2009/6/30

今こそ危ない(?)  教育・学校・教師

梅雨になると終わると信じられていた新型インフルエンザの感染が、一向に収まりません。昨日の時点で感染者は1200人超。感染確認は42都道府県に広がっています。

 最初のピークは大阪・兵庫両府県を中心に1日当たり67人が発症した5月17日で、その後発症者数1ケタが10日あまり続いたものの、感染者数は再び上昇に転じ、6月10日には1日で42人も発症しています。最近で言えば26日から29日までの4日間で159人が新たに発症していますから、ほぼ同様のペースで続いていると考えてよいでしょう。

 ところが一方、「新型インフルエンザの流行は一応終焉した」という雰囲気も蔓延し、プロ野球の球場では一時中止していた風船飛ばしも再開されています。

 最初のインフルエンザ・パニックときは、1億2000万人中の1人〜2人が発症しただけなのに大騒ぎでした。そして静かに広がっている現在は、インフルエンザなどまったくなかったかのように冷静です。

 こうした、患者が少ないときに恐慌に陥り、継続的に出ているときに安心してしまうという錯誤は、間違いなくマスコミによってもたらされたものです。実際に何が起き、何に注意しなければならないかは、マスメディアに踊らされることなく、私たち自身が決めていかなくてはなりません。

 食中毒の時期でもあります。改めて感染症について注意を向けておきたいものです。


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2009/6/29

選ばれし者  教育・学校・教師

 陸上部の先生方、土曜日はご苦労様でした。
 6年女子100mのYさんが2位、5年男子100mのOくんが5位、走り高跳びのKくんが7位という好成績でした。来年に向けて励みとなる成績です。

 しかし県大会となるととんでもない子がいるものです。選手は各地区から二重の選別(地区大会・地域の大会)を経て選ばれてきたエリートですから、どの種目も実力伯仲、ほとんど横一線かと思うとそうでもありません。速い子はとんでもなく速く、ぶっちぎりでテープを切ってしまうのです。
「スプリンターは育てられない、ただ生まれるだけだ」
という言い方がありますが、長距離とは違って、短距離走やジャンプは努力ではどうしようもない天分の世界なのです。

 天分・才能のことを英語で”gift”と言うのだそうです。神様からの贈り物という意味でしょう。
 私は神様からプレゼントをもらい損ねた一人ですから、子どものころ、スポーツで表彰を受けるような同級生が羨ましくてなりませんでした。彼ら”選ばれし者“は、華やかでカッコウよく、キラキラ輝いて見えたのです。それだけに、彼らがただ栄光を楽しむだけだったりすると許せない気持ちにもなりました。私はギフトがないばかりに、地味で少しもカッコウ良くないのです。才能ある彼らが何の苦しみもないとしたらそれは不公平です。

 才能ある者は才能あるがゆえに、その才能を限界まで伸ばす義務がある、そう考えて初めて、私の気持ちは落ち着きます。彼らには頑張ってもらわなければならない、限界まで努力してもらわなければならないと思うのはそういうときです。
 
 スポーツ以外にも、絵画・音楽・国語・理科・社会・・・才能ある者は限界まで伸ばすよう、努力させましょう。
 
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2009/6/26

オラショ  知識

 隠れキリシタンは今もいるというと、意外に思う人が多いのですが、現在も長崎県を中心に推定で3万人も存在します。

 明治維新後に禁教が解かれた際、隠れキリシタンの多くはもとのカトリックに復帰したのですが、復帰しきれない人も残りました。彼らの信仰は長い禁教時代に神道や仏教と結びつき、教義などがずれて極端に日本化していました。そこでカトリックには戻れないと感じた人々がいたのです。
 学術的には「カクレキリシタン」とカタカナで書き、隠れることが重要な要素ですので、現在も実数は分かりません。

 そのカクレキリシタンたちが口伝してきた祈祷文を「オラショ」と言い、その中には「歌オラショ」と呼ばれる聖歌が含まれています。

 オラショは紙に書き取ってはならない上に1年間うちのわずかな期間にしか伝承されませんでしたから、昔は夜中に外に見張りを立て、教える者と教わる者とが布団をかぶって習ったといいます。200年の間(ある意味では現在までの350年もの間)、この人たちは信仰とともに歌を手放さなかったのです。

 ゴスペルはアメリカの黒人奴隷が教会でのみ歌うことを許されたところから発達した、という話を聞いたことがあります。

 日本のカクレキリシタンも同じように、歌を中心に団結を守り続けました。音楽にはそうした素晴らしい力があるのです。

 さて今日は音楽会。
 各クラスの団結の様子を見に行きましょう。


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2009/6/25

知的虚栄心の話  教育・学校・教師

 先日読んでいた雑誌の中で「知的虚栄心」という言葉に出会い、心ひかれたのでお話します。知的な分野での見栄っ張りのことです。

 そういえば私自身、どこにでも首を突っ込み「ボク、それ知ってるよ」と一通り口を出さなければ気のすまない性質でした。おまけに著しい知的自己チューで、自分が知って楽しかったことは他人も楽しいに違いないと思い込んでいますから、始末に負えません。嫌なガキだったものです。もちろん今でもそんなガキはまま見られます。しかしそのあとが少し違っています。

 長じて高校生のとき、大学生の愛読書のトップがドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」だと聞くと、これだけは先取りして高校生のうちに読んでやろうと誓い、大学生になるとマルクスの「資本論」とサルトルだけは読んでおかないと恥だと、本気で信じていたのです。問題は、これが私という特異な少年の特異な物語ではなく、そんな高校生、そんな大学生はウジャウジャいて、むしろ主流だったということです。今はおそらくそういうことはないでしょう。

「見栄で家を飾ることが生活を豊かにし、見栄で善行を重ねることが社会を豊かにするように・・・」と雑誌にはありましたが、見栄で知的な蒐集を重ねることがどれほど高い知的水準を維持してきたか、改めて考えさせられた一文でした。

 そんな見栄っ張りな、アカデミズム(学問至上主義)みなぎる学校をつくりたいものです。


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