2009/7/31
オバタリアン的発想の転換 教育・学校・教師
今朝、たまたまA市内(隣町)を走っていたら、町のあちらこちらでラジオ体操をしている様子を見かけました、朝7時に!
もちろんラジオではなく、テープかCDを使っての体操です。
朝の30分がいかに大切かということも分からないではありませんが、6時半のラジオ体操を7時のテープ体操にしてしまおうと思いついて実行した、最初の人はだれなのでしょう。ある意味、非常に敬服します。
6時半にラジオ体操をするというのは、夏の暑い時期は少しでも早い時間から動き出さなければ昼は勉強などとてもできないとか、巡回体操ですので放送をきくことによってあちこちの土地を思い浮かべることができるとか、あるいは全国で何百万もの人が一斉に同じ動きをする一体感だとか、さまざまな理由があってのことです。もちろんそういった理由はよく考えなければ思いつかないもので、実際にはなんとなく昔ながらの6時半に価値あることだと思い込んでいるだけのことです。しかしそうした思い込みには意味がある場合が少なくありません。
実は学校の中には、そういった「思い込みでやっていて、よく考えると実はやっぱりそれなりに深い意味のあること」が、たくさんあります。小学校で並んで教室を移動すること、無言で清掃すること、靴を揃えること、授業の最初と最後に挨拶すること、教員同士が「先生」と呼び合うこと、授業が45分か50分であること、義務教育が6歳から12歳までと13歳から15歳までの二つに分けられていることなど、全部そうです。
昔「オバタリアン」というマンガがあって、現実世界にもマンガそっくりな女性の一群がいました。この人たちの最大の特徴は「ユニークな発想」と「行動力」です。誰も思いつかないことを考えついて、すぐに実行してしまいます。しかしその「誰も考えつかなかった」事項の中には、私たちが無意識のうちに、禁じ手として封印してしまったものが山ほどあるのです。
もちろん中には、まったく意味のない、あるいは意味のなくなった禁じ手というものありますから見直したほうがよい場合もないわけではありません。しかしオバタリアン的な発想で押し切られる前に、一度立ち止まって、本当に意味がないのか、じっくり考えて見ることはぜひとも必要です。
何しろ近代教育だけでも120年も歴史を持つ世界です。今まで長らえてきたものを簡単に直すと、後悔する場合も少なくないのです。
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もちろんラジオではなく、テープかCDを使っての体操です。
朝の30分がいかに大切かということも分からないではありませんが、6時半のラジオ体操を7時のテープ体操にしてしまおうと思いついて実行した、最初の人はだれなのでしょう。ある意味、非常に敬服します。
6時半にラジオ体操をするというのは、夏の暑い時期は少しでも早い時間から動き出さなければ昼は勉強などとてもできないとか、巡回体操ですので放送をきくことによってあちこちの土地を思い浮かべることができるとか、あるいは全国で何百万もの人が一斉に同じ動きをする一体感だとか、さまざまな理由があってのことです。もちろんそういった理由はよく考えなければ思いつかないもので、実際にはなんとなく昔ながらの6時半に価値あることだと思い込んでいるだけのことです。しかしそうした思い込みには意味がある場合が少なくありません。
実は学校の中には、そういった「思い込みでやっていて、よく考えると実はやっぱりそれなりに深い意味のあること」が、たくさんあります。小学校で並んで教室を移動すること、無言で清掃すること、靴を揃えること、授業の最初と最後に挨拶すること、教員同士が「先生」と呼び合うこと、授業が45分か50分であること、義務教育が6歳から12歳までと13歳から15歳までの二つに分けられていることなど、全部そうです。
昔「オバタリアン」というマンガがあって、現実世界にもマンガそっくりな女性の一群がいました。この人たちの最大の特徴は「ユニークな発想」と「行動力」です。誰も思いつかないことを考えついて、すぐに実行してしまいます。しかしその「誰も考えつかなかった」事項の中には、私たちが無意識のうちに、禁じ手として封印してしまったものが山ほどあるのです。
もちろん中には、まったく意味のない、あるいは意味のなくなった禁じ手というものありますから見直したほうがよい場合もないわけではありません。しかしオバタリアン的な発想で押し切られる前に、一度立ち止まって、本当に意味がないのか、じっくり考えて見ることはぜひとも必要です。
何しろ近代教育だけでも120年も歴史を持つ世界です。今まで長らえてきたものを簡単に直すと、後悔する場合も少なくないのです。

2009/7/30
でんでんむしの悲しみ 歴史・歳時・記念日
今日7月30日は、新美南吉(にいみ なんきち、1913年7月30日 ― 1943年3月22日)の誕生日だそうです。
南吉は愛知県半田市の出身で、本名は新美正八(旧姓:渡辺)、複雑な家庭に育ち、生涯病弱なまま過ごしてわずか29歳で結核で亡くなった人です。ごく短い教員経験と貿易商社員の経歴があります。独身で、もちろん子どももありません。
言うまでもなく「ごんぎつね」の作者として有名ですが、私は最近、この人の「でんでんむしの悲しみ」という物語を知りました。
でんでんむしの悲しみ 新美南吉
一匹のでんでんむしがありました。
ある日、そのでんでんむしは、たいへんなことに気がつきました。
「わたしは今まで、うっかりしていたけれど、わたしの背中の殻の中には、悲しみがいっぱいつまっているではないか。」
この悲しみは、どうしたらよいでしょう。
でんでんむしは、お友だちのでんでんむしのところにやっていきました。
「わたしはもう、生きていられません。」
と、そのでんでんむしは、お友だちに言いました。
「なんですか。」
と、お友だちのでんでんむしは聞きました。
「わたしは、なんという、不幸せな者でしょう。わたしの背中の殻の中には、悲しみが、いっぱい詰まっているのです。」
と、初めのでんでんむしが、話しました。
すると、お友だちのでんでんむしは言いました。
「あなたばかりではありません。わたしの背中にも、悲しみはいっぱいです。」
それじゃしかたないと思って、初めのでんでんむしは、別のお友だちのところへ行きました。
すると、そのお友だちも言いました。
「あなたばかりじゃありません。わたしの背中にも、悲しみはいっぱいです。」
そこで、初めのでんでんむしは、また別の、お友だちのところへ行きました。
こうして、お友だちを順々に訪ねて行きましたが、どの友だちも、同じことをいうのでありました。
とうとう、初めのでんでんむしは、気がつきました。
「悲しみは、だれでも持っているのだ。わたしばかりではないのだ。わたしは、わたしの悲しみを、こらえて行かなきゃならない。」
そして、このでんでんむしは、もう、嘆くのをやめたのであります。
私は子どものころとても貧乏でしたが、日本中が貧乏でしたので何の苦しみもありませんでした。
小学校の頃、クラスにジャイアンみたいなヤツがいて、あとから考えるとプロレスゴッコにつき合わされたりしてずいぶんイジメられていましたが、そんな子は他にもいっぱいいましたから、大人になるまで自分がイジメられていたことに気づきませんでした。
そういうことです。
今は何が違うのでしょう?
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南吉は愛知県半田市の出身で、本名は新美正八(旧姓:渡辺)、複雑な家庭に育ち、生涯病弱なまま過ごしてわずか29歳で結核で亡くなった人です。ごく短い教員経験と貿易商社員の経歴があります。独身で、もちろん子どももありません。
言うまでもなく「ごんぎつね」の作者として有名ですが、私は最近、この人の「でんでんむしの悲しみ」という物語を知りました。
でんでんむしの悲しみ 新美南吉
一匹のでんでんむしがありました。
ある日、そのでんでんむしは、たいへんなことに気がつきました。
「わたしは今まで、うっかりしていたけれど、わたしの背中の殻の中には、悲しみがいっぱいつまっているではないか。」
この悲しみは、どうしたらよいでしょう。
でんでんむしは、お友だちのでんでんむしのところにやっていきました。
「わたしはもう、生きていられません。」
と、そのでんでんむしは、お友だちに言いました。
「なんですか。」
と、お友だちのでんでんむしは聞きました。
「わたしは、なんという、不幸せな者でしょう。わたしの背中の殻の中には、悲しみが、いっぱい詰まっているのです。」
と、初めのでんでんむしが、話しました。
すると、お友だちのでんでんむしは言いました。
「あなたばかりではありません。わたしの背中にも、悲しみはいっぱいです。」
それじゃしかたないと思って、初めのでんでんむしは、別のお友だちのところへ行きました。
すると、そのお友だちも言いました。
「あなたばかりじゃありません。わたしの背中にも、悲しみはいっぱいです。」
そこで、初めのでんでんむしは、また別の、お友だちのところへ行きました。
こうして、お友だちを順々に訪ねて行きましたが、どの友だちも、同じことをいうのでありました。
とうとう、初めのでんでんむしは、気がつきました。
「悲しみは、だれでも持っているのだ。わたしばかりではないのだ。わたしは、わたしの悲しみを、こらえて行かなきゃならない。」
そして、このでんでんむしは、もう、嘆くのをやめたのであります。
私は子どものころとても貧乏でしたが、日本中が貧乏でしたので何の苦しみもありませんでした。
小学校の頃、クラスにジャイアンみたいなヤツがいて、あとから考えるとプロレスゴッコにつき合わされたりしてずいぶんイジメられていましたが、そんな子は他にもいっぱいいましたから、大人になるまで自分がイジメられていたことに気づきませんでした。
そういうことです。
今は何が違うのでしょう?

2009/7/29
雨です 歴史・歳時・記念日
夏休みだというのにスカッとせず、毎日よく降ります。
そういえば一昨年の夏もそうで、今年よりずっと寒く、プールもほとんどできませんでした。そのまま平成5年の再来で、深刻な冷害かと思っていたら8月半ばから急に暑くなり、9月に暑さのピークがきて運動会の延期まで考えなければならないくらいの猛暑になってしまいました。桜の葉が赤っぽくなって、もしかしたら何本かは枯れてしまうのではないかと思わせるほどの暑さです。
異常気象といえばそれまでですが、もう20年以上前から毎年のように異常気象と言われていますから、気候というものはそもそもそういうものなのでしょう。
さて今年の夏は、これからどうなっていくのでしょうね。
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そういえば一昨年の夏もそうで、今年よりずっと寒く、プールもほとんどできませんでした。そのまま平成5年の再来で、深刻な冷害かと思っていたら8月半ばから急に暑くなり、9月に暑さのピークがきて運動会の延期まで考えなければならないくらいの猛暑になってしまいました。桜の葉が赤っぽくなって、もしかしたら何本かは枯れてしまうのではないかと思わせるほどの暑さです。
異常気象といえばそれまでですが、もう20年以上前から毎年のように異常気象と言われていますから、気候というものはそもそもそういうものなのでしょう。
さて今年の夏は、これからどうなっていくのでしょうね。

2009/7/28
子どもは犯罪者に育つこともある 教育・学校・教師
ここのところのニュースを見ていると、犯罪や事故の被害者の方にも問題があるのではないかと思わせるものが立て続けに起こっています。被害者は被害者ですので、その非は追及しないという建前になっていますが、それにしても首を傾げざるを得ません。
翻って今の保護者を見ると、犯罪の被害者になるのではないかという恐怖は異常に高いのに、犯罪の加害者になる可能性などは露ほどに感じていないように思われます。
例えば、犯罪の被害者にならないよう、常に他人には不審の目を向けていなさい、という指導は、そのまま、人を信じない、人を人と思わない子どもを育てていることになるのかもしれません。
程度こそあれ、あまりにも変な子どもを育ててしまったら末代の恥、そんなふうに考える親は少ないのでしょうか。昔に比べると「家」という概念はとてつもなく廃れてしまいましたが、それにしても目を覆いたくなうような惨状だと、昨日はそんなことを考えました。
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翻って今の保護者を見ると、犯罪の被害者になるのではないかという恐怖は異常に高いのに、犯罪の加害者になる可能性などは露ほどに感じていないように思われます。
例えば、犯罪の被害者にならないよう、常に他人には不審の目を向けていなさい、という指導は、そのまま、人を信じない、人を人と思わない子どもを育てていることになるのかもしれません。
程度こそあれ、あまりにも変な子どもを育ててしまったら末代の恥、そんなふうに考える親は少ないのでしょうか。昔に比べると「家」という概念はとてつもなく廃れてしまいましたが、それにしても目を覆いたくなうような惨状だと、昨日はそんなことを考えました。
