれているのかたまたま周辺で流行らなかったのか、いずれにしろこの遊びはしたことはありません。しかし同様に他愛なくかわいいい遊びの思い出はたくさんあります。

 今の子どもたちが受けている強烈な刺激とは、まったく異なり、ゆったりとした時間の中にいた時代です。

 現在の仮面ライダーのように猛烈なスピードのバイクで走りだすのとは違い、月光仮面も少年ジェットもスクーターでトコトコと現場に駆けつけました。しかし悪人たちもまだ、現場でゆっくりと犯罪をやっている最中でした。

 それにしても小田先生、なぜ突然にそんなことを思い出したのでしょう?

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2009/10/1

私の深イイ話  教育・学校・教師


「人生が変わる1分間の深イイ話」という番組が流行っているそうですが、私の深イイ話のひとつは、10年近く前、当時大学生だった甥っ子が、進路について語った次の一言です。

「オレ、自分のできることの中に、やりたいことがないんだよね」


 私自身も高校・大学と、自分が何をやりたいのか、ほんとうに就きたい仕事は何なのかずいぶん悩んできましたから、この言葉はとても新鮮でした。
 
 ああ、そうなんだ、あの頃の自分の悩みは結局はそういうことだったんだと、数十年の間にさらに厚くなった目のウロコが、音を立ててドサッと地に落ちる感じでした。

 今の石川遼のようにゴルフに才能があったら、小栗旬と同じような魅力と魔力に恵まれていたら、あるいは田中将大のように野球がうまかったり、かつてのホリエモンのように株を自由に動かす力があったら、進路なんて何の問題もない。場合によれば、ゴルフが好きか俳優になりたいかどうかということだって、問題にならないのです。

 じかし現実の自分ができそうなことをざっと見ると、そこには思わずやりたくなるような仕事が何もない。

 やりたいこと、ほんとうに就きたい仕事がないわけではなく、 悩ましいのは、何の取り得も、才能も、力もない、という実力不足そのものなのです。

「オレ、自分のできることの中に、やりたいことがないんだよね」
 この言葉を思い出すたびに、やはり子どもには力をつけて上げなければと思います。

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